4 - 前妻
そのときだった。
「……ぁ」
すぐ横で、短い声が落ちた。
驚きでも、恐怖でもない。
ただ、何かを発見した時の、反射的な発声。
俺は、ゆっくりと視線をずらす。
そこに、彼女がいた。
ベージュのコート。肩にかけたトートバッグ。
髪は肩の長さで、ゆるくウェーブしている。
少し疲れた顔。目の下に薄いクマ。
だが、相変わらず綺麗な――前妻だった。
彼女は、俺の隣に立っている少女の姿を、確かに視界に捉えていた。
だが、すぐには動かなかった。まるで、信じられないものを見たかのように、あるいは信じたくないものを見たかのように、彼女は数秒間、店頭のテレビに釘付けになる。
その顔から、血の気が、ゆっくりと引いていくのが分かった。最初は頬から。次に額から。最後に唇から。彼女の顔色が、白く、透明に、変わっていく。
彼女は、俺を見ていない。
俺の存在に、気づいていない。
いや――気づけないのだ。
なぜなら俺は、もうそこにいないから。
俺は、彼女の世界には存在していないから。
画面を見つめるその目は、これでもかと見開かれていた。呼吸が浅くなり、喉が小さく上下している。
画面の中では、まだニュースが続いている。白い文字が走っている。アナウンサーが何かを説明している。
彼女は、その全てを見ている。そして、理解した。
俺が理解し損ねたことを、彼女は、一瞬で理解した。
少女が、俺の手を引いた。
小さな、だが、確かな力。その手の動きで、俺は現実に引き戻された。
「ママ」
その声で、前妻ははっとしたように視線を落とす。
テレビから、少女――いや、娘へ。
現実から、もっと確かな現実へ。
娘の姿を確認し、すぐに抱き寄せる。膝をつき、両腕で、娘の小さな身体を抱きしめる。強すぎるくらいの力で、小さな背中を腕の中に閉じ込めた。
「……どこに行ってたの」
彼女の声は、しっかりしていた。母親としての、保護者としての、大人としての声。けれど、声の高さが、ほんの少しだけ違っていた。張り詰めた弦のような、緊張を含んだ音。
娘は、何も答えない。
答えようがないのだろう。何と言えばいいのか、この小さな子供には分からないのだろう。ただ、俺の手を、静かに離した。
その感触が消えた瞬間、俺の指先が空気を掴んだ。
温もりが、重みが、繋がりが、消えた。
ただ、最初から何もなかったみたいに、最初から誰も握っていなかったみたいに、俺の手は、ただ空中に浮いているだけだった。
彼女は、娘を抱きしめたまま、もう一度テレビを見る。
ほんの一瞬だけ。一秒にも満たない、短い視線。
そして、すぐに視線を逸らした。
画面の中の映像が、自分を焼き尽くすのではないかと恐れているかのように。
彼女は立ち上がり、娘の手を取った。今度は彼女が、娘の手を握る番だ。
俺は、その横に立ち尽くす。
彼女のすぐそばで、同じ画面を見ているはずなのに、その視線は、俺の存在を綺麗に避けて通り過ぎる。俺は、透明なガラスか、空気か、そこにあってはいけない何かであるかのように。
「……知らない人に、ついて行っちゃだめでしょ」
娘に向けた言葉だった。
優しいが、厳しい口調。愛情があるが、叱責でもある。
母親として、当然の注意。
けれど、その言葉は、俺の中を、何の抵抗もなく通り抜けた。
〝知らない人〟
かつて、この女性の夫だった俺は。
かつて、この子供の父親だった俺は。
――知らない人なのか。
今の俺は、もう彼女たちにとって〝知っている人〟ではない。
記憶の中にしか存在しない、過去の残像に過ぎない。
娘は少し困った顔をしてから、小さくうなずく。
「うん」
素直な声。子供特有の、疑問を持たない従順さ。
娘は前妻の言葉を受け入れた。
そして、俺のことを、〝知らない人〟として分類した。
それで、この場は片づいてしまった。
前妻は、娘の手を取り、人の流れへ戻っていく。
その後ろ姿を、俺は見ていた。
ベージュのコート。
娘のピンクのワンピース。
二つの背中は、一度も振り返ることはなく、人混みの中へ溶けていった。
テレビの前に、俺だけが残った。
周囲には、相変わらず人が行き交っている。
誰も、俺に気づかない。
誰も、俺を避けないし、誰も、俺とぶつからない。
画面の中では、まだ赤い帯が流れている。
『速報』
その文字が、何度も、何度も、繰り返し表示される。
だが、もう、見る必要はない。
俺は、もうそれを理解する必要はない。
なぜなら、俺はその当事者だから。
俺は、そのニュースの中にいるから。
俺は踵を返し、出口の方へ向かった。
足が、自然に動いた。理由も確信もないが、これ以上、ここにいてはいけない気がした。
行き交う人々の声。笑い声。話し声。子供の泣き声。全てが遠い。
俺はもう、誰かの手を握っていない。
もう、誰かを導いていない。
ただ一人で、出口へ向かって歩いた。
一階へ降りる。出口が見えた。
大きな自動ドア。ガラスと金属でできた、境界線。
建物の内側と外側を分ける、透明な壁。
俺は、自動ドアの前に立つ。
いつもなら、もう開いているはずの距離。一メートル手前くらいから、センサーが反応して、ドアが開き始める。
――反応しない。
ドアは、閉じたまま。
透明なガラスが、静かに、そこに存在しているだけ。
俺は、もう一歩、踏み出す。
それでも、ガラスは沈黙したままだ。
センサーの向こう側で、人が行き交う。
外から入ってくる人たちのために、ドアは開き、閉じる。閉じては、開く。規則正しく、機械的に、その動作を繰り返している。
だが、俺が近づいても、開かない。
誰も、俺を避けない。誰も、ぶつからない。
外から入ってくる家族連れが、俺のすぐ横を順々に通り過ぎる。父親、母親、子供。彼らは開いたドアをくぐり、俺の横を通り過ぎ、モールの中へ入っていく。
俺が、そこに立っているのに。
俺が、出口を塞いでいるのに。
誰も、俺にぶつからない。
誰も、「すみません」と言わない。
誰も、俺を邪魔だと思わない。
透明な境界線のこちら側で、俺だけが立ち止まっている。
俺は、手を伸ばした。ガラスに触れようとした。だが、指先がガラスに届く前に、その動きは止まった。触れられない。触れることができない。触れる必要がない。
そのとき、ようやく理解した。
いや、理解というより、受け入れた。
世界はもう、俺の不在を処理し終えている。
俺がいた場所は、すでに埋められている。
俺が果たしていた役割は、すでに他の誰かに引き継がれているか、あるいは不要だと判断されている。俺がいなくても、世界は回る。娘は育つ。前妻は生きる。ショッピングモールは営業を続ける。ニュースは、流れ続ける。
そして俺は、ここにいない。
いや、正確には、ここにいるが、ここには存在していない。
俺は、自動ドアの前に立ったまま、動けなくなった。
出ることもできず、戻ることもできず。
ただ、境界線の上で、立ち尽くしていた。
透明な境界線のこちら側 沢田 マツリ @swdmtr
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