203X年11月 台北


203X年11月

中華民国/台湾 台北市大安区 国立台湾大学


11月の台北は、ようやくあの暴力的な熱気が鳴りを潜め、湿り気を帯びた涼風が街路のガジュマルの厚い葉を揺らす季節に入っていた。 建築家・伊東豊雄の手による国立台湾大学社会科学院棟。その象徴的な、樹木を思わせる白い柱が不規則に並ぶガラス張りのライブラリーには、午後の柔らかな陽光が複雑な幾何学模様を描き出し、高い天井から霧のように降り注いでいる。

日本の東都大学法学部から、交換留学生としてこの地に降り立って二カ月。桜木祐希は、ノートPCの画面と、目の前に広がる穏やかな、しかしどこか薄氷を踏むような危うい平穏が同居する光景を交互に眺めていた。


「祐希、また上の空? そのレポート、明日のゼミまでに終わるの?」


弾むような声に顔を上げると、隣で分厚い政治経済学の原書を広げている廖雨婷リャオ・ユーティンが、いたずらっぽく目を細めていた。 艶やかな黒髪をラフなポニーテールにまとめ、大学のロゴが刺繍されたネイビーのフーディーを無造作に着こなしている。知的な眼差しと、時折見せる年相応の幼い笑顔のギャップに、祐希は密かに心を動かされていた。


「いや、ちょっと……。さっきから学内Wi-Fiの調子が悪くてね」

「また? 私のスマホも、さっきから決済アプリがタイムアウトして学食で使えなかったわ」


雨婷は困ったように肩をすくめ、手元のタブレットを軽く叩いた。彼女はこの社会科学院で国際関係論を学ぶ俊英だ。


「ヘイ、二人とも。そんな難しい顔してると、せっかくのタピオカが不味くなるぜ」


大きなプラスチックカップを手に、独特のリズムで近づいてきたのは、交換留学生仲間のマークだった。 カリフォルニア州出身の彼は、典型的な西海岸の若者といった風貌だが、その実はサイバーセキュリティとメディア論を専攻する。暇さえあれば小型のジンバル付きカメラを回し、台北留学の日常を動画配信している。


「マーク、また撮ってるのか。図書館は撮影禁止だろ」

「今は中断してるよ。見てくれ、今日配信した動画の接続数。昨日、金門島の海底ケーブルがまた切断されたっていうニュースを取り上げてから、三倍に跳ね上がった」


マークが提示したスマートフォンの画面には、多言語のコメントが滝のように流れ落ちていた。 静寂を守るべきライブラリーの空気は、彼らの穏やかな会話とは裏腹に、常に外部からの「ノイズ」に侵食されていた。壁に設置されたサイネージのニュースヘッドラインは、今日も平穏とは程遠い語句を冷徹に羅列している。


『金門島の海底ケーブル三度目の切断。事故か故意の破壊かは不明と発表』

『中共軍機二十四機が防空識別区(ADIZ)に進入。中間線を越え連日の台湾周回飛行を継続』

『中華保衛党・リー党首、イェン国防部長の脱税疑惑に対し徹底追及を表明』

「……また、始まった」


雨婷の呟きは、重い溜息と共に冷たい空気に溶けた。 彼女の指先が、スマートフォンのニュース記事をスクロールする。そこには、拿捕された漁船の船長が、武装した中国海警局の係官に両脇を抱えられ連行される不鮮明な映像が添えられていた。


「ねえ、祐希。最近、変だと思わない? 突然の停電とか、信号機のトラブルとか、銀行のATMが数分だけ止まるとか。一つ一つはニュースにもならないような些細な不具合だけど」


祐希は、数日前にMRTの改札でICカードが読み取れず、数百人の乗客が殺気立って足止めを食らった光景を思い出した。駅員は「一時的なシステム負荷」と繰り返していたが、その表情には隠しきれない困惑が張り付いていた。


「ただの老朽化やケアレスミスにしては、タイミングが良すぎる気がするな」


祐希が答えると、雨婷は窓の外、遠く霞んで見える台北101の尖塔を見つめながら、声を潜めた。


「まるで、大きな舞台の幕が上がる前の、入念なリハーサルをされているみたい。私たちは、知らないうちにその舞台の上に立たされているんじゃないかしら」


彼女の言葉に含まれた予感は、秋の澄んだ空気を一瞬で凍りつかせるような鋭さを持っていた。祐希は、自分の背中を冷たい汗が伝うのを感じた。


「リハーサル、か……」

「そうだとしたら、劇の本番はいつ始まるんだろうな」


キャンパスには、授業を終えた学生たちの笑い声が響いている。しかし、その平和な風景の裏側で、目に見えない何かが確実にこの島の輪郭を削り取ろうとしていた。

その夜。 祐希は寮の自室で、日本にいる家族とビデオ通話をしようとした。しかし、画面は激しくデジタルノイズを放ち、やがて「接続不可」の一文字を残して暗転した。 窓を開けると、台北の夜景はいつも通り眩いばかりに輝いている。だが、その光の粒の一つ一つが、いつか唐突に消えてしまうのではないかという、根拠のない、しかし圧倒的な恐怖が祐希の胸を締め付けた。

社会が、日常が、音を立てずに融けていく。 その感覚はもはや被害妄想ではなく、肌を刺す現実の予兆として、確実に深まりつつあった。


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