俺は送信ボタンをクリックした。
——彩、今助ける。
俺は送信ボタンをクリックした。
画面に「送信完了」の文字が表示される。
十年間の研究が、今、実を結んだ。
彩は止まる。交差点に進入しない。そして——生きる。
俺は震える手でマウスを離し、研究室を出た。
廊下の窓から差し込む午後の光が、やけに眩しかった。
応接室のソファに——
真実と希実が、並んで座っていた。
希実は真実の膝の上で絵本を広げている。
消えていない。
二人とも、ここにいる。
「……失敗、したのか」
送信は届かなかったのだ。十年間の研究は、結局——
でも。
「……良かった」
声が震えた。視界が滲んだ。
「和也さん?」
真実が立ち上がる。
「許してくれ……」
俺は二人を抱きしめた。
「ちょっと、どうしたの」
「パパ、くるしい」
希実が笑いながら身をよじる。
俺はさらに強く抱きしめた。この温もりが、まだここにある。
*
「許してくれ」
そう言って、急に和也が抱きしめてきた。
何があったのかわからない。さっきまで研究室にこもって、重要な実験をしていたはずだ。顔色も悪かった。
それなのに今、泣いている。声を殺して、肩を震わせている。
何を許すの?
「ママ、パパ泣いてるね」
「……そうね」
わたしは和也の背中に手を回した。
こんなふうに和也が泣くのを見るのは、何年ぶりだろう。最後に見たのは——
十年前。彩の葬儀の日だ。
あの日のことを、わたしは時々思い出す。
思い出したくないのに、ふとした瞬間に蘇ってくる。
あの日、わたしは彩の車の助手席に座っていた。
彩はプレゼントを買いに行くと言っていた。和也の——当時はまだ彩の恋人だった——誕生日が近かったから。
交差点に差しかかったとき、彩のスマホが鳴った。
「和也からメールだ。止まれ? どういうこと?」
「彩! 赤……」
その一瞬で、信号が変わっていた。
彩は気づかなかった。赤信号のまま、交差点に進入した。
衝撃。ガラスの砕ける音。
気がつくと、助手席のシートベルトが肩に食い込んでいた。体中が痛い。でも、意識ははっきりしていた。
彩は——運転席でぐったりしていた。
フロントガラスは粉々になっていて、彩の額から血が流れていた。
彩の口が動いた。まだ息がある。
そのとき、わたしの頭の中に、彼の顔が浮かんだ。
彩の恋人。わたしがずっと好きだった人。
彩がいなくなったら——
わたしは動かなかった。
彩の額から血が流れ落ちるのを、じっと見ていた。
彩の唇が何かを言おうとしている。でも、声は出なかった。
わたしは見ていた。ただ、見ていた。
足音が聞こえた。人が近づいてくる。
わたしは目を閉じた。
やがて、救急車のサイレンが聞こえてきた。
*
そうして、わたしは彼を手に入れた。希実も生まれた。
あの日、わたしが何をしたか、誰も知らない。
和也も。
彩も。
誰も。
「ママ、パパどうしたの?」
希実が不思議そうに見上げてくる。
「……パパはね、お仕事がうまくいかなかったのよ。悔しくて泣いてるの」
「ふーん。大人って変なの」
希実が首をかしげる。
そういえば、あのとき事故の原因になった、和也からのメッセージ。
『止まれ』
なぜ事故が起こるのがわかったんだろう。
一体、あれは何だったんだろう。
でも、今更聞けはしない。
和也はまだわたしたちを抱きしめている。
わたしはその温もりの中で、静かに目を閉じた。
【イヤミス】過去へ送れるのは、たった三文字だけ。【分岐】 STUDIO QAZXOO (スタジオ・ @STUDIO_QAZXOO
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