第3話 青いリンゴと銀河の切符

「鰻の寝床」の最奥、離れの部屋。

そこには、家を支配する糠の匂いも、先祖の視線も届かない場所があった。


プレーヤーの上でくるくると回る、鮮やかな青いリンゴ。 カレン・カーペンターの歌声が、湿った畳の隙間を縫って、私とおっちゃんを包み込む。

私はまだ本当に幼かった。でもおっちゃんが大好きで、歌えないのに、おっちゃんの真似をしてずっと洋楽を口ずさんでいた。


おっちゃんはタバコの薫りを纏いながら、色白の細い指で、私に『銀河鉄道の夜』を差し出した。 「Close to You」——あなたのそばに。 その曲が流れている間だけは、この家から、この血筋から、私たちは自由になれるのだと信じていたのだろう。


夕暮れ時の幼稚園に迎えにきている大勢の母親達の中、腰に手を当てて、少し気だるそうに立っている背の高いおっちゃん。

そして、それを見つけて迷わず駆け寄る幼い私。

「泣かない子」だった私、その時だけは子供らしく全身でおっちゃんに飛びついていった。

それは、おっちゃんという存在が、私にとって唯一「甘えてもいい、安全な場所」だったからなのかもしれない。 抱きついた私に、その温もりや重みを感じる瞬間だけは、あの禍々しい家の因縁を忘れ、おっちゃんも一人の「優しいおじさん」に戻れていたのではないだろうか。


おっちゃんは、一度も私に「戦い」の話をしなかった。 時計台に登り、何かに抗っていた若き日の情熱も、その果ての挫折も、 離れのレコードが奏でる旋律の奥深くに、完全に沈めていたのだ。


私を幼稚園に迎えに来る時、その気だるそうな背中には、 私には決して見せないように隠し通した、時代の傷跡と家の重圧が、音もなく張り付いていたのかもしれない。

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2026年1月15日 23:00 毎日 23:00

棲(すみ)か:根絶やしの家 真千 @grossa193

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