第13話 星の海、姉上へ
帆桁が折れても、船はまだ走った。走りは鈍く、舵も重い。それでも波に呑まれず浮き続けるという事実が、甲板に残った者たちの背を少しずつ起こしていく。
木屑と血と潮が混じった匂いは消えない。だが、人の声が戻ってきた。縄を張り直す声、樽を据え直す声、傷を縛る声。
生き残った者だけが出せる、荒い息の音。時貞は舷側に座り、濡れた袖口を絞った。胸の内側をそっと押さえる。
螺鈿の櫛はそこにある。姉上を連れている——その一点だけで、膝の震えが止まる。
海面は、嘘のように穏やかだった。さっきまで影が蠢き、跳ね、槍が走った場所が、何事もなかった顔で青く揺れている。
人の死も血も、海は一瞬で薄めてしまう。薄められるほど、記憶だけが濃く残る。
とんでもない記憶力は、ありがたくも呪わしくも、同じ顔でそこにいる。
「……海ってのは、腹が立つな」
隣に腰を下ろした剛守が、乾いた声で言った。肩の包帯は赤く滲み、巻き直した布の端が潮風に揺れる。
それでも剛守は、太刀の柄に手を置いたまま、海から目を離さない。
「怒っても、海は変わらない」
「分かってる。だから、こっちが変えるしかねえ」
船頭が近づき、言葉を選ぶように頭を下げた。
「帆は張り直します。走りは落ちますが……追いつかれはしないでしょう。あいつらも、追いかけるには傷が深いはずです」
剛守が短く頷く。「次は、来させるな」
船頭は苦笑し、唇を噛んだ。「海のことは、海次第です。けれど——」
一拍置き、時貞を見た。「お前さんの目は、変だ。怖がってるのに、見逃さねえ目だ」
時貞は返さなかった。褒められるようなものではない。見えてしまうだけだ。見えてしまうから、忘れられない。
船頭はそれ以上踏み込まず、去り際に言った。
「宋の岸が見えりゃ、空気が変わる。匂いも、色も。……ここから先は、倭の海とは違う」
その言葉が、胸の奥で小さく鳴った。違う海。違う岸。違う空。姉上が指でなぞった“世界の果て”へ、確かに近づいている。
夜、甲板に出ると、海の上に星が落ちていた。鎌倉の夜よりも濃い闇。闇が濃いぶん、星も鋭い。時貞は舷側に立ち、懐の櫛を指で押さえた。
姉上。ここまで来た。海は牙を見せた。剛守は血を流した。人も死んだ。——それでも、船は進んでいる。
「茜様」背後で剛守が、小さく名を呼んだ。誰に聞かせるでもない声だった。
「海が邪魔しても、俺たちは行きます。あの方が見たがった場所へ」時貞は振り向かずに答えた。
「姉上。……聞こえてるか。俺は忘れない。だから、連れていく」
言ってしまえば残酷だ。忘れないのは才能ではなく業だ。けれど、今はその業が、姉上へ向かう唯一の綱になる。
翌朝、水平線の色がわずかに変わった。青の向こうに、薄い土色が滲む。見張りが声を上げる。
「岸だ! あれが……大陸の岸だ!」
甲板の空気がざわめき、誰もが前へ出た。潮の匂いに、どこか甘い土と煙の匂いが混じり始める。遠いのに、もう“違い”が分かる。
剛守が、時貞の肩を一度だけ叩いた。「来たな」
時貞は頷き、胸の内側の冷たさを確かめる。姉上を連れて、ここまで来た。ここから先は——噂ではない。世界は、目の前にある。
時貞は荷の影に身を寄せ、濡れぬ場所で紙を広げた。雇われの身で派手なことはできない。けれど、書かずにはいられなかった。
書けば進める。書けば運べる。姉上を連れていく方法のひとつになる。
墨を摺る。潮の匂いに、墨の匂いが立つ。筆先が震える。震えを抑えるように、胸の櫛を押さえた。
まず、紙の上端に、ゆっくりと大きく書く。
西方見聞録
それは記すための名であり、忘れないための楔だった。次に、筆を少し改め、宛名
を置く。
――姉上へ。
その文字を見た瞬間、時貞の喉の奥が熱くなった。返事は返らない。だが、書けば進める。書けば、姉上の願いは折れずに続く。
船は、岸へ向けてゆっくりと揺れた。
<次回予告>
刀を沈め、髪を束ね、言葉まで変えて辿り着いた大都。崇天門の喧噪に呑まれぬよう、二人は“核”を胸に踏みとどまる。だが都は受け入れる口と、噛む歯を隠していない。
次回「大都、世界が集まる門」に、ご期待ください。
▶この続きは本編へ/♥応援・★評価・フォローで次話の励みになります。
次の更新予定
西方見聞録 鎌倉武士、ローマを目指す 雨野うずめ @siva0012
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。西方見聞録 鎌倉武士、ローマを目指すの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます