2013年―― 再訪

 同じ年を、二度生きることがある。

 最初は出来事として、二度目は理解として。


 オズニアックにとって、2013年はその年だった。

 最初に見たとき、告発は映像でしかなかった。

 編集された断片、強調された言葉、切り取られた文脈。

 彼はそれを、構造として処理した。誰が、どの位置から、何を持ち出したのか。

 判断は保留し、配置だけを読む。それが、彼の職能だった。


 だが、時間が経つにつれて、別の像が立ち上がる。

 告発は情報ではなかった。行為だった。

 測定ではなく、判断だった。


 2011年、世界は読める形を手に入れた。

 2012年、測定は完成し、外れ値は姿を消した。

 そして2013年、エドワード・スノーデンという一人の人間が、その構造に異物として現れた。


 彼は理解していた。

 仕組みも、自分の位置も。

 それでも踏み越えた。

 その一点において、告発は最適化でも合理でもない。

 だが、判断としては完全だった。


 オズニアックは、その行為を英雄譚として扱わなかった。

 同時に、裏切りとして切り捨てることもできなかった。

 それは、完成した測定構造の内部から持ち込まれた、人間の判断だった。

 構造にとってはノイズであり、想定外。

 だが人間にとっては、最後まで引き受けられた選択だった。


 彼は、この出来事を一つの例外として処理しなかった。

 なぜなら、同じ時代、別の場所に、自分とよく似た感性と才能を持つ技術者が存在していたことを知っていたからだ。


 その人物もまた、測定の力を深く理解していた。

 慎重で、用心深く、判断を機械に委ねないという一点において、オズニアックと同じ場所に立っていた。

 だが彼は、オズニアックとも、スノーデンとも別の選択をした。


 彼は、組織に残らなかった。

 告発もしなかった。

 代わりに、名前も立場も持たない個として、現場に立つ人間のそばに身を置いた。


 彼がしたことは、単純で、危険で、非効率だった。

 測定が示す結果を、そのまま実行しないこと。

 数字よりも、目の前の人間の判断を優先すること。

 失敗したとき、その責任を引き受けること。


 それは理論では説明できない。

 最適化にもならない。

 だが、その選択は機械ではなく、人間にしかできないものだった。


 オズニアックは、その事実を後から知る。

 直接の報告ではない。

 断片的な情報、配置の変化、そしていくつかの不自然な沈黙からの推定。

 だが、それで十分だった。


 判断を引き受ける人間は、例外ではなかった。

 告発という形を取る者もいれば、組織の外で、名もなき行為として引き受け続ける者もいる。

 完成した測定を、完全な支配へと拡張しようとする動きは、2013年の時点ですでに始まっていた。

 それに抗する闘争もまた、終わっていない。


 オズニアックは、自分が同じ場所に立たなかった理由を、何度も検証した。

 臆病だったのか。

 保身か。

 職業倫理か。


 どれも正しく、どれも不十分だった。


 彼は逃げていなかった。

 2013年の時点で、彼は長期在籍の技術者だった。

 抜ければ、系は歪む。

 残れば、観測は続けられる。


 沈黙は、逃避ではない。

 それは、観測を継続するための選択だった。

 判断を引き受けた人間が存在したこと。

 そして今も、引き受け続けている人間がいること。

 それを、事象として記録し続けるための立場。


 彼は、その闘争にシンパシーを抱いている。

 同時に、深い敬意も抱いている。

 同じ答えを選ばなかったからこそ、同じ問いを引き受けている。


 2013年は、終わりではなかった。

 それは、世界がまだ分岐可能であることを確認した年だった。


 測定は完成している。

 判断は、まだ人間の側に残っている。


 少なくとも、この時点では。

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