3 - 俺
人混みは、思ったよりも抵抗がなかった。
いや、〝抵抗がない〟という表現は正確ではないかもしれない。抵抗がある、ない、という次元の話ではなく、そもそも俺たちは、この人混みとは異なる層を歩いているような感覚だった。
肩と肩が触れ合う距離を、俺と少女は、水の中を進むみたいに、すり抜けていく。
ベビーカーを押す母親の横を通り過ぎる。
大きな買い物袋を両手に提げた老人の脇をかすめる。
スマートフォンの画面に夢中な若者の前を横切る。
だが、誰かにぶつかった感触も、「すみません」という謝罪の声も、舌打ちも、何もない。
俺たちは、ただそこにいないまま、人の流れの隙間を縫って進んでいた。
それは不思議な感覚だった。
恐怖というより、むしろ解放感に近かった。
社会的な摩擦から解放された自由。
誰にも気を遣わなくていい、誰の視線も気にしなくていい、そんな自由。
だが同時に、その自由は恐ろしく、孤独でもあった。
少女は、俺の手を離さなかった。
その小さな手の温もりだけが、俺をこの世界に繋ぎ止めている唯一の
三階から、エスカレーターで降りる。
金属の段差が、静かで規則正しい音を立てて回転している。エスカレーター特有の駆動音。だがその音は、水中から水面の音を聞いているように、遠かった。
少女は手すりに触れようとして、途中でやめた。手を伸ばしかけて、何かに気づいたように、その手をそっと引っ込めた。触れなくても、問題がないと気づいたような仕草だった。あるいは、触れることができないと、本能的に理解したのかもしれない。
俺たちの周囲――目の前と背後には、笑顔で会話する家族連れ。
輝く未来。幸せな約束。
それらは全て、俺たちには関係のない世界の話だった。
ふと、鮮明に、そして容赦なく記憶が蘇る。
休日に、前妻と、そしてまだ小さかった娘をベビーカーに乗せて、このショッピングモールの中を歩いた。あれは夏だった。七月の、暑い日曜日。外は三十五度を超える猛暑で、俺たちは冷房の効いたモールへ逃げ込んだ。
フードコートで、何を食べるか揉めたこと。
「ラーメンがいい」という俺と、「こんな暑い日にラーメン?」という前妻。結局、冷やし中華で妥協した。
無駄に広い通路を歩きながら、文句を言い合ったこと。
「荷物くらい持ってよ」という前妻と、「自分で買ったものなんだから、自分で持てよ」という俺。結局、泣き出した娘をふたりで全力であやした。
娘はまだ、ベビーカーに乗っていた。ピンクのベビーカー。前妻が選んだもの。その後の娘は機嫌を持ち直し、手に持ったぬいぐるみを振り回していた。
――そうだ。
ここは、俺たちがよく来た場所だ。
毎週のように来ていたわけではないが、月に一度か二度は、家族でここへ来た。特に用事がなくても、ただブラブラと歩き、ウインドウショッピングをして、カフェで休憩して、夕方には帰る。そんな、何でもない休日。
思い出した途端、胸の奥が、少しだけ軽くなった。いや、軽くなったというより、重さの質が変わった。鉛のような重さから、水のような重さへ。圧迫するような重さから、満たすような重さへ。
忘れていたわけじゃない。
ただ、触れないようにしていただけだ。
思い出すと痛いから。思い出すと動けなくなるから。
だから俺は、本能的に記憶に蓋をして、ここまで来た。
だが今、その蓋が開いた。そして不思議なことに、それは俺を壊しはしなかった。
二階の通路を抜け、角を曲がると、正面に家電量販店が見えた。黄色と黒の看板。白くて、明るくて、少しだけ騒がしい空間。
入口の外にまで、様々なサイズのディスプレイが、整然と並んでいる。どの画面も同じ映像――地上波のニュース番組を映していて、微妙にタイミングだけがずれていた。
アナウンサーの口が動くタイミングと、音声が流れるタイミングが、それぞれの画面で少しずつ違う。同じ現実が複数の層で同時に存在しているかのような、奇妙な光景。
俺は、そこで足を止めた。
理由は分からない。何かに引き寄せられるように、俺の足は、自然にそこで止まった。少女の手を握ったまま、俺は立ち尽くした。
少女が、不思議そうに俺を見上げる。
その視線を感じたが、俺はただ、テレビのほうを見ていた。画面の中では、ニュース番組が続いている。
『――今朝未明、都内で発生した――』
アナウンサーの声が、複数のスピーカーから合唱のように重なって流れてくる。
言葉は聞こえているはずなのに、意味が、頭の中で定着しない。音として認識はできるが、言語として処理できない。異国語を聞いているような――いや、それ以上に遠い、抽象的な音の羅列。
映像の下に、赤い帯が現れ、白い文字が走った。
『速報』という文字。そして、見覚えのある漢字が、いくつか並んでいた。
読める。読めるはずなのに、読めない。
目は文字を追っているが、脳がその意味の受け入れを拒否している。
『――三十代の男性が――』
『――単独で――』
『――現場から――』
断片的な言葉が、俺の耳に届く。だが、それらは繋がらない。パズルのピースが、テーブルの上に散らばっているだけで、絵にならない。
恐怖でも、驚きでもない。混乱でも、否認でもない。ただ、余計な雑音が一つ――ずっと鳴り続けていた耳鳴りが、突然消えたような感覚がしたのだ。
何かを理解したというより、理解し損ねていたものが、もう不要になった。
理解する必要がなくなった。
判断する必要がなくなった。
選択する必要がなくなった。
全ては、すでに決まっていた。
そして俺は、ただそれを確認しただけだ。
画面の中では、アナウンサーが深刻な表情で何かを説明し続けている。だが、その声は、もう俺には届かない。
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