狐の嫁入り〜平安もののけ奇譚〜
緑山ひびき
狐の嫁入り〜平安もののけ奇譚〜
その少年めいた顔にもかかわらず、少将は近衛府の中で、
都の誰もが理由を知っている。東三条の右大臣——都でも指折りの実力者の三男であることだ。
少将自身も、それを知らぬふりはしない。父の力がなければ、この年でこの位にないことなど、今さら言われるまでもない。
だからこそ、手を抜かない。東三条の名を預かる以上、仕事の粗は残さず、部下の面倒も責も、雑には扱わない。
見ている。自分が見られているのと同じだけ、部下を。
そんな少将だから、異変を見逃さない。そして見逃さないからこそ、今回もまた、妙なことに巻き込まれることになる。
少将が歩く渡殿は、昼下がりの明るさが朱塗りの柱に当たり、赤が妙に強く見えた。
少将は、渡殿の先に立つ将監の姿を見つける。年上の部下だ。
背筋が伸びている。動作に無駄がない。
いつも落ち着いた声で話す。
少将が任官したとき、将監はすでにここにいた。
父の力で高位にある少将を、将監は軽んじなかった。
それどころか、若い少将が失敗しないよう、さりげなく支えてくれた。
少将はそれを知っている。
だから、将監のことを信頼している。
その将監が振り返った。
彼の顔色を見た瞬間、少将の足が止まる。
いつもの将監ではない。
顔色が悪い。目の下に青黒い隈がある。
背筋は伸びているが、無理をしている感じがある。
こんな将監を見るのは初めてだ。
「……どうした。ひどい顔だぞ」
将監は「そんなことは」と言いかけて、口を閉じた。
少将は眉を寄せる。
「病か。熱か。どこか痛むのか」
「いいえ」
将監は否定したが、声に張りがない。
「ただ……夜が」
「夜?」
将監は渡殿の外へ一度だけ視線を投げた。
それから目を落とした。ためらっている。
「眠れぬのです。横になれば意識は落ちるのに、明け方になると、最初から起きていたような気がする。身体だけが重い」
少将は将監の目の下の青黒さを見て、短く息を吐いた。
「それは眠っておらぬ」
将監は、困ったように口の端を動かした。
「心当たりがないのが、いちばん困ります」
少将は即座に言った。
「今夜、そなたの屋敷へ行く。
「少将、それは……」
将監は一歩引いた。止めようとする声音がある。だが、肩の力がほんの少し抜けた。
少将はそれを見ないふりをした。
「放っておけぬ。——見ておきたい」
⸻
日が落ちる頃、少将は供を二人連れ、将監の屋敷へ入った。
方違えだ、と表向きは告げてある。将監も屋敷の者へそう言い含めたのだろう。客のための部屋は整い、余計な詮索もない。
けれど将監だけは落ち着かない様子で、
「いつもと変わらぬ夜です」
将監はそう言ったが、言い切るほど強い声ではない。
少将は笑って肩を軽くすくめた。
「ならば眠れ。眠れぬ夜に慣れるな」
将監は苦笑いをして、頭を下げた。
夜半。
屋敷は静まり返った。遠くで犬が一度だけ鳴いて、すぐに黙った。
少将は自分の部屋で横になってみたが、目が冴えている。
寝返りを打つたびに、
屋敷が眠っているぶんだけ、その音が浮いて聞こえた。
「……月でも見るか」
供を起こすほどでもない。
少将は一人で廊へ出た。
庭へ降りる気はない。ただ、端に立って夜の匂いを吸ってみる。
雲は薄く、月は見えたり隠れたりしていた。
そのとき、どこかで——小さく、乾いた音がした。
火打石のようでいて、火打石ではない。音のあと、夜気の肌触りがほんの少しだけ噛み合わなくなった。
少将は立ち止まる。
屋敷の奥、将監の寝所のあたりからだ。
「……将監殿?」
返事はない。
少将は歩いて、障子の隙へ顔を寄せた。隙間がわずかに開いている。人の出入りがあったのかもしれない。
覗いた。
部屋の中に、灯りはない。
それでも見えた。——火が、ひとつ浮いている。米粒ほどの小さな火だ。
その火の下に、女がいた。
寝ている将監の胸の上に、女が膝を曲げて、前屈みで正座している。
白い肌が月の明るさを拾っているのに、衣の柄だけが妙にはっきりしていた。暗さと釣り合わない細かさで、刺した糸の一本一本まで目に触れるように見える。
女は少将を見ない。
将監の顔を見下ろし、ひどく静かな顔をしている。
少将は反射で、懐の短刀に手をかけた。
抜く音が、やけに響いた。
女の顔がこちらを向く。
目は美しい。けれど焦点が少将の顔に合っていない。少将の肩の奥を見ている。
少将は短刀を構えたまま、声を出した。
「——そこを退け」
女の口元がわずかに動いた。
声はない。
次の瞬間、火がひとつ増えた。
増えた火が揺れて——女の輪郭が薄くなる。
少将が踏み込んだ時には、もういなかった。
火も、消えていた。
寝所には将監だけが残る。
胸が上下している。息はある。だが汗が多い。
少将は将監の肩を揺すった。
「将監殿」
将監は呻いて目を開けた。
ぼんやりした目で少将を見て、状況が飲み込めない顔をした。
「……少将? なぜ、ここに」
「寝苦しいと言ったな」
将監は眉を寄せ、ゆっくり首を振る。
「はい。ですが、なぜかはわかりませぬ。……夢も見ていない。私は、眠っていたはずです」
少将は将監の顔を見た。
さっきの女の顔が、思い出せない。美しかった、という輪郭だけが残る。
「胸の上に、女が乗っていた。ものの
少将は短く訊いた。
将監は息を飲んだあと、力無く首を振る。
「女のものの怪……ありません。恨みを買うようなことも」
寝不足が頭の芯までしびれさせていて、記憶を探るのも難しそうだ。無骨といってよいような将監の、そのような疲れ果てた姿を見て、少将は考えを巡らす。そしてすぐ、決めた。
「朝になったら、嵯峨野に行く」
少将が言う。
「嵯峨野に?」
「ああ。嵯峨殿に話を聞いてもらおう」
⸻
牛車は、昼前には嵯峨野の山荘へ着いた。
山を背にした家は静かで、門のあたりの草がよく手入れされている。人の匂いが薄い。
「ここがあの名高い嵯峨殿の……」
将監がポツリと呟く。
嵯峨野に籠って久しい——だから嵯峨殿と呼ばれる。
少将の親類で、幼い頃からの付き合いだ。
嵯峨殿は、元は陰陽寮で名を馳せた術者だった。
天候を占い、祟りを鎮め、怪異を退ける。
その腕は都でも指折りだった。
だが、ある時から都の人付き合いに嫌気が差したらしい。
政治の駆け引き。
貴族たちの欲。
術を使って誰かを陥れることを求められる日々。
嵯峨殿は、それに耐えられなくなった。
かつて少将に、嵯峨殿はポツリと言った。
「都は、息が詰まる」
それきり、嵯峨野へ籠った。
今も腕は衰えていない。
それを少将は知っている。
少将が名を告げると、すぐに通された。
座に現れた嵯峨殿は、涼し気な顔をしていた。少将よりは年上。痩躯はしなやかで、座っていても姿勢が崩れない。切れ長の目つきは鋭く、筋の通った鼻と相まって、容貌を冷たく見せている。
嵯峨殿の長い髪は、後ろで一つに束ねられているだけだった。髻を結わぬ者は珍しい。世を離れた証か、あるいは単に煩わしいだけか。
「……久しいな、少将」
「久しい、と言うほど間は空いていないぞ。また来てしまったな」
少将は座に腰を下ろしながら、軽く笑った。
「嵯峨殿。知恵を貸してくれ」
「話せ」
嵯峨殿は短く言って、少将の顔を一度だけ見た。
少将は頷き、昨夜のことを話し始めた。
将監の寝不足。火の玉。女のものの怪。暗いのに際立った着物の柄。肩の奥を見る目。
嵯峨殿は途中で眉ひとつ動かさない。
将監が何か言おうとすると、嵯峨殿は視線だけで止めた。黙って聞け、という目だ。
話し終えると、将監が小さく息を吐いた。
「……あらためてお話を伺って、私にも思い当たることが出て参りました。今になって思い出しましたが、寺で女を助けたことが——」
将監は額を押さえた。押すほどの痛みでもないのに、手を置かずにいられない様子だ。
「以前……寺で、怪我をしていた女を見つけまして」
将監はきつく目をつむる。
思い出したくないのか、それとも思い出せないのか。
「……いや、はっきりと思い出しました」
将監は語り始めた。
⸻
それは、半月ほど前のことだった。
将監は参詣の帰り、寺の境内を歩いていた。
その日も、何人か参詣者の姿があった。
将監が門を出ようとしたとき、草の陰に人影を見つけた。
女だった。
倒れているのか、座り込んでいるのか。
袖が破れている。血が滲んでいる。
将監は足を止めた。
(女人禁制の寺だ。門の外とはいえ……)
そう思いながらも、見て見ぬふりはできなかった。
「……大丈夫か」
将監が声をかけると、女はゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、将監は息を呑んだ。
美しかった。
青白い肌。ふっくらとした赤い唇。濡れたような目。
病んでいるように見えるのに、それが逆に儚さを際立たせている。
女は将監を見た。
焦点が合っていない。朦朧としている。
「……どなた、様……」
声は細い。
今にも消えそうだ。
将監は膝をついた。
「近衛府の者だ。怪我をしているのか」
女は頷いた。
頷くだけで、力を使い果たしたように見えた。
将監は女の袖を見た。
破れている。血が出ている。
深い傷ではないが、放っておけば悪くなる。
「……手当てをする」
将監は懐から布を取り出した。
清潔なものではないが、何もしないよりはましだ。
女の腕に布を巻く。
女の肌は冷たかった。
冷たいのに、柔らかい。
将監は、自分の心が少しだけ揺れるのを感じた。
(美しい女だ)
ふわっと気持ちが浮ついた瞬間、女が将監を見た。
「……ありがとう、ございます」
声に色がある。
さっきより、少しだけ力が戻っている。
女は将監を見つめたまま、問うた。
「この寺の、ゆかりのお方ですか」
将監は首を振った。
「いや。ゆかりではない。時折、参るだけだ」
女は目を細めた。
微笑んだのか、それとも違うのか。
「では……また」
女はそう言った。
将監は頷いた。
「ああ」
短い返事だった。
挨拶のつもりだった。
女は立ち上がった。
ふらつくかと思ったが、意外としっかりしている。
女は一礼して、去っていった。
将監は、その後ろ姿を見送った。
(美しい女だった)
そう思った。
そして——
(もう少し、話をすればよかった)
そうも思った。
だが、女は弱っていた。
深入りすれば、かえって迷惑だろう。
将監はそう自分に言い聞かせて、寺を後にした。
⸻
将監は目を開けた。
「……それきり、です」
将監の声は低い。
「その女を、また見ることはなかった」
少将は将監を見た。
将監の顔が、自分でも納得していない顔をしている。
あのときの自分の気持ちの浮ついた軽さだけが、今になって重い。
嵯峨殿は将監を見た。
ほんの一瞬、目の奥だけが動く。——否定もしない。驚きもしない。
少将は返事を待ったが、何も返ってこない。
「嵯峨殿。何かあるなら言え」
嵯峨殿は答えない。
ただ、少将のほうに視線を戻し、いつも通りの声で言った。
「行け」
「寺へ?」
少将が言う。
嵯峨殿は頷かない。首も振らない。
それでも少将には、言っていることが分かる。
少将は立ち上がった。
「行く。……将監殿、案内しろ」
将監は深く頭を下げた。
「は」
嵯峨殿は見送らない。
ただ、少将が座を出る前に、ひとことだけ落とした。
「目を合わせるな」
少将は振り返った。
嵯峨殿の顔は変わっていない。けれど、その目は、もう先ほどの話の中にいない。ずっと先を見ている。
少将は何も返さず、将監を連れて山荘を出た。
⸻
牛車は静かに進む。
山を下りる道は明るい。人の声もある。
なのに将監は、さっきから黙ったままだった。
「どの寺だ」
少将が訊く。
将監は少し迷ってから答えた。
「……嵯峨野の端です。
寺はすぐ見つかった。立派ではない。門も低く、敷地も狭い。
門前に掃き清めた土があり、香の匂いがかすかに漂っている。
声をかけると、年嵩の僧が出てきた。
将監が名を告げ、用向きを言う。僧は目を細めた。
「怪我をしていた女……ですか。覚えがございませぬ」
僧は首を振った。
「この寺は女人禁制でして。尼も置いておりませぬ。参詣の者が門前で手を合わせることはあっても……内へは入れませぬ」
将監は唇を噛んだ。
「確かに、ここでした。袖が破れて、血が出ていた。放っておけずに——」
僧は困ったように眉を寄せる。
「それは……」
少将は横から口を挟まなかった。
僧の言葉の間に、余計なものが混じる気がしたからだ。
僧は一拍置いて、言った。
「門の外をご覧になられますか。——朝から、妙なものがございまして」
門の外。道の脇。
草の陰に、黒い塊があった。
最初は犬かと思う。けれど犬ではない。毛並みが違う。
尾が細く、顔が尖っている。
狐だ。
将監が息を止めた。
「……これは」
僧は合掌した。
「夜が明けてすぐ、ここに。すでに息はなく。数日ここで姿を見た、という小僧もおりますが……。わかりませぬ」
少将は狐の顔を見た。目は閉じている。
昨夜の女の目の色だけが、頭に浮かぶ。肩の奥を見る目。
「数日、ここに……」
そう言って将監が膝をつこうとするのを、少将が袖で止めた。
「触るな」
将監は手を引っ込めた。
僧が頷く。
「弔ってもよろしいでしょう。——獣にも、死は死」
僧はそう言って、狐を寺の内へ運ばせた。
短い経があがる。香が濃くなる。
狐は粗い布に包まれ、庭の端に置かれた。立派な葬りではない。けれど、粗末に捨てるよりはずっとましだ。
将監は経の間ずっと、俯いていた。
終わってから、少将に向かって低く言う。
「私が、あの時、助けたのは……狐だったのか……それが」
少将は短く遮った。
「顔を上げろ。歩けるか」
将監は頷いた。
「はい」
寺を出ると、空が妙に明るかった。雲が薄いのに、細かい雨が落ちている。
袖に当たるか当たらないかの、軽い雨。
将監がぽつりと言う。
「……晴れているのに」
少将は空を見上げた。
「狐の嫁入り、というやつか」
将監は口を動かさなかった。
少将も、それ以上言わなかった。
帰り道、将監の息が少しずつ整っていった。
寺を出たことで、区切りがついたと感じたのだろう。
屋敷の近くまで来たところで、将監が牛車を降りる。
「少将。……今夜は、眠れる気がいたします」
少将は顔を覗き込む。
将監の顔色はまだ悪い。それでも、昨夜の汗のような濡れは消えている。
「気がする、で戻るな」
少将は言った。
「今夜また何かあれば、屋敷の門を叩け。遠慮するな」
将監は頷いた。
「ありがとうございます」
将監が去る。背中が小さくなる。
自邸へ戻った後、少将は座に着けなかった。
寺で見た狐の死骸。経の声。将監の「眠れる気がする」という言い方。
終わった気がしない。
少将は思い直して馬に乗った。
——山荘へ今一度行く。
嵯峨殿の顔が、あまりに動かなかった。
何か言うべきことを言わずにいた。確かめずにはいられない。
山荘へ戻ると、嵯峨殿は同じ座にいた。
硯が出たままだ。墨と沈香の匂い。
少将は座るなり、寺で見た狐の死骸のこと、弔いのこと、天気雨のことを話した。
嵯峨殿は聞き終えても、やはり何も言わない。驚いた素振りもない。
少将は返事を待ったが、何も返ってこない。
「嵯峨殿。何をわかっている」
嵯峨殿は少将を見た。
視線が、少将の顔で止まらない。少将の肩口を抜けて、どこかに置かれる。
「お前は、口が動くより足が出る」
少将は眉を上げた。
「止めているつもりか」
嵯峨殿は答えない。
代わりに、少将の袖口へ手を伸ばした。乱れた結び目を一度だけ整える。動作は短い。
「……暗いのに柄が立ったと言ったな」
「言った。あれは妙だった」
「狐だ」
嵯峨殿は言い切った。
少将は息を吐いた。
「あのときでわかっていたのか。狐が女に化けた。寺の狐が、将監殿に取り憑いた。——それだけか」
嵯峨殿は硯に目をやった。墨が乾ききっていない。墨の黒を見たまま、ためらうように口を開いた。
「弱っていた狐が毎夜、人の形で遠くへ来た。わざわざだ」
嵯峨殿の声は淡い。
「つまり――執念が強い」
少将は言葉を失った。
狐は寺で将監を待っていた。さらには生霊となって、将監の屋敷の寝所まで来ていた。
そして、今朝死んだ。
「逃れられぬ、ということか」
嵯峨殿は首を振らない。頷きもしない。
「縁を結んだ。軽く結べば、ほどけると思うな」
少将は唇を噛んだ。
将監の「ああ」が、頭に浮かぶ。挨拶のつもりの、短い返事。
「……なら、なぜ先ほど言わなかった」
嵯峨殿は少将を見た。
さっきと同じ目だ。少将の顔の奥へ置く目。
「お前が、余計なものまで拾うからだ」
少将は顔をしかめた。
「私は拾う。将監殿は私の部下だ」
「だから言わなかった」
嵯峨殿は言った。
それだけで、少将は言い返せなくなる。嵯峨殿が口にする言葉は、軽くない。
嵯峨殿は沈香の気配の中で、いつもの声に戻した。
「行くのか」
それは問いではないとわかっていたが、少将は躊躇いなく頷く。
「行く。将監邸へ」
少将は立ち上がった。
嵯峨殿はすっと立ち上がって近寄り、少将に並び立つ。束ねただけの黒髪が、動きに合わせて揺れた。そして少将の袖へ、小さな包みを押し込む。紙の音だけがした。
「持っていろ」
切れ長に光る目が、少将の目を真正面から捉えて見る。
「……目を、合わせるな」
少将は頷いて息を整えた。袖の紙の包みから、沈香の匂いがする。
少将は山荘を急いで辞し、将監邸へと向かった。
山の端が沈み、道の色が落ちていく。
馬をせき立てる。
そのとき、対向から、牛車が来た。簾が揺れている。
中に人影がある。
黒い牛。近づいてくる。中の人影は動かない。
すれ違う。少将は思わず身体を固くした。
牛車は何事もなく通り過ぎた。
少将は息を吐いた。
先を急ぐ。さらに進むと、道端に小さな祠があった。
その扉が、突然バタンと開いた。
少将は馬を止めた。
手綱を握り直し、少しずつ近寄る。
——何もいない。
扉は開いたまま揺れているだけだ。
少将は祠から目を離し、馬を進めた。
しばらく進むと、空が暗くなりきる前の色に沈んだ。
その時だった。
馬の耳が、ふいに片方だけ立った。
少将は手綱を引くほどではないと思いながらも、無意識に呼吸を浅くして、周囲の音を拾い直す。
先ほどまで道の脇で鳴いていたはずの虫の声が、気づけば途切れていた。
代わりに、蹄が土を踏む乾いた響きだけが残り、それがやけに近く、やけに長く続いているように感じられた。
道の向こうに、火が見えた。
ひとつ。ふたつ。三つ。四つ。
人が持つ松明の火ではない。
火だけが、宙に取り残されたように浮いている。
支えがない。
ただ、浮いている——浮いているはずなのに、こちらへ来る。
狐火。
列になって、こちらへ来る。
少将は道の端へ寄ろうとした。
足が動かない。
膝から下が縫い留められたようだ。
馬も小刻みに震えているが、動けずにいる。
少将は手綱を握りしめた。
手が冷たい。汗が出ている。
列が近づく。
音が聞こえてきた。
衣の擦れる音。鈴の音。囃子。
笛。太鼓。鼓。
嫁入りの列だ。
華やかなはずのものが、闇の色に染まっている。
先頭の者が近づいてくる。
人の形をしている。
提灯を持っている。
だが——歩き方が、おかしい。
足が地面についていない。
浮いている。
すれすれに、土の上を滑っていく。
少将は息を呑んだ。
その者が、少将の前を通り過ぎる。
顔は見えない。
闇に溶けているのか、そもそもないのか。
次の者が来る。
また、浮いている。
足が、ついていない。
次。次。
どれも、同じだ。
浮いたまま、進んでいく。
衣だけが、妙に鮮やかだ。
暗いのに、柄が見える。
金糸。銀糸。刺繍。
闇の中で、光を放っている。
少将の喉が鳴った。
声を出そうとした。
出ない。
囃子の音が、やけに明るく響く。
ポン、ポン。
リズムが、心臓の鼓動と重なる。
列は続く。
何人いるのか。
数えられない。
そして——
輿が来た。
簾が少し上がっている。
中に、将監がいた。
顔が——叫び声の形に歪んでいる。
喉の奥から出そうなものをすべて押し出した表情だ。
音がない。鳴り物の音だけが、やけに明るく耳に残る。
将監の横に、花嫁が座っていた。
頭から
花嫁が少将に顔を向けた。
口元だけが見える。
笑った。
次の瞬間、口元が割れた。
大きくなったのではない。裂けたのだ。横へ、耳のあたりまで。
中が見える。歯が違う。
人の歯ではない。
花嫁の白い顔が、狐へ戻っていく。
その手が、被衣を上げて目元を見せようとする。
少将は叫ぼうとした。
声が出ない。喉の奥で空気が詰まる。
『……目を、合わせるな』
嵯峨殿の声が耳の奥で蘇る。
咄嗟に腕を上げたつもりが、かすかに袖を振っただけで動かない。
だが、紙の包みから、沈香の香りが漂った。
狐はそのまま、顔を前に戻した。
将監が必死に簾に手を伸ばして、外へ出ようとする。
けれど、花嫁の手が、将監の袖を押さえる。
優しい仕草だ。
その瞬間、将監の声だけが戻った。
「がぁ゛あ゛あ゛あ゛ッ!」
叫びが空気を裂いた。
それだけが残る。
輿は進む。狐火の列も進む。
少将の前を通り過ぎ、闇のほうへ吸い込まれていく。
狐火が遠ざかると同時に、身体がほどけた。
馬が一声いななき、急に走り出す。
少将は後ろへ倒れそうになり、慌てて手綱を握りしめる。
息が戻らない。
道には、もう何もない。
ただ、将監の叫びだけが、耳の奥に残っていた。
狐の嫁入り〜平安もののけ奇譚〜 緑山ひびき @midoriyama_hibiki
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