俺はマウスから手を離した。

 だめだ。やはり俺には押せない。


 俺はマウスから手を離した。


 時計は十一時三分四十秒を示している。あと二十秒。


 俺はキーボードに手を伸ばし、「止まれ」の三文字を消した。


 十一時四分が過ぎる。


 彩を救う最後のチャンスが、消えた。


 俺は目を閉じ、深く息を吐いた。


 入力フォームに、別の三文字を打ち込む。


 『ごめん』


 時計が十一時十分を示すのを待って、送信ボタンをクリックした。事故から六分後。彩がもう読めない時刻。


 画面に「送信完了」の文字が表示される。


 十年間の研究の、結末がこれだ。自己満足だ。わかっている。


 俺は深く息を吐き、研究室を出た。




 廊下の窓から差し込む午後の光が、やけに眩しかった。


 応接室のソファに、真実と希実が並んで座っている。希実は真実の膝の上で絵本を広げていた。


 二人の姿を見た瞬間、視界が滲んだ。


「和也さん?」


 真実が立ち上がる。


 俺は何も言わず、二人を抱きしめた。


「ちょっと、どうしたの」


「パパ、くるしい」


 希実が笑いながら身をよじる。


 俺はさらに強く抱きしめた。この温もりを、俺は選んだのだ。



      *



 急に和也が抱きしめてきた。


 何があったのかわからない。さっきまで研究室にこもって、重要な実験をしていたはずだ。顔色も悪かった。


 それなのに今、泣いている。声を殺して、肩を震わせている。


「ママ、パパ泣いてるね」


「……そうね」


 わたしは和也の背中に手を回した。


 こんなふうに和也が泣くのを見るのは、何年ぶりだろう。最後に見たのは——




 十年前。彩の葬儀の日だ。




 あの日のことを、わたしは時々思い出す。


 思い出したくないのに、ふとした瞬間に蘇ってくる。




 あの日、わたしは彩の車の助手席に座っていた。


 彩はプレゼントを買いに行くと言っていた。和也の——当時はまだ彩の恋人だった——誕生日が近かったから。


 交差点に差しかかったとき、右から車が突っ込んできた。信号を無視して。


 衝撃。ガラスの砕ける音。


 気がつくと、わたしはアスファルトの上に投げ出されていた。体中が痛かったけど、動けた。


 彩は——運転席でぐったりしていた。


 フロントガラスは粉々になっていて、彩の額から血が流れていた。


「彩……彩!」


 わたしは彩を車から引きずり出した。


 息がある。でも、意識がない。


 人工呼吸。心臓マッサージ。講習で習ったことを必死で思い出しながら、わたしは彩の口に自分の口をつけた。




 息を吹き込んだ。彩の胸が膨らんだ。




 もう一度。もう一度。




 そのとき、わたしの頭の中に、彼の顔が浮かんだ。


 彩の恋人。わたしがずっと好きだった人。


 彩がいなくなったら——




 わたしの手が止まった。


 口をつけたまま、息を吹き込むのをやめた。


 周りから見れば、必死に人工呼吸をしているように見えただろう。


 でも、わたしは何もしていなかった。




 彩の体から、少しずつ温もりが消えていくのを感じた。




 そのとき、路上に投げ出された彩のスマホが光った。


 やがて、救急車のサイレンが聞こえてきた。




      *




 そうして、わたしは彼を手に入れた。希実も生まれた。


 あの日、わたしが何をしたか、誰も知らない。


 和也も。


 彩も。


 誰も。




「ママ、パパどうしたの?」


 希実が不思議そうに見上げてくる。


「……パパはね、お仕事がうまくいったのよ。嬉しくて泣いてるの」


「ふーん。大人って変なの」


 希実が首をかしげる。




 そういえば、あのとき、彩のスマホの画面にメッセージが表示されていた。


 「ごめん」


 送信者は、和也だった。


 なにを謝っていたんだろう。


 一体、あれは何だったんだろう。


 でも、今更聞けはしない。




 和也はまだわたしたちを抱きしめている。


 わたしはその温もりの中で、静かに目を閉じた。

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