後編 冬の始まり
今年のクリスマスプレゼントで随一の人気商品は、ペットボトルの水になった。どこへ行っても売り切れで、給水車には長蛇の列が出来た。ときには、その給水車の水自体が汚染されていた。
それほどに、水質汚染は広がったのだ。原因は分からない。政府や自治体は一斉に訪れた水道管や設備の老朽化と説明したが、それはそれで行政の不作為が招いた人災だと、世間の議論は紛糾した。水がなければ、人は生きていけない。多くの生物は本来、水が確保できる場所でしか生息できないものだから。
しかし、そんな騒動など些末なことに思える出来事が、世界からのクリスマスプレゼントとなってしまった。
ホワイトクリスマスという言葉は、今の時代にも残っている。毎年の12月24~25日には、恋人たちへの贈り物のように空から粉雪が降り注ぐ。気象制御を利用した、行政サービスの一環だ。
雪は積もっても、足元を邪魔しないようほんのり薄化粧となる積雪に調整される。路面は雪避けのヒーターで温められて、ぬかるみ一つも出来はしない。
それが当たり前のクリスマスの風景だったのに――
粉雪舞い散るイブを明かした25日は、灼熱だった。40度を平然と超えている。昔はこれを酷暑日といったそうだが、そんな言葉では生ぬるい。日に当たるだけで、肌は赤熱して燃えるようだった。
真夏であってもこれほどに暑いことはありえない。人生で一度たりとも経験したことのない気温の暴力に苦しむのは、僕だけではないだろう。長年慣れ親しみ日常であった快適な暖かさ、暑さ、涼しさ、寒さ……そういったものからはまったく異質の、灼熱の世界が僕らを包んでいた。
ましてや、冬なのだ。夏らしい備えをしている人なんて、どこにもいない。身体は順応できないし、服をいくら脱いでもこの暑さを凌ぐことなどできはしない。
世間の状況を知ろうと、情報ネットワークを確認した。いきなり目に飛び込んできたのは、思い余って橋の上から川に飛び込む男を映す映像だった。関西のどこかだろうか。ぞっとした。川面から、湯気が立ち上っていたのだ。冬の風景で、気温よりも水温が高いために靄が立ち込めるといった古い写真なら見たことはある。今では無縁の風景だけど、それとも違う。川の水が泡立っている。煮えているのだ。涼を求めて飛び込んだ先にあるのは、地獄の窯で滾っている煮え湯そのものだった。
気がふれたように、煮えたぎる川の中で男が暴れ、やがて沈み――そこで映像は途切れた。すぐさま削除されたのか、オリジナルには二度とアクセスができない。転載された動画や、類似する情報が次々に消えていく。政府が情報操作にやっきになっているのは、明らかだった。
携帯端末がふいにアラームを鳴らした。僕の身体は怯えるようにして、震えた。
文字を読んで震えが止まる。西部教授からのメッセージだった。
[今から大学へ来ていただけますか?]
短い文言が、僕に安堵をもたらした。
この異変についての答えを知っているのは、おそらく世界で
[はい、すぐに行きます]
[ありがとう。念のため、衣服を揃えておきなさい。夏服を着ているでしょうが、冬服も用意するのがよいでしょう]
言われたとおりに、夏物と冬物を揃えて背負い鞄に詰めた。まるで、これからどこかへ出かけるというような教授のメッセージだ。ほかにもできるだけ、旅支度めいた備えをして鞄を背負った。
自転車を駆り、人波を縫って大学へと急いだ。あちこちでパニックが起き始めていた。暴動を起こすものもいた。
局所的な雨風がそこかしこで吹き荒れ、遠くの空には黄土色の砂塵らしきものが、巨大な壁のようにして地平に長く伸びていた。熱い雨に打たれて、悲鳴を上げる人々をたくさん見る羽目になった。
§
工学部の技術棟の一室に、西部教授の研究室はある。地下に設けられたその部屋に僕は初めて招かれた。大学に辿り着くころには天気は酷暑から極寒に変わり、さっそく詰め込んできた冬服が役に立つこととなったが、研究室に入ってすぐに上着は必要なくなった。
快適な温度が保たれた静かな部屋は、ゼミでは使われたことがない。
たくさんのモニター、なにかの計測機器、張り巡らされた導管の数々――古いものもあれば、新しいものもある。僕にはこの設備が何を意味するのか見当もつかないが、古典気象学に用いる機器であるようにも思えない。
奥の部屋から、教授の呼び声が聞こえた。
「こちらです。お入りなさい」
いつも通りに柔らかな物腰で、教授が僕を次の間へと招き入れた。科学の世界は一変した。そこはまるで呪術実践の場であるような、厳かな佇まいをした、社のような場所だったのだ。
「教授、ここはいったい……」
「学生をここに招いたのは、君が初めてなのですよ。工学部きっての英邁と名高い君が、私の講義に興味を持ってくれたのがうれしくてね。君ならきっと、私の仕事を理解してくれる――そう、期待しているのです」
「ありがたいお言葉ですが、これはいったい……」
「戸惑うのも無理はありません。私の家系が陰陽師の血筋であることは話しましたよね。それは今も、変わりません。西部家当代当主、曾祖父満春が成した呪術と科学の融合を今に受け継ぐ者――それが、私です」
驚くほかない。答えの一端なりを求めてここへやってきたが、世界の答えそのものを体現するのが、西部教授ご自身だったとは――
教授は静かに、普段と同じ口調をもって、僕に特別講義を開いてくれた。
「――当たり前ですが、道具には寿命がある。生き物は言うに及ばずです。機械設備ですから、耐用年数ですね。大規模天候制御機構網はね、もともと百年の猶予を作るための姑息な手段に過ぎなかったのですよ」
人類はかつて、気候変動のために滅亡の危機に瀕した。歴史の授業はそう教える。その危機を回避し克服したのが、完全な気象制御ではなかったのか。
「百年……それをもう百二十年使っている。メンテナンスを欠かさなくても、根本がすでに耐えられないのです。もうすぐ、滅びが訪れる……」
静かな声で悲観的な未来を語る教授に、僕は当たり前の疑問をひとつぶつけた。
「でも機械なのですよね? なら、新造して置き換えられるのでは?」
「残念ながら、そうは出来ない装置がある。そもそも、最も重要な箇所は、代替できる造りにはなっていないのです」
目を閉じて、教授は一呼吸置いた。息を吐き、重く口を開いた。
「君は、人の命を置き換えられると、思いますか?」
「え? それはいったい、どういう――」
教授はそれからも、淡々と僕に世界の秘密を語ってくれた。
これほどに恐るべき、忌まわしくもある機械技術の上に、一世紀以上人類が頼り、当たり前の日常を築いていたとは――誰であろうと、とても想像できるものではないだろう。政府が事故の真相をひた隠しにするのも、無理はないと思えた。
大規模気象制御網の核となるのは、「人の気」だった。その制御には、稀代の天才陰陽師、
残る日本三霊山の白山と立山にある副制御塔には、制御網構築当時に西部家が要していた陰陽師たちが選抜され、自ら人柱となって同じく機械術式に封印された。
そうして地球に流れる龍脈・レイライン、すなわち星の血脈に沿って制御網が構築され、世界各地の龍穴には気候制御装置が設置された。
この地球規模の陰陽機械運用の目的は、地球温暖化問題を解決し、さらに気候そのものを支配する――そんなものはむしろ、おまけといっていいものだった。
機械によって増幅された呪力は世界を包み込み、天地に人の気を大きく通わせることで、破滅的な気候変動の訪れを先送りにする――それこそが、「西部式機械陰陽術」の目指すところであった。解決ではない、姑息な先延ばしと教授が言われたのは、これがゆえだった。
「後の世の技術開発と備えを期待して、曾祖父はこの術式を作り上げました。未来の人々に、猶予を作りたかった。しかしいつしか、その思いは忘れられた。宇宙の摂理たる天の気に抗うことなど、出来はしないというのに」
手にした目の前の安寧に、人々は甘んじてしまったというのか。
しかし、百年の時を与えられても、当時の人々が百年先の危機に備えられるとは、僕にはとても思えなかった。当時を僕が生きたとしても、未来の危機を信じて行動できるのか。僕は僕自身を、とうてい信じることなどできそうもない――
「自然の摂理たる気の流れに抗ってでも、満春は人類を生かしたいと考えた。その願いから編み出した時間稼ぎの術でしたが、人類はまた問題を先送りにしてしまった。私の講義の中から、新たな導き手が生まれることを期待していましたが、それも時間切れらしい」
どうやら人を信じすぎるのが、満春博士と道明教授の共通点であるようだ。まるで学生が出席しなくてもにこやかにしている教授の姿。この優しさを美徳と見るか愚かと見るべきか……僕は答えを持ちえない。それとも、逆に厳しい人なのだろうか。残る者が残ればそれでよいと――
「抑え込んで先送りにしてきた、氷期が訪れる。正真正銘文字通り、人類にとっての冬の時代がやってくる。その先ぶれとして、歪みを溜め込み荒ぶる陰の気が放たれ、世界を破壊しつくすことでしょう。この揺り戻しを止めることは、叶いません」
もはや、天気確報などは意味を成さず、予想すらできない。天候は観測不能な無秩序な自然現象として、人類の前に立ちはだかる。百年の暇をつぶしてしまった、これが人類のツケなのだと、西部道明教授は講義を締めくくるのだった。
§
「世界は、どうなるのでしょう?」
「分かりません。分かりませんが……私はもう少し、悪あがきをするつもりです。ここまで付き合ってくれたのは君だけです。君さえよければ、私にもうしばらく付き合っていただけませんか?」
正直、僕は少し迷った。
でも、教授は「悪あがきをするつもり」と言ったのだ。それなら、僕たちにはまだ希望が残されているのかもしれない。少なくとも、僕は世界の行く末の一端を、見届けることだけはできるはずだ――
「行きます。お供します。お役に立てるかは、分かりませんが」
教授は笑んだ。僕の肩に、枯れ枝のような手がぽんと置かれた。この老人の身体のどこに、これほどの力があるのだろう。教授の手のひらに、僕はとても逞しい強さを感じていた。
教授の運転する車に乗り、僕たちはそのまま、大学をあとにした。
車は、西へとひた走る。
「行き先は?」
「大規模天候制御機構網、中央制御塔の地下です。霊峰・富士山の地下深く――まだ、曾祖父が生きていればよいのですが……」
背にする空には晴天が広がり、目の前の空には分厚い黒雲がたれ込めていた。
天を分ける青と黒の境では、青空を退け突き破るかのように幾筋もの稲妻が閃き、轟く雷鳴が地を揺らす。
遠くでは、何本もの大竜巻が太い柱となって天と地を結んでいる。天に延びる荒ぶる竜の如き暴風はビルや家屋を破壊して、大地から根こそぎ人の営みの証を巻き上げていった。
瓦礫も人も、あらゆるものが天に昇って消えていく。僕たちは終焉の光景を、ただ眺めることしか許されずにいた。
それが長く厳しい、冬の始まりの景色だった。
〈了〉
【カクコン11短編】天の気・地の気・人の気 まさつき @masatsuki
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