第9話 私達だけの『秘密の言葉』
退院の日、クロエを待っていたのは家ではなく、新しい居場所だった。唯一の親類である祖母は遠くの老人ホームにおり、父母が法の裁きを受けることになった今、クロエは児童養護施設へと入所することになったのだ。
そこは、8歳から16歳までの、さまざまな背景を持つ女の子たちが10人で暮らす共同住宅だった。入所したばかりのクロエを見る周囲の目は、決して冷たいものではなかった。ニュースにもなった「あの事件」の当事者であることは誰もが察している。しかし、ここにいる全員が、多かれ少なかれ大人や社会に傷つけられた過去を越え、集まっているのだ。仲間の傷は、自分達の傷だった。
「ここは、自分のことは自分でやるのがルール。でも、困った時は助け合いだから」
最年長の16歳の少女がぶっきらぼうに言ったその言葉には、かつての家にはなかった、対等な家族としての温もりが宿っていた。
集団生活にプライバシーはほとんど無かった。騒がしい食事の時間、交代で入るお風呂、賑やかなリビング。けれど、唯一与えられた木製の学習机だけは、クロエにとって誰にも侵されない聖域だった。机の引き出しにはクロエが描いた朝野サクラのファンアートが、教科書の隣には小さなサクラのアクリルスタンドが飾られている。
消灯時間の21時。「おやすみ」の声が交わされ、複数の二段ベッドが並ぶ、暗くなった相部屋。布団の中から漏れる小さな光や、ヘッドホンから漏れる微かな音。他の年上の女の子たちも、この時間はそれぞれの秘密のお楽しみに浸っていた。
クロエもまた、布団の中でこっそりとスマートフォンの電源を入れる。画面に映し出されるのは、あの頃と変わらない朝野サクラの笑顔。
『――みんな、こんさくら! 今日も会えて嬉しいよ!』
サクラは以前よりも、一つひとつの言葉を噛みしめるように、大切に届けているように見える。コメント欄には、いつものように賑やかなリスナーたちの声。クロエは震える指で画面をタップする。恐怖から来るものとは反対の、歓喜の震え。難しい言葉はいらない。クロエは、心からの言葉を打ち込んだ。
『サクラちゃん、今日もありがとう。私、今、すごく頑張ってるよ』
クロエの言葉は滝のように流れるサクランボ達のコメントにまぎれ、たちまち流されていく。それでも、サクラにはきっと届いている。そんな確信があった。
机に飾られた、サクラから直接もらった、真新しい花びらのヘアピン。それを指先でそっと撫でながら、クロエはサクラの歌声を聴いた。
イヤホンから流れてくるのはかつての孤独な夜に聴いた勇気の歌、救いの歌、明日の為の歌。今、クロエにとってはあの時の決断とは全く違う希望を与えてくれている。窓の外に広がる夜空は、もう冷たく凍てついてはいない。サクラの歌に包まれながら、クロエは穏やかな眠りの中へと落ちていった。
施設での生活が始まってからしばらくして。クロエは、朝野サクラの配信に投稿する際の名前を、以前の『クロ』から『シロ』へと変えていた。佐々木さんとお姉さん、朝野サクラがかつて自分を救い出し、直接言葉を交わしたあの日は、一生の宝物だ。けれど、過去の地獄のような日々を連想させる『クロ』という名は、今の自分には重すぎた。
すべてをリセットし、真っ白な場所からもう一度、サクラのファンとして歩み出したかった。それが、自分を救ってくれたサクラへの、クロエなりの『生まれ変わった証』でもあった。
お見舞いの日以来、サクラと直接会うことは無かった。けれど、クロエは寂しくは感じなかった。消灯後の二段ベッドの中で、イヤホン越しに聞こえるサクラの歌や笑い声。公式サイトのメッセージで送る日常の何気ない愚痴や体験。リスナー仲間、サクランボ達との楽しいやり取り。きっとこのコメントの中には佐々木さんの姿もあるはずだ。
「……誰がサクラ芝刈り機じゃ! シロさん?もぅ。ツッコミきびしいなぁ」
画面の中でサクラが笑うたび、クロエの胸は温かさで満たされる。今のクロエにとって、サクラは命の恩人であると同時に、一番大好きな『推し』へと戻っていた。
一方、配信を終えたあとのスタジオで、サクラはモニターを見つめながら、いたずらっぽく口角を上げていた。
「……うん、絶対そう。シロさん、100パーセント、クロさんだよねぇ」
サクラは確信していた。新しく現れたリスナー『シロ』。その言葉の選び方、サクラが少し調子に乗った時の絶妙なツッコミのタイミング、そして、サクラが一番大切にしている曲のイントロが流れた瞬間に必ず送られてくる、ハートの絵文字。 それは、かつてサクラを支え続けた『クロ』そのものだったのだ。
(名前を変えて、もう一度会いに来てくれたんだ。辛かった思い出と一緒に、自分を塗り替えたかったんだね)
サクラはそれを察して、あえて「正体」を追及したりはしなかった。正体を暴くことが、彼女の新しい出発を邪魔することになると分かっていたから。
「おつさくら!ホットレモンを飲みながら、 明日もまた、ここで会おうね!」
配信の最後にサクラが放ったその言葉には、世界中の誰にも分からない、私達だけの「秘密の言葉」が込められていた。あの凄惨な夜を越えて、私達はようやく、健全な「配信者とリスナー」という関係性を手に入れることが出来たのだ。直接手を握ることはできなくても、画面に流れるテキストと歌声を通じて、私達の魂は確かに触れ合っている。
消灯後の暗い部屋で、クロエは「シロ」としてサクラに最後のコメントを送り、満足げにスマートフォンの電源を落とした。月光を浴びるそれは、もう冷たい刃物の反射ではなく、ただ優しく、穏やかに微笑む少女を映していた。
悲劇はもう、ここには無かった。あるのは、名前を変えても変わることのない、深い信頼と愛着。サクラとシロの物語は、誰にも知られることのない、けれど世界で一番温かい共犯関係として、これからも続いていくのだろう。
(サクラちゃん。桜。また、咲いたよ…)
枕元に置いた花びらのヘアピンに、月の明かりが微かに反射している。クロエはその光を瞳に焼き付けるようにして、ゆっくりとまぶたを下ろした。胸に去来するのは、切なささえも温かく変えてしまうほどの充足感。彼女の頬を撫でる空気は、もう、冬の冷たさを帯びてはいなかった。
クロエとサクラとサクランボ @Ellenasama
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