第8話 一人きりだったら、可哀相でしょ?

 バイクを乗り捨てたサクラは、肺が焼けるような思いでクロエの家へと駆け寄った。  スタジオとこの場所は、目と鼻の先だった。あの日、二人の少女に出会った公園からほど近いこの家が、まさかこんな地獄の舞台になっているなんて。

「っ!お姉さん!」

玄関の前では、佐々木さんが呆然と立ち尽くしていた。自分が今、何を見て、何をすべきなのか。その答えだけが、霧の向こうへ消えてしまったかのように。

 サクラが玄関のノブを掴んだ。鍵は固く閉ざされている。

「クロさん! 開けて!!」

叩いても返事がない。佐々木さんが電話で言っていた物音は、もう聞こえなかった。家の中は、嵐のあとのような不気味な静寂に包まれている。

 サクラはなりふり構わず庭へと回り込み、佐々木さんが続く。リビングの掃き出し窓に張き、カーテンの隙間から見えた光景に、サクラの心臓は凍りついた。

 そこには、床に散らばった家具の残骸と、肩で激しく息をしながら立ち尽くす父親の姿がありました。その足元には、夫にしがみつき、半狂乱になってその体を揺さぶる母親。  そして――。

 冷たいフローリングの上、真っ赤な鮮血に染まって動かないクロエが、仰向けに倒れていた。

「……あ……ああ……ッ!!」

最悪の予感は的中しなかった。だからといって、こんな光景だって見たくなかった!

その場に崩れ落ちそうになるサクラを、佐々木さんの悲痛な叫びが留めた。

「クロエちゃん!!」

 その絶叫で、サクラの頭から理性が吹き飛んだ。庭に転がっていた重い植木鉢を掴み上げ、渾身の力で窓ガラスに叩きつける。

 ガシャァァァン!!

 鋭い破砕音が夜の静寂を切り裂いた。サクラは割れた硝子で腕が切れるのも厭わず、穴の開いた窓からリビングへと飛び込んだ。

「離れろッ! この人殺し!!」

 サクラの怒号に、父親がぎょっとして振り返りむいた。あの時の女子高生?なぜここに。

 誰からも愛される笑顔の『朝野サクラ』はそこにはいなかった。ただ一人の友達を救いたいという、剥き出しの殺気すら纏った一人の女が立ってた。

 サクラは怯む父親を突き飛ばすようにして退かせ、床に倒れるクロエの元へ膝をついた。

「クロさん! クロさん!! しっかりして!!」

 クロエの体は熱く、けれどどこか頼りなく弛緩していた。頭部からの出血がひどく、その傍らには父親に奪い取られ、はじかれた様に包丁が転がってた。間違いない。クロエがサクラに貰った勇気を糧に、父親に襲い掛かったのだ。幸いだったのは、クロエが『人殺し』になる前に、父親が力ずくで彼女をねじ伏せたこと――。けれど、その代償はあまりにも重いものだった。

「……お…ねえ…さん…?」

 薄らと、本当に微かに、クロエの瞼が震えた。焦点の合わない瞳が、涙でボロボロになったサクラの顔を捉えた。

「良かった……生きてる……! 警察も、救急車もすぐ来るから! だから、諦めないで!!」

 遠くから、重なり合うサイレンの音が近づいてくる。サクラはクロエの小さな手を握りしめ、自分を忘れて叫び続けました。硝子の破片が散らばる月明かりの下、サクラはあの子を絶望の淵から引き戻すために、その手を決して離さなかった。

鳴り響くサイレン。青と赤の光が夜の街を不気味に照らし、救急隊員たちがリビングへなだれ込んできた。

 血まみれのクロエがストレッチャーに乗せられ処置を受ける中、リビングの隅では、父親と母親が警察官に囲まれていた。

「……あ、あの子が、急に包丁を持ち出して襲ってきたんです!」

父親は、先ほどまでの凶暴な姿が嘘のように、被害者を装って震える声を上げた。

「私は、必死で自分を守ろうとしただけで……! ああ、なんということだ。大切に育ててきたのに、まさか娘に殺されかけるなんて!」

 母親もまた、夫の言葉に合わせるように激しく頷き、泣き崩れる真似をする。

「そうです、クロエは最近情緒が不安定で……夫は何も悪くありません! 全部あの子が勝手にやったことなんです!」

 二人は、自分たちの地位と平穏を守るために、声も出せない娘にすべての罪を擦り付けようとしていたのだ。捜査員の一人が、疑惑の目をクロエの方へ向け、手帳に書き留めようとしたその時。

「――嘘です。今の言葉の中に嘘があること、私が証言します」

 凛とした、けれど怒りに震える声が響いた。警察官たちが一斉に振り返る。そこに立っていたのは、割れた窓から飛び込み、腕に切り傷を負ったまま、一点の曇りもない瞳で父親を射抜くサクラだった。

「君は……? あの子の家族なのかい?」

「朝野サクラです。企業で配信活動をしているVtuberです」

 サクラは迷いなく、世間に知られれば騒動になるであろう自分の名を名乗った。

「私は事件が起きる前から、彼女の相談を受けてました。彼女がどれほど追い詰められていたか、そして、この父親がどれほど酷い言葉で彼女を罵り、暴力を振るっていたか、私は知っています」

警察官がサクラの方に顔を向ける。そして割れた窓の向こう側から、佐々木さんも震える声をあげる。

「わ、わたしも!わたしも知ってます!クロエちゃんがどんな目にあってたのか。お父さんとお母さんに何をされてきたのか!小学校の先生だって知ってます!」

サクラがさらに一歩踏み出す。

「何が自分を守ろうとした、だ! ふざけんなっ!自分を守ろうとしたのはあの子の方だ! あの子を人殺しにしようとしたのは、守るべき親であるはずの、あなたたちだ!!」

 サクラの告発に、父親の顔がみるみるうちに変わっていく。クロエ達を震え上がらせた赤黒い憤怒の色。サクラは止まらなかった。

「私はプロの表現者として、自分の名誉にかけて証言します。彼女が置かれていた真実を、警察にも、世間にも、すべて明らかにします。私の歌を信じてくれたあの子を、あなたたちの嘘で二度と傷つけさせたりなんてしない!」


 サクラの凛とした声がリビングに響き渡ると、先ほどまで饒舌に嘘を吐いていた父親は、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。警察官たちが「詳しいお話は署で」と父親の身柄を拘束するために動き出した。

救急車で搬送されるべく救急隊のタンカに横になるクロエは、驚愕の目をサクラに向けていた。(お姉さんが…サクラ…ちゃん…?)

その視線に気づいたサクラが、そっと駆け寄り顔を近づけた。

「クロさん。遅くなってごめんね。あなたに辛い決断をさせてしまってごめん。こうなる前に、あなたを助けたかった」

こみ上げる熱い塊に突き動かされるように、クロエの顔はくしゃりと歪み、真珠のような涙が次々とこぼれ落ちた。

クロエの口から言葉は紡がれない。ただ、吐息とともにわずかに唇が動くだけ。「ありがとう」か、「どうして」か、その判別はつかない。それでもサクラは、クロエから親愛の情を確かに感じることが出来た。

サクラは救急車が走り去った方角を見つめ、祈るように立ち尽くしていた。

「お姉さん!」

 佐々木さんがサクラの服に縋り付いた。二人は、冷たい夜の空気の中で、互いの無事を確かめるように手を取り合う。佐々木さんの瞳からは、大粒の涙が溢れ出していた。

「私、怖くて……配信でのクロエちゃんが、もう手の届かないところに行ってしまう気がして。お姉さん、クロエちゃんは? あの子、どうなるの?」

「大丈夫。私達が着いたとき、あの子はまだ生きてた。病院で治してもらえる。佐々木さん、君がここまで来てくれたから。君がここで私の電話に出てくれたから、私は通報することも、ここに来ることも出来た。君が、あの子を救ったんだよ」

 サクラの言葉に、佐々木さんはその場に泣き崩れた。配信画面を通した「vtuberとリスナー」ではなく、一人の友達を救いたいと願った仲間として。二人は静かに、けれど強く抱きしめ合った。

「……一緒に行こう。あの子が目を覚ましたとき、一人きりだったら可哀相でしょ?」



 その後、クロエは一命を取り留めた。

 サクラが身元を隠さずに行った証言と、クロエの体に刻まれた虐待の痕跡。保健室の先生の証言。そして佐々木さんの詳細な証言が決定打となり、父親は児童虐待と傷害と…あといくつかの容疑で逮捕されることになった。黙認し続けていた母親も厳しく追及され、クロエを巡る環境は根本から引き剥がされることとなった。

 数日後。白い病室のベッドで、クロエはゆっくりと目を覚ました。窓の外では、柔らかな陽光が小春日和を予感させていた。

「……佐々木さん……お姉さん…ううん、サクラ…ちゃん?」

 枕元に座っていた二人の顔を見て、クロエの瞳にじわりと涙が浮かんだ。サクラはクロエの細い手を握りしめ、優しく微笑みました。

「……おはよう、クロさん。長い夜だったね」

「私、人殺しになっちゃったかと思った……」

絞り出すような吐息が、かろうじて言葉の形を成して空気に溶けていく。

「違うよ。君は戦ったんだよ。自分の心を守るために、立ち向かったんだ。佐々木さんが、私を呼んでくれたんだよ」

 サクラがそう言ってクロエの頭を撫でると、クロエは声を上げて泣いた。それは、長年閉じ込めてきた絶望が、ようやく外へと流れ出した瞬間だった。

 サクラは、その様子を静かに見守りながら、確信していた。自分の歌が、言葉が、いつか誰かを傷つける刃になるかもしれない。けれど、こうして誰かの手を直接握りしめるための力にもなれる。

「……また、一緒に朝野サクラの配信で会おうね。今度は、本当の笑顔で」

 サクラがそう告げると、クロエは涙を拭い、小さく、けれど確かな力でサクラの手を握り返した。画面越しでは決して叶わなかった、体温の通う約束。少女たちの凍てついた冬は、今、本当の終わりを迎えたのだった。

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