2 - 娘
通路沿いの色とりどりの派手な看板の前に、その子は立っていた。ピンク色のフリルがついた、少しだけサイズの大きそうなワンピース。袖が手首を覆い、裾が膝下まで来ている。おそらく「すぐ大きくなるから」と親が大きめを買ったのだろう。白いタイツ、ピンクの靴。そして今にも泣き出しそうに唇を震わせ、大きな瞳を左右に泳がせている。
三歳、いや、四歳くらいだろうか。正確な年齢は分からないが、俺の娘が――会えなくなった娘が、きっとこれくらいの背丈になっているはずだ。
周囲を行き交うのは、大勢の買い物客。
その時、スマホを凝視しながら歩いてきた男が、少女に強くぶつかった。小さな体がよろめき、履いていたピンクの靴が床に嫌な音を立てて擦れる。
「……あ」
少女が小さな声を漏らしたが、男は止まらなかった。ぶつかった衝撃で自分のスマホが揺れたことに舌打ちし、少女を路傍の石ころか何かのように一瞥しただけで、視線を画面に戻して去っていった。
すぐ隣を歩いていた老夫婦も、少女のよろめきを見たはずだった。だが、彼らは申し合わせたように顔を背け、「最近のモールは混んでいて嫌ね」と、世間話の続きに逃げ込んでいった。
誰もその子に声をかけない。
いないからではない。気づかないのではない。
誰もが自分の世界に没頭し、自分の目的地へ向かって歩いている。
そのとき、俺は理解した。
――ああ、俺と同じだ。
俺の心臓が、ひどく不自然なほど静かに、しかし確実に、一点の熱を帯びた。脈拍が速くなったわけではない。むしろ遅くなったような気がした。時間の流れが変わった。周囲の喧騒が遠のき、その子の姿だけがスポットライトを浴びているかのように、鮮明に浮かび上がった。
あの子は、俺だ。
この巨大な、色彩に満ちた、しかし本質的には何も与えてくれない砂漠に取り残された、透明な存在。誰にも見られず、誰にも触れられず、誰にも必要とされない、この世界の余白。
俺はゆっくりと、その子の方へ歩み寄った。足が、不思議なほど軽くなっていた。さっきまで感じていた鉛の靴も、見えない鎖も、消えていた。いや、消えたのではない。それらは今、俺を引き寄せる力に変わったのだ。磁石に引かれる鉄のように、俺はその子へ向かって歩いた。
五メートル、四メートル、三メートル。
その間も、人々はその子の横を通り過ぎていく。誰も立ち止まらない。誰も声をかけない。迷子センターへ連れて行こうとする人も、店員を呼ぼうとする人もいない。その子は、この世界に存在していないのかと錯覚するほどに。
二メートル、一メートル。
その子の視線が、ふと止まった。
他の大人の誰一人として俺を見ようとしないこの場所で、この巨大なショッピングモールの喧騒の中で、その大きな瞳だけが、真っ直ぐに俺を捉えた。
黒い瞳。涙で潤んでいるが、まだ零れてはいない。
その瞳は、深い井戸の底のように、俺を吸い込もうとしていた。
「……パパ?」
その小さな唇が、音もなく動いたように見えた。実際に声が出ていたのかどうか、俺には分からない。周囲の喧騒が、その小さな声を呑み込んでしまったのかもしれない。あるいは、少女は声を出していなくて、俺が幻聴を聞いたのかもしれない。
だが、それは問題ではなかった。
この子が俺を「パパ」と呼んだこと。
それだけで、俺の中の想像の娘が、俺に笑いかける。
離婚して三年。前妻が親権を取り、俺は月に一度の面会交流すら、半年前から拒否されている。
「あなたに会うと、娘が不安定になる」という前妻の言葉。
弁護士は「争うこともできますが」と言ったが、俺にはその気力がなかった。だから俺は、娘と会えなくなった。娘の声も、笑顔も、記憶の中にしか存在しない。そしてその記憶の中で、娘は成長し続けている。会えなくなった時、娘は一歳だった。だから俺は、二歳の娘を想像し、三歳の娘を想像し、そして四歳の娘を想像してきた。
その想像が、今――目の前に現れた。
記憶の中で成長した娘が、いや、記憶の中で成長した娘そのものの
俺の脳内で、バラバラになっていたパズルのピースが、突然、あるべき場所へはまり込んだように、正しく繋がった。長い間、断線していた回路が、突然、通電したような。そんな感覚。
裾上げされたズボンのことなど、もうどうでもよくなった。
世界は、この瞬間、俺とこの少女だけになった。
俺は膝をつき、少女の視線の高さまで降りていった。床は冷たかった。膝に、その冷たさが伝わってくる。だが、それは不快ではなく、むしろ現実感を与えてくれた。
近くで見ると、少女の顔はもっと細部まで見えた。少し赤くなった鼻。震える唇。長いまつ毛。頬には、まだ幼児特有の柔らかさが残っている。ピンクのヘアゴムで結ばれた、短いツインテール。
「おいで。ママなら、あっちにいたよ」
俺は嘘をついた。俺はこの子の母親がどこにいるか知らない。そもそも、この子の母親が本当にこのモール内にいるのかどうかすら、確信が持てない。だが、それは俺にとっての真実になろうとしていた。この瞬間、俺の中では、俺がこの子の父親であり、この子が俺の娘であり、〝俺たちは一緒にいるべきだ〟という、揺るぎない確信が形成されていた。
俺の手が、少女の小さな、熱い肩に触れる。ワンピースの生地越しに、彼女の体温が伝わってくる。
驚くほど熱い。生きている。命がある。血が流れている。心臓が動いている。
驚いたことに、少女は俺を拒まなかった。身体を固くすることも、後ずさりすることも、泣き出すこともなかった。それどころか、少女は俺のカサカサの指を、その小さな温かい手で、ぎゅっと握りしめたのだ。
その瞬間、電流が走った。少女の手の温度が、俺の指から、手のひらへ、手首へ、腕へ、肩へ、胸へと伝わっていく。凍りついていた俺の身体に、血が、命が、戻ってくる。
ああ。そうだ、これだ。
この熱だけを、俺は死ぬほど求めていたんだ。
人間の温もり。誰かに必要とされる感覚。誰かの手を握る、握られる、その単純で、しかし決定的な繋がり。離婚してから、いや、離婚する前から、俺はずっとこれを失っていた。妻との関係が冷え切り、娘を抱きしめることもできなくなり、職場では上司に怒鳴られ、同僚からは避けられ、友人は去り、家族は離れ、俺は透明になった。この世界に存在しているが、存在していない。そんな矛盾した状態で、俺はここまで歩いてきた。
だが今、この小さな手が、俺を確かに掴んでいる。
俺は立ち上がり、少女の手を握ったまま、人混みの中へと歩き出した。どこへ行くのか、俺自身にも分からなかった。ただ、〝この手を離してはいけない〟という、強烈な衝動に突き動かされていた。
周囲の人々は、相変わらず俺たちに気づかない。すれ違う家族連れも、買い物袋を抱えた若者たちも、俺と少女を見ようともしない。俺たちが、本当に透明人間になってしまったかのように。
俺は、誰にも見られない俺たちが、誰にも見られないまま、この世界のどこかへ消えてしまえるような、そんな甘い、危険な、しかし抗いがたい確信に満たされていた。
俺は少女の手を引いて、エスカレーターの方へ向かった。下りのエスカレーター。地下駐車場へ続く階段。出口。外の世界。どこか遠くへ。俺たちだけの場所へ――。
少女は、俺についてきた。抵抗することなく、疑うことなく、その小さな足で、俺の歩調に合わせて歩いた。
「大丈夫だよ」
俺は少女にそう囁いた。
「もう、大丈夫だから」
それが彼女への言葉なのか、それとも俺自身への言葉なのか、俺にも分からなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます