◆第7章 Scotoma(暗点)◆
今回のミス研ミーティングには、特に決まった議題がなかった。
ひよりは、大学生の学園生活について、いくつも質問を投げてきた。
講義の取り方、レポートの量、空き時間の過ごし方。
どれも他愛のない問いだったが、答えは三者三様だった。
「へえ……」
ひよりは相槌を打ちながら、どこか楽しそうだった。
ただ、その話が彼女の参考になったかどうかは、
VRミス研を終えた三人は、大学のカフェテラスにいた。
昼下がりの陽射しがガラス越しに差し込み、
周囲には雑談と食器の音がほどよく混じっている。
玲子は、クインマリーのティーカップを持ったまま、少しだけ間を置いた。
「……確認したいことがあるの」
零とミレイが視線を向ける。
「VRミス研での会話ログは、記録されている前提よね」
「まあ、そうだね」
零が頷く。
「でも」
玲子は言葉を切った。
「それとは別に、記録されていないはずの会話がある」
ミレイが眉をわずかに動かす。
「部室での会話、ですわね」
「盗聴でしたら、一通り調べましたけれど……
電波系は、何も出ていませんわ」
玲子は、静かにカップを置いた。
「……有線なら、電波は必要ないわ」
一瞬、言葉が途切れた。
「確証はないの」
玲子は続ける。
「ただ、根拠のない違和感があった。
だから、噂の続きを部室で話すのはやめたの」
「それで、ここか」
零が周囲を見回す。
「ええ」
「少なくとも、ここは“共有空間”よ」
その翌日だった。
三人は、理事長室に呼び出された。
理事長室は、思っていたよりも広くなかった。
壁一面の書棚には、学術誌と古い装丁の本が並び、
大きな窓からは学園の中庭が見下ろせる。
権威を誇示するような装飾はなく、
代わりに「長くここで考え続けてきた部屋」という印象があった。
理事長は、三人が席に着くのを待ってから、ゆっくり口を開いた。
「今日は、少し変わった話をします」
その声には、ためらいも、演出もなかった。
「まず結論から言いましょう。
ミステリー研究会を、正式な学園サークルとして承認します」
零が思わず目を瞬かせる。
ミレイは驚きを隠しきれず、玲子は何も言わなかった。
「理由を聞かせていただけますか」
玲子が静かに尋ねる。
理事長は、小さく頷いた。
「君たちが、ある“噂”の整理を始めたからです」
空気が、わずかに張り詰めた。
「安心してください」
理事長は、すぐに続ける。
「それを咎めるためではありません。
むしろ――ありがたいと思っている」
零が、率直に聞いた。
「ありがたい、ってどういう意味です?」
理事長は、少しだけ視線を落とした。
それから、はっきりと言った。
その言葉は、言い訳の響きを持っていなかった。
「私がしているのは、ただ一つです。
止まっている娘に、“生活情報”を与えたい」
三人とも、言葉を失った。
「天河 陽菜は、事故によって――
脳と身体が、別々の形で生きています」
淡々とした説明だった。
感情を押し殺しているというより、
何度も自分に言い聞かせてきた言葉のようだった。
「身体は、ほぼ完全に停止している。
けれど、脳は生きている。
意識があるかどうかは、誰にも断定できない」
理事長は、机の上で指を組んだ。
「だから私は考えた。
もし、彼女が“目覚めた”とき――
世界が、あまりにも空白だったら?」
沈黙が落ちる。
「会話。選択。迷い。
誰かと過ごす時間。
そういう“生活”の情報を、
事前に与えておけないかと」
ミレイが、慎重に口を開いた。
「……それで、各分野ごとに研究を?」
「ええ」
理事長は頷く。
「医療、工学、認知科学、倫理。
それぞれが、それぞれのやり方で」
零が続ける。
「じゃあ、私たちは――?」
理事長は、三人をまっすぐに見た。
「君たちが、その協力者になるかどうかを、見ていました」
「選択肢は二つです」
「関わらない。
あるいは、整理役として関わる」
玲子は、しばらく黙っていた。
それから、静かに問いを置いた。
「理事長は」
「“情報を与えている存在”が、
誰なのかを、娘さんに知らせるつもりはありますか?」
理事長は、少しだけ考えた。
「……それは、まだ答えが出ていません」
その瞬間、
玲子は確信した。
――この人は、嘘はついていない。
――けれど、すべてを見ているわけでもない。
最初に口を開いたのは、ミレイだった。
「確認させていただきたいのですけれど」
語尾だけが、いつもの柔らかさを帯びる。
「生活情報、というのは……具体的には、どこまでを想定されていますの?」
理事長は、即答した。
「映像、音声、会話ログ、選択履歴。
日常と呼べるものすべてです」
ミレイは、静かに頷く。
「収集は自動化されていますの?」
「それとも、人が介在して分類・編集を?」
「両方です」
理事長は言った。
「一次収集は自動。
ただし、統合と整理にはAIを使っています」
「権限管理は?」
ミレイは畳みかけない。
けれど、一つ一つが核心を外さない。
「研究班ごとに分離されています」
「相互参照は、原則不可」
「ログの保存期間は?」
「無期限です」
その答えに、ミレイは一瞬だけ視線を伏せた。
「……なるほど」
それ以上は、踏み込まなかった。
技術的に破綻していないことは、もう確認できている。
次に、零が口を開いた。
「……あの」
少し迷うように視線を落としてから、理事長を見る。
「技術的にできるかどうか、じゃなくて……」
言葉を探すように、間を置く。
「それって、人として……どうなんでしょう」
理事長は、零の方を見た。
「止まっている人に」
零は続ける。
「外から“生活”を流し込むって」
「それ……
目が覚めたとき、
自分が生きてきた時間だって、思えるんですか」
声は強くない。
けれど、逃げ場のない問いだった。
部屋が、静まり返った。
理事長は、すぐには答えなかった。
窓の外に一瞬だけ視線を向けてから、言った。
「私には、正解はわかりません」
その言葉は、逃げではなかった。
「ですが」
「何も与えなければ、
何もなかった時間になる」
零は、唇を噛んだ。
「……それでも」
「それは・・・娘さんが選んだわけじゃないですよね・・・」
「ええ」
理事長は、はっきり認めた。
「選んだのは、私です」
責任から逃げない声音だった。
それが、かえって重い。
最後に、玲子が口を開いた。
声は、静かだった。
「理事長」
「ひとつだけ、確認させてください」
理事長は頷く。
「陽菜さんに与えられる“生活情報”は」
「現実をそのまま写したものですか?」
理事長の眉が、わずかに動く。
「それとも――
“編集された現実”ですか」
「完全な現実ではありません」
理事長は、正直に答えた。
「刺激が強すぎるもの、
判断が必要なものは除外しています」
「……そうですか」
玲子は、それ以上問い詰めなかった。
けれど、その一言で十分だった。
――情報を与える側が、
――世界の形を決めている。
「もう一つだけ」
玲子は続ける。
「その“生活情報”は」
「将来、本人が検証できるようになっていますか?」
理事長は、少し考えた。
「……技術的には、可能です」
「では」
玲子は視線を上げた。
「“知る権利”を、
最初から奪っているわけではないのですね」
理事長は、静かに頷いた。
「ええ。
私は、そこだけは越えないつもりです」
玲子は、小さく息を吐いた。
――この人は、線を引いている。
――だが、その線を引く権限を、疑っていない。
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