203X年10月 厦門/東莞/台中
203X年10月
中国・福建省
巨大なコンテナターミナルの片隅、潮風に晒されて赤錆が浮き始めた保税倉庫の軒先で、台湾人の貿易商、
「……まだ許可が下りないのか。もう1週間だぞ。果実は腐り始めている」
陳が、厚い書類束を抱えた現地の通関業者に詰め寄る。業者は困り果てたように視線を泳がせ、声を潜めて答えた。
「陳さん、無理を言わないでください。海関の担当官は『植物防疫上の懸念が払拭できない』の一点張りです。精密部品の方も、今朝になって『国家安全規格に基づく追加の安全検査が必要になった』という通知がシステムに入りました。昨日までは正常だった項目が、突然赤く点灯しているんです」
陳は、脂汗の浮かぶ額を何度も拭った。倉庫の奥からは、腐敗した果実が放つ甘ったるく、それでいて吐き気を催すような異臭が漂ってきた。 それは、陳が30年かけて築き上げてきた大陸との信頼関係が、足元から音を立てて崩れ去っていく、腐敗の臭いでもあった。
中国・広東省
「……消防法違反? 先月の定期検査では合格したはずだ!」
台湾系大手EMS(電子機器受託製造)企業の現地法人責任者、
「基準が更新されたのだ。貴社の第3棟における非常口の配置、および溶剤貯蔵庫の換気システムは、新基準に照らして重大な欠陥がある。本日付で、当該ラインの操業停止を命じる」
「待ってくれ、今止まれば納期の遅れで数億ドルの損失が出る! 改修なら操業しながらでも……」
「命令に異議があるなら、書面で当局に申し立てよ。ただし、審理には数ヶ月を要するがな」
事務的な宣告と共に、工場のメインゲートには赤い封印が貼られた。 窓の外では、何も知らされていない工員たちが、突然止まったラインに困惑し、建物から追い出されていく。林のデスクにあるパソコンの画面では、親会社である台北本社の株価が、ストップ安に向けて真っ逆さまに急落していた。
中華民国/台湾・
茶館の片隅で、数人の経営者たちが小声で話し込んでいる。テーブルに置かれた凍頂烏龍茶は、すでに冷めきっていた。
「……あそこの工場も、来月で畳むらしい。大陸側の資産はすべて凍結され、従業員の給与も払えないそうだ」
「我が社も同じだ。
一人の経営者が、悔しげに拳で机を叩いた。 台湾各地の商工会議所や同業公会には、悲鳴に近い陳情が殺到していた。中国大陸に展開する「台商」たちは、今や人質も同然の扱いを受けている。
「これでも政府は『両岸の現状維持』だの『全民国防』だのと言うつもりか。このままでは、ミサイルが飛んでくる前に、私たちの生活が先に干上がってしまう」
その不満の火に油を注ぐように、店内の大型テレビから金切り声が響く。 極端な親中路線を掲げていつの間にかSNS上での支持を広げ、今年1月の立法院選挙で初めて議席を得た野党「中華保衛党」の議員が、日米との連携による海峡両岸の現状維持路線へと明確に舵を切った
「長年の国民党への信頼を裏切って民進党と密室で手を握り、浅薄な反中感情に迎合する郭政権の頑なな態度が、大陸の同胞を怒らせ、我々の経済を破壊しているのです! 今すぐ北京との対話に応じ、平和統一に向けた協議を開始すべきではありませんか!」
画面の中で振り回される拳。それに呼応するように、SNS上では『#両岸経済協力の再開を』『#自分の生活を守れない政府はいらない』といったハッシュタグが、組織的な勢いを持って拡散されていく。
かつては「経済は経済、政治は政治」と割り切っていた商工人たちの心に、拭い難い政府不信と、未知の「平和」への甘い誘惑が、じわじわと浸透し始めていた。
透し始めていた。
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