補遺 測定と判断(個人記)

 測定と判断は、同じものではない。

 この区別は、理論上は自明だが、運用においては意図的に曖昧にされることが多い。

 測定は状態を取得する行為であり、判断はその状態に意味を与える行為だ。

 前者は再現可能で、後者は再現できない。そこに人間が介在する。


 量子系では、この差は明確だ。

 観測は状態を変えるが、観測結果そのものは価値判断を含まない。

 どの固有値が得られたかは事実だが、それをどう扱うかは別の問題になる。

 測定装置は結果を示すだけで、選択はしない。

 選択を行うのは、常に外部だ。


 社会システムでは、この分離が崩れやすい。

 測定結果は、しばしば判断の代替として扱われる。

 数値は説得力を持ち、相関は因果の顔をする。

 だが、それは短絡だ。

 相関は選択を助けるが、選択を引き受けることはできない。

 引き受ける主体が存在しなければ、判断は宙に浮く。


 完成した測定は、誘惑が強い。

 精度が高く、遅延がなく、誤差が管理されていれば、人はそこに正解を見出したくなる。

 測定が示す方向に進めば、安全で、効率的で、責任を分散できる。

 だがその瞬間、判断は測定に吸収される。

 誰も選んでいないのに、選択が行われたように見える状態が生まれる。


 私は、判断を機械に委ねることに反対しているわけではない。

 正確には、判断を機械に「隠す」ことに反対している。

 機械が決めたのではない。

 測定が示しただけだ。

 そう言い換えられる構造が、最も危険だ。

 そこでは責任の所在が消える。

 消えた責任は、必ず別の場所で噴出する。


 測定が完成した年、外れ値が減った。

 だがそれは、世界が整ったからではない。

 外れが、外れとして現れなくなったからだ。

 測定系が、あらかじめ世界の振る舞いを規定し始めた。

 その兆候は、精度の向上として報告される。

 だが実態は、自由度の減少だ。


 判断は、非効率で、遅く、説明できないことが多い。

 それでも、人間が引き受けるべきなのは、そこだ。判断は最適化できない。

 最適化できないからこそ、取り消しが可能で、後悔が成立し、責任が残る。

 測定に判断を組み込めば、取り消しはエラーとして処理される。


 私は長く、測定の側にいた。

 だからこそ分かる。測定は完璧に近づけるべきだが、判断から切り離されていなければならない。

 二つが結合した瞬間、系は静かに暴走する。音もなく、警告もなく、正解の顔をして。


 完成した測定が示したのは、未来ではない。

 示したのは、人間がどこで判断を放棄するか、その境界だった。


 この境界を越えない限り、世界はまだ修正可能だ。

 越えた後では、修正は最適化として拒絶される。


 だから私は、判断の回路を空白に保つ。

 空白は欠陥ではない。

 それは、人間のために残された余地だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る