透明な境界線のこちら側
沢田 マツリ
1 - その子
自動ドアが開いた。スライド式のガラス扉が左右に分かれ、内側から冷房の効いた空気が流れ出してくる。俺はその境界線の手前で一瞬、立ち止まった。前を行く家族連れが通り過ぎたばかりだ。センサーはまだ反応しているのか、それとも俺を感知して開いたのか。どちらでもいいはずなのに、俺はその判断がつかないことに、妙な不安を覚えた。
日曜日の午後。この時間帯のショッピングモールは、一週間で最も混雑する。吹き抜けの天井から降り注ぐ人工的な陽光、あちこちから響くBGMと店員の声、子供たちの笑い声と泣き声。家族連れが、カップルが、友人同士が、互いの存在を確かめ合うように肩を寄せ合い、笑い合い、この巨大な消費の殿堂を闊歩している。幸福な喧騒。それは俺にとって、遠い異国の言葉のように聞こえた。
俺はそこを、あてもなくフラフラと歩いていた。
――いや、本当は用事がある。一週間前、三階の紳士服売り場で買った安物のスラックス。試着室で履いたとき、裾が五センチほど長かった。疲れた目をした店員が無表情に伝票を書き、「明日以降にお越しください」と言った。
その伝票は今、俺のジーンズの後ろポケットに入っている。だが、サービスカウンターへ行く足は重い。いや、重いなんて生易しいものではない。鉛でできた靴を履いているような、あるいは足首に見えない鎖が巻きついているような、そんな抵抗を感じていた。
サービスカウンターへ行けば、店員と目を合わせなければならない。控えの伝票を差し出し、「少々お待ちください」と言われて待ち、「お待たせしました」という事務的な、それでいて適度な温度の微笑みを向けられる。
その一連の〝人間らしい〟やり取り。かつては何の苦もなくこなしていたはずのその手順が、今の俺にはひどく高い壁のように感じられた。
だから俺は、わざと回り道をすることにした。直線距離なら三分で着くであろうサービスカウンターまで、十五分……いや二十分かけて遠回りする。その遅延行為が、俺に束の間の猶予を与えてくれる。そしてどうせ回り道をするなら、かつて家族で何度も訪れた、あの場所を通るルートで行こう。
自分を罰するように、あるいは自分の傷口を確認するように――俺はそう決めた。
通路脇のショーウィンドウに映る、
ボサボサの髪の毛も、肩の落ち方も、確かに見慣れた自分だった。ただ、背後を行き交う人影が、ガラス越しに奇妙な重なり方をしている。
俺の肩のあたりで、小さな女の子が持った風船が、一瞬だけ輪郭を曖昧にしたまま、途切れずに向こう側へすり抜けていく。まるで、俺の身体だけが、映像のレイヤーを一段飛ばして存在しているみたいに。
「……疲れてるな」
俺は視線を逸らし、瞬きをひとつ挟んだ。
映り込みは、もう普通の風景に戻っていた。
エスカレーターに乗る。上りの、ゆっくりとした機械的な動き。目の前には若い父親がいた。二十代後半くらいだろうか。紺色のポロシャツを着て、その肩の上には三歳くらいの男の子が肩車されている。父親は時折、肩の上の息子の足首を、愛おしそうにポンポンと叩いている。
「見える? 見える?」という父親の声。
「うん! すごい!」という息子の声。
その声には、世界への信頼が満ちていた。
俺はその光景から視線を逸らし、自分の手を見つめた。エスカレーターの手すりを握る、自分の手。カサカサに乾燥した、血色の悪い手。いつからこんな手になったのだろう。指先が少し震えているのに気づく。それは空腹のせいか、それともこの場所が、記憶の中よりもずっと広く、明るく、冷たすぎるせいだろうか。
二階を過ぎ、三階へ。エスカレーターを降りると、そこは子供服売り場だった。明るい原色のディスプレイ。ピンク、水色、黄色、緑。キャラクターの大きな看板。無機質な白い什器の上に、小さな服たちが整然と並んでいる。かつて、娘のために、前妻と一緒にここで服を選んだ。
「これがいいんじゃない?」
「でも、すぐサイズアウトしちゃいそう」
「じゃあ、大きめを買おうか」
思い出すのは、そんな他愛のない、しかし確かに温かかった会話――。
子供服売り場の前を通り過ぎようとしたとき、その子はいた。
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