第12話 血の点々、螺鈿の誓い

 帆桁が落ちたあとの甲板は、世界が一度“止まった”ようだった。轟音の余韻が板の隙間に残り、木屑と海水と血が、朝靄のように薄く漂う。

 潰れた鮫男の山の上で、折れた槍の柄がぴくりとも動かない。

 ――だが、終わりではない。

 船縁のあちこちで、まだ影が蠢いた。帆桁の直撃を免れた数体が、よろめきながらも槍を構え直し、海へ戻る道を探している。

 甲板の上が狩場から退路へ変わったと悟ったのだ。


 「行け! 追い払え!」


 船頭の怒鳴り声で、船乗りたちがようやく我に返った。鉤、短槍、櫂の柄。握る手は震えているのに、足だけは前へ出る。剛守がその先頭に立ち、太刀を低く構えた。


 「逃がすな。海へ戻したら、また来る」


 剛守の声は荒れていない。戦場で鍛えた、命令の芯だけがある。

 最初の一体が船縁へ走った。濡れた甲板で足を滑らせ、体勢を立て直した瞬間、剛守の太刀が“置かれる”。

 斬り込むのではない。逃げ道に刃を差し出すだけで、鮫男の体が迷う。その迷いの一拍を、船乗りの鉤が喉元へ引っ掛けた。


 「引け! 落とせ!」


 鉤が引かれ、鮫男が船縁へ引きずられる。鮫男は槍で抵抗しようとしたが、剛守が柄の根を踏み折り、肩口を一閃した。血の色は薄い。

 それでも肉は裂け、力が抜ける。船乗りたちが一斉に押し、影は泡とともに海へ落ちた。

 次の一体は帆柱の陰に身を隠し、甲板の下――積み荷の間へ潜ろうとした。時貞のとんでもない記憶力が、さっき見た“影の向き”をそのまま叫ばせる。


 「下へ行く!」


 剛守が振り向きざまに走り、入口を塞いだ。肩口から血が滴るが、足が鈍らない。

 鮫男が突く。剛守は受けない。槍先の線を身体ごと外し、踏み込み一つで懐へ入り、柄尻で顎を叩き割った。

 鮫男の膝が落ちる。そこへ船乗り二人が飛びかかり、縄で腕を縛るように絡め、船縁へ引きずった。


 「落とせ!」


 海へ。泡。沈む影。――残る影は、あとわずか。

 帆桁の下敷きになり損ねた鮫男が、折れた木の下から這い出そうとする。船乗りたちが怖じて一歩引くと、剛守が太刀を鞘から半寸だけ抜いた。

 その音が合図だった。船乗りたちの足が戻り、鉤が伸び、短槍が突き出される。剛守は最後まで“背中”で押した。自分がすべて斬らなくてもいい形を作り、味方が動ける場所を保つ。

 やがて、甲板に残ったのは人の息と、折れた槍と、潰れた木だけになった。海面はまだざわついているが、あの規則だった影の流れは途切れている。


 「縄を締め直せ! 樽の位置を戻せ! 帆は――」


 船頭が言いかけ、折れた帆桁を見上げて唇を噛んだ。帆は傷つき、走りは鈍る。それでも船は浮いている。生きている。

 剛守が太刀を納めると、膝が一度だけ沈んだ。痛みが今になって追いついたのだ。時貞は駆け寄りかけて、駆けるのをやめ、確実に足を運んで隣に膝をついた。


 「肩、裂けてる」

 「見りゃ分かる」

 「分かるなら縛れ。倒れたら終わりだ」


 剛守は鼻で笑い、だが逆らわなかった。時貞が布を裂き、肩口に当て、強く巻く。結び目を作る指は震えていない。震えれば、姉上――いや、茜様を連れていく誓いまで揺れる気がした。

 時貞は胸元の布包みを確かめ、螺鈿の櫛を取り出した。血が点々とついている。時貞は袖の裏で、そっと拭った。乱暴に擦れない。

 これは“姉上”だ。道具ではない。

 剛守が、その手元を見て、目を細めた。


 「……茜様、驚いたろうな」


 時貞は答えず、拭い終えた櫛を胸に戻した。返事の代わりに、息をひとつ吐く。海の冷たさの中に、ほんの少しだけ温いものが残った。船頭が近づき、深く頭を下げた。


 「命を拾いました。……あんたらがいなけりゃ、今頃、船ごと喰われてた」

 剛守は手を振った。「礼はいい。沈められなかった、それで十分だ」


 時貞は甲板の惨状を見回し、倒れた仲間の数を数えた。数えることしかできない自分が歯がゆい。

 とんでもない記憶力は、こういうときほど残酷だ。叫び声も、骨の折れる音も、全部、消えずに残る。

 それでも――船は進む。

 薄い朝日が、海面に道を引き始めていた。混乱は制圧された。次は、進むだけだ。


 <次回予告>

 帆桁は折れ、甲板は血と潮の匂い。それでも船は走る。夜、星の下で剛守が名を呼び、時貞は答える「連れていく」。翌朝、土色の岸が滲んだ。

 次回「星の海、姉上へ」に、ご期待ください。


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