白の記憶

円つみき

白の記憶

 ゲレンデに到着したのは昼過ぎだった。

 車を降りた途端、冷たい空気が頬を引き締めた。

 ――寒い。

 しかし、あの頃に比べて冷え込みは幾分かゆるんでいる気がした。これは温暖化現象によるものなのか。目に見えないはずのその現象が、積雪量が減っていることで可視化されている。

 空を見ると、視界一面に何層もの黒い雲がうねっているのが見えた。そのうねりは時間とともに様相を変え、さながら黒い雲が空を浸食しているようだった。上空では風が強いことを示していた。

 ――このまま冷え込んで雪が降ってくれたら、ゲレンデのコンディションはもっと良くなるのに。


 車内でスノーボードウェアを羽織ってスキーブーツを履く。ボードのウェアにスキーブーツは似合わなかったが、毎年この期間だけはスキーをすることに決めていた。

 宿泊するための荷物を荷台に残すと、スキー板とストックを抱えて車を後にした。ボードのブーツに比べてスキーブーツは硬い。この歩きにくさが懐かしさを感じさせていた。


 ゲレンデには、滑走可能な雪の斜面が人工的に作られていたが、その両脇は芝が顔をのぞかせていた。積雪が少ない期間は夜間に人工降雪機でゲレンデを作る。

 それでも暖冬の時は、十二月の末であっても間に合わなくて滑走ができない年もあった。今年の状態ならば十分に楽しめそうだった。


 リフトのチケットを購入し、ブーツを整えてスキー板をはめる。ゴーグルから見える景色は、暗い雲のためにその明るさを落とし、斜面の微妙な凹凸が見にくくなっていた。

 吐いた息が白く濁った。到着した時よりも冷え込んでいるのが実感できた。


 今日のリフトは中腹までが最高位置のようだった。リフトを降りて山頂側に視線を向けた。ゲレンデに雪は積もってはいたが、圧雪ができていない。山頂へと続くリフトがその動きを止めていた。


 斜面には人がまばらに滑っているのが見える。木の葉のように左右に振れながら滑り降りるスノーボーダー、美しいカーブを描く者もいる。その合間をくぐるようにスキーヤーが滑っていた。

 ストックを握り直して、ふっ、と一息吐いた。両足を交互に上げる。スキー板がバタバタと雪面を叩いた。まだ足は重く感じるが、そのうちに慣れてくるはずだ。大きく息を吸い込み、膝を曲げて重心を落とす。勢いをつけ、一気に板を斜面に向けた。

 体が、加速する。

 冷たい空気が風になって頬を打つ。風を切る音に混じって、スキー板が雪を削る音が耳を貫いていく。

 二枚の板に交互に体重を預け、板を雪面に削りこませながら、僕は斜面にカーブを描いた。


 僕の両親は、僕が小学生になる前からこのゲレンデに連れてきていた。年末年始をこのゲレンデと民宿で過ごすのが家族の恒例行事だった。

 僕は両親にスキーを教えられた。その頃からスノーボードの客が多かったが、僕の両親はそろってスキーだけを楽しんでいた。十二月三十日から年明けまで泊まりこみ、家族で雪山を堪能する。普段、旅行をしない両親だったが、この期間だけが唯一の家族旅行だったと記憶している。


 まだその頃は、山はすべて雪に覆われ、ゲレンデは全面が滑走可能だった。リフトとゴンドラを乗り継ぎながら山頂まで上がり、三人で滑り降りる。

 ボーゲンターンの覚えたてだった頃は、両親についていくのが必死だった。スキーの楽しさがわからなくて、ゲレンデに立つだけでうんざりしていた時もあった。

 だが今では――。

 毎年この時期に、両親に連れられたように、一人でこのゲレンデに立つ。


 やがて、日が落ちた。リフトの営業時間も終わりに近づき、その頃には待望の雪が舞い落ちてきていた。暗い雲は視界を奪うが、雪を運ぶ使者でもあった。

 ――今日はここまでか。

 ウェアの中の体が汗ばんでいるのがわかるが、今は寒さを感じなかった。だが、うっかりとのんびりしていると一気に冷え込みが増してくる。

 僕はスキー板やブーツにこびりついている雪を荒く落とし、荷台に放り込むと、宿舎に向けて急いで車を進ませた。


 そのゲレンデから三十分走るとその民宿がある。両親に連れられてきたときから、そこを利用していた。

 店が並ぶ華やいだ国道から一本離れ、少し寂し気なところにその宿はあった。

 広い駐車場を持ち、ぽつんと立つそれは遠目に見ても民宿だとすぐにわかる。すでに辺りは夜の様相を表し始め、闇が訪れようとしていた。窓から漏れる灯りが僕を待っているようだった。


 車から戸口までの間だけで、横殴りの冷気と雪に体がさらされ、思わず身震いが起きた。

 冷たい引き戸をガラガラと開けると、そこは広い土間になる。壁を見ればすでに何本かのスノーボードが立てかけられ、土間にはいくつかのブーツが並んでいた。

 そのまま、暖かい室内が僕の体を弛めた。石油ストーブの灯油が焚ける匂いがした。僕はその匂いが好きだった。

「いらっしゃいませー。杉本さん、ようこそおいでなさいました」

 奥からぱたぱたとスリッパの音が聞こえ、女将さんが僕を迎えた。

 女将さんはすでに七十を越えているはずなのに、ふっくらした顔につやがあった。三角巾で髪を隠し、大きなエプロンで丸い体を包んでいた。

 まだ親に連れられていた時は僕を名前で呼んでいたが、一人で利用するようになってからは、親と同じ名字で呼ぶようになった。

「お部屋は暖めてありますし、お風呂も沸いておりますよ。お食事を先になさいますか」

「じゃあ先にお風呂をいただきます」

「お食事はどうなさいます。食堂に準備しましょうか。それともお部屋にお持ちしましょうか」

 女将さんのテンポのいい対応は相変わらずだった。

 僕は部屋でお願いします、と伝えると、ではお風呂の間に用意いたしますね、とすぐに返事が返ってきた。

 僕は宿泊の手続きを手早く済ませると、荷台に積んでいたスキー板を土間に立てかけ、部屋に荷物を置いた。

 一人では広すぎるほどの畳張りの和室には、大きなテレビが一台と炬燵が真ん中に置いてある。壁際に設置された古めかしいヒーターが室内を暖めていた。

 すでに部屋自体にも年季が現れてきていて、よく見れば壁紙も所々めくれている。

 部屋の隅には布団がすでに準備されていて、いつでも横になることができた。


 荷物を置き、風呂の準備を抱えて部屋を出る。

「いらっしゃい。孝明くん」

 廊下で声をかけられた。女将の孫の明日菜だった。僕より三歳年下の彼女は、今年の春で大学を卒業する年になった。彼女はこの時期になると民宿の切り盛りを手伝う。

「久しぶりだね。今年もお世話になるよ……あ、髪を切ったんだ」

「え、何言ってんの。もう二年もこの長さだから」

「そうだったっけ。明日菜は髪が長いイメージがあるから」

 彼女は腰の辺りまで髪を伸ばしていた時期が長く、記憶の中の彼女はずっとその長さのままだった。今では肩のあたりまでで切り揃えられていて、大人っぽい印象を与えた。

「お食事は部屋だったね。準備しておくから」

「ありがとう。寒いからもう風呂に行くね」

 ごゆっくり、という言葉を背中で聞いて浴場へと急いだ。


 風呂から上がって部屋に戻ると、炬燵の上に夕食が並べられていた。脇にはご飯のおひつが添えられてある。

 炬燵に腰を落ち着けると、スマートフォンで天気を確認した。今晩から天候が荒れるようだ。

 確かに外を覗く窓が風に打ち立てられ、時折ガタガタとその枠を揺らしていた。窓に顔を寄せると真っ暗な景色の中に、速度と強さを持った雪が、横殴りに吹雪いているのが見えた。


 ドンドンと部屋の戸をたたく音が聞こえた。この時間に顔を出すなら明日菜だろう。

「どうぞ」と声をかけると戸が開く。

「お部屋、寒くないかな」と明日菜が顔を出した。

「今日は陶板焼きだよ」と彼女が言うと陶板の下の固形燃料にライターで火をつけた。

「すごい吹雪だね」彼女の横顔を眺めて言った。

「数日、続くかもだって。せっかく来てくれたのに」

「いや、滑ることさえできれば天気はあんまり関係ないよ。降ってくれた方がゲレンデの状態が良くなるから、僕は嬉しいな」


 毎年、明日菜とたわいもない話をする。

 たった数日しか滞在しないが、幼い頃からこんな時間は必ずあった。

 まだあの頃は、女将の娘さんが客のもてなしをしていた。明日菜はまだ小さくて、女将の娘、つまり明日菜の母親に寄り添うように、この宿に連れられてきていた。

 その頃から、明日菜はこの時間になると僕たちの部屋に顔を出して、炬燵に足をつっこんでいた。

 女将さんたちが何度も明日菜を引っ張り出そうとしたが、僕の父親がそれを制して、一緒に食事をとらせたりした。

 女将さん達は恐縮していたが、幼い明日菜は機嫌が良かった。僕も年が近い女の子がいたおかげで、照れることもあったけど、楽しく過ごすことができた。

 今では、明日菜と短い時間を共にすることも、この旅行の楽しみになっていた。


「明日、紅白か」

「今年は誰が出てるの」

「私、最近ボーカロイドばっかり聞いてるから、よくわかんないな」

「意外だね。明日菜、ボカロ聞くんだ」

 僕達は炬燵に足をつっこみながら、まるで昨日会った友人のように話をした。


「私さー、この夏、沖縄に行ったんだよ」

「いいね。今度は沖縄に行ったのか。僕の高校の修学旅行、沖縄だった」

「スキューバした?」

「した。すごくきれいだった」

「よねー」


 しばらく話し込み、日が変わる手前で明日菜は炬燵から足を抜いた。

「じゃあ私、もう行くから」

「うん。じゃあまた明日」

「あ、あのさ」

「ん」

「明日、晩ご飯一緒に食べていいかな」

「へえ、珍しいことを言うね。構わないよ。じゃあ食堂で」

「わかった。ありがと、じゃあお休み」

 そう言って明日菜は部屋を出ていった。

 しかし、その横顔には、どことなく陰りがあるように思えた。


 翌朝も吹雪は止んでいなかった。

 ゲレンデを見上げたが、横殴りの雪と風が視界を奪い、中腹あたりから白く霞んだ。気温を表示する掲示板は氷点下を示し、グローブの中でさえ指先がかじかむ思いがした。

 山全体が雪に覆われているように思えたが、全面滑走にはまだ至らないようだった。

 それでも、昨日の固められた雪面の上にパウダースノーが積もり、スキー板を履いても、くるぶしまでブーツが新雪に沈んだ。

 視界は悪いが、雪面のコンディションは最高だった。

 ただ、これほど積もってしまうとスキー板が雪に取られ、小さい弧のターンは描きにくい。うっかり転倒してスキー板をはずしてしまうと、雪に埋もれた板を探すのに骨を折ることになる。

 それでも、吹雪にさらされながら、一日中、新雪の感触を楽しんだ。



 その食堂は、駐車場側から見ると宿舎に寄り添うように建てられていた。しかし、中に入ると宿舎と一続きになっていることがわかる。

 民宿の食堂であると同時に、外部の客も利用できる食事処でもあった。

 店内に入ると、大きなテーブルに食卓椅子が整然と並んでいる。食堂の中央には、子供の背ほどの大型の石油ストーブがあった。ストーブを取り囲むフェンスはスキー客の濡れたグローブを干せるようになっていて、床にはブーツも並べて乾かすことができた。

 モルタル仕立ての床は、歩けば硬質な音を跳ね返した。壁には大型の液晶テレビが取り付けられていて、レトロな雰囲気の食堂の中で、そこだけが妙に新しく浮いて見えた。

 すでに紅白歌合戦が始まっていて、一組の家族と二人連れの男性客がテレビを見ながら食事をとっていた。

 料理のおいしそうな匂いが鼻をくすぐる。家族連れの笑い声に、テレビから洩れる紅白歌合戦の歌が混じる。ストーブだけではない暖かさがここにあった。


「杉本さん。お食事はテレビの前に用意しておきましたから」厨房の方から女将の声が聞こえた。僕の姿に気がついたのだろう。

 ありがとうございます、と厨房に声をかけた。

 毎年、大みそかはすき焼きだった。

 大型テレビの前のテーブルに目をやると、そこには僕と明日菜の二人分の食事の用意がなされていた。

 だけど。

 ――おかしい。

 僕は違和感を感じていた。



 確かに、昨日、明日菜は僕と一緒に食事をとろうと言っていた。だが、この二人分の食事は宿泊客用だったし、すき焼きの鍋は一つだった。一つの鍋に、二人で箸を入れることになる。

 今までにこんなことはなかった。明日菜と食事をとったことは何度もあったが、そのときは彼女はまかないだった。


「どうしたの。ぼーっとして」背中越しに彼女の声が聞こえた。

「明日菜。この食事。一緒でいいの」

「あ、うん。……一緒の鍋じゃ、だめだったかな」

「いや、それはいいんだ。だけど、これって宿泊客用だよね。こんなこと今までなかったから」

 そう言いながら明日菜に振り向いた。彼女の顔は微笑んではいたが、視線を床に落としていた。

「おばあちゃんがね。今年だけは特別だからって」

「特別……」

 僕はその言葉を繰り返していたが、彼女は気にしないそぶりをした。

「いいじゃない。一緒に食べようよ。ほら紅白も始まってるし」


 ”特別”という言葉と、明日菜の陰りのある表情が胸の奥に引っかかっていた。

 だが、紅白歌合戦を見ながらすき焼きをつつく彼女の表情は明るかった。

 僕は胸の中にあるしこりに気がつかないふりをして、このかけがえのない彼女との時間と食事を十分に楽しんだ。


 やがて食事をきれいに食べつくし、紅白もその番組を終え、静かに年をあけようとしていた。

 食堂には僕と明日菜の二人だけを残し、窓の外に目をやればいつの間にか吹雪はやんでいた。

 厨房も静まり返り、女将さんたちもすでに休んでいるようだった。

 穏やかな時間が流れていた。


「あー、楽しかった」明日菜は満足げに微笑んだ。「すき焼きもおいしかったね」

「実はさ、一年に一度しか食べないんだ。すき焼き」

「うそでしょ。え、つまりここで食べるのが最初で最後」

「一人暮らしだと、あんまり鍋はしなくてさ」

「ふーん。それは……そうなのかな」

「明日菜って、今の時期だけ手伝いに戻ってきてるんだよね。一人暮らしじゃないの」

「一人暮らしだよ。東京の学校だからさ。だけど、もうほとんど授業は終わってるよ。あとは卒業するだけ」

「そっか。そういえば……明日菜が卒業したらどうするかって、聞いてなかったな」

「それは……」

 明日菜が口を濁した。テレビの音だけが二人の間に流れていた。

「その話は、明日してもいいかな」

 少しだけ表情を落として彼女は言った。潤んだ瞳の彼女を、僕は今までに見たことがなかった。意外にも、そんな彼女は美しく見えた。

 僕はただ言葉を失っていた。


 翌朝。

 一月一日の山はすっかりと晴れていた。太陽が姿を現し、山をまぶしく照らしていた。

 ゲレンデは全てが雪で覆われ、全面が滑走可能になっていた。

 リフトもゴンドラも全機が稼働し、山頂まで上ることができるようになっていた。

 太陽の光がすべてを輝かせ、純白の雪面が青い空を浮きだたせているようだった。樹木は真っ白に染まり、凍り付いているように見える。空気は澄み渡り、今までに見たことがないほど遠くの景色を見晴らすことができた。

 日差しは強かったが、冷え込みは深かった。吐く息はすぐに白く濁り、動いていなければ体も凍り付いてしまうようだった。

 山頂に近い斜面は、斜度もきつい。二本の板にしっかりと体重を乗せなければ、すぐに制御が不能になる。

 重力が僕に与えるスピードに正しく対応できれば、ゲレンデに美しいカーブを描くことができた。


 体に速度が乗ると、世界が無音になる。

 板が雪をとらえる音も、風を切る音さえも。

 意識は、体よりも先に次のカーブを描く。

 スピードが作り出す遠心力に負けないように、力強く、そして素早く体をさばく。

 自分が呼吸をしていることを忘れるほどに、雪面に体重を刻みこみ続けた。


 幼いころの記憶がよみがえった。

 急斜面を一気に滑り降りる父の姿。母は速度を落としてゆっくりと滑る。僕は恐怖に震えながら、母の後を追っていた。

 今は、その斜面を父と同じように滑ることができる。

 このゲレンデに立つと、まだ両親と一緒にいるような気持ちになれた。

 そう思える場所は、もうここにしか残っていない。


 二人は、僕が高校生だった頃に交通事故に遭い、そのまま帰ってこなかった。


 やがて純白の世界は、日の位置とともにその色を変えていった。

 青かった空は赤く染まり、白い雪面は暗い影に覆われていく。

 営業時間が終わるころには、僕の体力は底をつきていた。

 だが、充実感が体を満たしていた。


 ふと、昨夜の明日菜の言葉が脳裏をよぎった。

 ――「その話は、明日していいかな」

 彼女は僕に何を伝えるのだろう。

 僕が帰る日が、明日に迫っていた。


 宿に帰り、風呂を済ませた。

 明日の朝、チェックアウトをすれば、この部屋には戻ってこない。


 ドンドンと戸をたたく音が聞こえた。

「どうぞ」と声をかけると明日菜が顔を出した。

 その表情は曇っていて、瞳には影が差していた。

「大丈夫?明日菜、体調悪い?」

「そうじゃないんだ。そうじゃなくってさ……」

「炬燵、入りなよ」

 ううん、と彼女はうつむきながら首を振った。


 そのとき。

 戸をたたく音が聞こえた。

 明日菜がここにいるのに、誰の訪問があるのだろうと、不思議に思った。

 どうぞ、と声をかける。

 戸が開くと、そこには板の間に膝をつく女将さんがいた。

「おくつろぎのところすいません」

 思い詰めた表情の女将さんは、いつもとは違う雰囲気があった。


 僕は胸騒ぎを覚え、とっさに姿勢を正して座り直した。

「女将さん。あらたまって、どうしましたか」

 女将さんは、深く頭を下げながら言った。

「杉本さん。実は、今年でこの宿を閉めようと思うのです」

「えっ」僕は息を飲み、思わず声が漏れた。

「この宿も、もう古くなりました。新しいホテルが増えて、続けていくのが難しくなったんです」

「そんな……」

 女将さんはゆっくりと頭を上げた。

「娘夫婦がこの土地を離れたとき……そのときには、一緒にこの宿をたたもうと思っていました。ですが、明日菜が――」

 女将さんは一言、言葉を区切った。一度、明日菜に目をやった。

「明日菜が、手伝うと言ってくれたものですから……それで、もう少しだけ頑張ってみようと、せめて、明日菜が大学を出るまでは、この宿を続けようと……」

 気づけば、僕は胸に手を当てていた。心臓のあたりに痛みがあった。しかし、ただ女将さんの話を聞くこと以外に、できることは何もなかった。

「杉本さん……いや、孝明くん。本当に長くこの宿を使ってくれて、私は感謝しています。あなたがお父様とお母様と三人でそろって来ていた時から、本当によくこの宿を使ってくれました。ありがとう。孝明くん」

 僕は女将さんの顔を見ることができず、うつむいた。

「そして、ご両親の思い出がいっぱい詰まっているこの宿を、閉めることになってしまったこと、許してください」

 僕はうつむきながら、首を横に振った。

「それと……」女将さんは、言葉をつづけた。「このことは、孝明くんに私からきちんと話したかったんです。だから、今まで黙っていた明日菜を責めないでやってください」

 明日菜は体を丸くさせながら、肩を震わせていた。


 女将さんは、また深く頭を下げると、静かに立ち上がった。

「……ごめんなさいね」

 それだけ言って、戸の向こうへ姿を消した。

 部屋に、明日菜と僕だけが残されていた。


 沈黙が続いた。

 ヒーターの音と、時計の秒針が刻む音だけが、大きく響いていた。

「……ごめん」

 明日菜がかすれるような声で、ぽつりと言った。

「明日菜が謝ることじゃないだろ」

「違うんだ……」

 明日菜は、小さく首を振った。

 僕は両手で顔を覆った。そう、明日菜はまだ僕に伝えてないことがある。

「私ね……大学を卒業したら――」

 彼女が大きく息を吐くのが聞こえた。

「卒業したら」

 その声は震えていた。また、言葉が途切れた。

 僕はゆっくりと目をあけて、明日菜を見た。彼女の顔は涙で濡れていた。

「私さ。旅行が好きなんだよね」明日菜は無理に明るい声を出していた。涙を流しながらほほえみを浮かべている。「だからさ、ちょっと、外国に行こうと思って」

 うん、と僕はうなずいた。「明日菜、旅行の話、いっぱいしてたもんな」

「お父さんとお母さんがさ、今、オーストラリアで暮らしてるんだ。だから――」

 明日菜はそれ以上、言葉を続けることができなかった。

 だが、その先に示されるものは、言葉にしなくてもはっきりとわかった。

 僕は、声を上げて泣き続ける明日菜に寄り添い、そっと彼女の頭を抱えることしかできなかった。



 自宅へと向かい、僕は一人、アクセルを踏む。

 両親の記憶も、明日菜への想いも、あの宿にはその全てがあった。

 もう、あの宿に戻ることはない。

 だけど、僕はまたゲレンデに立つだろう。

 両親と彼女の思い出を、胸に灯し続けながら。


 ハンドルを握る手に力が入る。

 僕が走るこの道は、明日へと続いているように思えた。


(了)







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