それは本当にあったのか

かつエッグ

それは本当にあったのか

 母の遺品を整理していると、古い白黒写真が出てきた。

 ランニングシャツの父が、まだ幼いわたしを、体の前で抱いている。

 写真の中の父は、驚くほど若く、緊張した顔でわたしを抱えている。若く見えるのも当然で、父はまだ二十代だ。わたしを抱く父の腕は、たくましく筋肉がもりあがっている。

 父の腕の中のわたしは、なぜか目を大きく見開いて、びっくりしたような顔でこちらを向いていた。カメラを構えた母を見ているのだろうか。わたしの左手は、指先から肘のあたりまで包帯で覆われている。ということは、この写真は私が三才のころのものだろう。この写真が撮られたしばらく前に、わたしは大火傷を負ってしまったのだ。

 これは、故郷の家の庭で撮ったと思われる写真である。

 背景には、黒い壁が写っている。

 写真の小さな画角からはわからないだろうが、波トタン板にコールタールを塗ったその壁は、実は高くそして広い。地方路線のバス会社が、所有する車両を格納・整備するための大きな建物の壁だった。そういえば、車掌さんの制服を着た若い女性が、わたしを抱き上げている写真を昔見たことがある。バス会社の人たちと近所付き合いがあったのだろう。

 わたしの記憶の中のその壁は、わたしが小さかった事もあるだろうが、見上げるほどに高く、横にも長く長く伸びていた。わたしたちのささやかな家は、その大きな壁に張り付くように立っているのだった。

 コールタールの臭いのする黒い壁の横の、その家で暮らしたのは、わたしが小学校一年生の秋までのことだった。あれから長い月日が経った。その家はもうない。隣のバス会社は赤字続きで撤退し、その土地を運送会社が買って車庫とした。わたしの育った家も、同じ会社が買い取って更地としたあと、倉庫の建物となった。わたしたち一家は、駅に近い場所に引っ越した。その後も、何度か転居を繰り返した。父は八十一でこの世を去り、父を亡くした後、平均寿命をはるかに超えて長く生きた母も、鬼籍に入った。今、母の遺したその写真を眺めていると、あの家でのさまざまな出来事が、記憶の底から、ありありと浮かび上がってくる。


 家には、小さな池があった。父が、自ら庭を掘り下げ、コンクリートで固めて作ったもので、深さも幼児のわたしの膝ぐらいまでしかないような、浅く狭い池だった。池には金魚とザリガニが飼われている。田んぼで掬ってきたドジョウやタニシ、ヤゴ、みんなその池に放りこまれるが、どれだけが生き延びていたのかはわからない。

 その日、マサくんという近所の子が、わたしの家に遊びにきていた。母は買い物に行っていて、その時家には、わたしとマサくんしかいなかった。

 マサくんが、青いビニールホースを咥えた。ホースのもう一方の端は、池の水の中にさしてある。このホースは、池の水換え用だった。ホースを咥え、ストローを吸うように陰圧をかけると、池の水が吸い上げられてくる。水が池の縁を越えたタイミングを見計らって、口を離し、ホースを地面に下ろせば、あとは勝手に水が溢れてくる。父はいつも、わたしの前で、事もなげにそのホースを使って、水替えをやっていた。わたしとマサくんは、自分たちでそれをやれないかと試していたのだ。これがなかなか難しかった。ホースは、わたしたちの口には太く、思い切り吸わないと水が上がってこない。かといって吸いすぎると、池の水が、口の中にどっと流れ込む。わたしとマサくんは、交代でなんどかやってみているのだが、うまくいかない。

 何度目かに、こんどこそとマサくんが力をこめてホースを吸う。

 がぼぼっ

 マサくんは、池の水を大量に吸い込み、そして激しくむせた。

 そして、嘔吐した。

 吐瀉物が、庭の土にぶちまけられた。

 半分消化された食物残渣の中に、異様なものがあった。

 わたしたちのこぶしくらいの大きさの袋状の塊で、ピンク色をしたそれは地面でぴくりぴくりと動いたように見えた。

 わたしとマサくんは、言葉もなく呆然としてそれを見ていた。

 急にマサくんの目に涙があふれた。

 マサくんは、弱弱しく言った。

「ぼく……しんぞうが、でちゃった……」

 そして、泣きながら、走っていった。


 わたしの家では犬を飼っていた。

 クロという名の、雑種犬だった。

 名前の通り、黒い毛並みのその犬は、まだ小さく、転がるように走った。つぶらな瞳が愛らしかった。当時はドッグフードなどない。古いアルミの鍋に、残飯を入れ、味噌汁をかけたものが、彼のごはんであった。クロは、その犬ご飯を、鍋に顔を突っ込み美味しそうに食べた。

 しかしクロは長生きしなかった。

 なぜ、どのように死んだのか、わたしには思い出せない。ただ覚えているのは、家の横の畑に父が穴を掘り、そこにクロの亡骸を横たえた光景のみだった。クロは、四本の足を、突っ張るようにピンとまっすぐに伸ばして、穴の底に横たわっていた。アルミの鍋をその口の辺りに置き、そして父が上から土をかけていった。クロはすぐに埋まって見えなくなった。

 母が亡くなる少し前、母と二人、四方山話をしていた際、何かの拍子にその話題になった。

「母さん、むかしの家で犬を飼ってたよね」

 母はうなずいた。

「可愛かったよね、すぐ死んじゃったけど」

 と、わたしがいうと、母が

「そうだね。コロ可愛かったねえ」

「コロ?」

「そう、コロ。あんたもずいぶん可愛がってたもんねえ」

「コロ? クロじゃないの?」

 母は首を横にふる。

「まだ小さくて、ころころしてるから、コロって名前にしたのよ、忘れちゃったの?」

「え? 毛色が黒かったから、クロって付けなかったっけ?」

「あんた何言ってるの、コロは茶色い雑種だよ」

「母さんの思い違いじゃないの、クロだって」

 わたしがしつこく言うので、母は少し考えていたが、ぱっと思いついた顔で言った。

「分かった。あんたがなんで勘違いしたか」

 勘違い? 勘違いしているのは母の方だろう、そう言おうとすると

「黒田さんだよ」

 と母が言う。

「くろださん?」

「そうよ、隣の黒田さん。隣に住んでた、あのおじいさん」

 わたしの家の向かいには、傾きかけたようなボロ屋が建っていて、そこには黒田さんという老人が一人で暮らしていた。名字の通り色黒の黒田さんは、禿頭、ぎょろりとした大きな目で、目を合わせたらそれだけで怒られそうな顔つきの人だったので、わたしは敬遠していたのだが、実際は、ときどき、どこかから仕入れてきたお菓子を、わたしにくれた。

「その黒田さんがどうしたの」

「あんたは、コロと黒田さんをごっちゃにしたのよ」

 母は確信を持った顔で言った。

「黒田さんもかわいそうにね。今で言う孤独死ってやつよね。あんたも葬式にいったじゃない」

 しみじみと続けた。

 いや……いくらなんでも、犬と人を混同するなんて事があるだろうか。

 ただ、母のその言葉を聞いてから、記憶の中の、穴に横たわるクロが、なんだか人の姿に思えてきてしまったのだ。両手、両足を突っ張らせて穴に横たわる、真っ黒な老人の姿に。

 

 風邪をひいたりすると、すぐに近所の医院に連れていかれた。

 柿田医院という。

 明治の頃から代々続いているその医院は、まるで書院造りのような立派な建物で、石造りの門に「柿田醫院」と書かれた重々しい木の看板が掛かっていた。玄関の引き戸をあけると、そこには広い土間があって、その奥に板敷きの待合室があった。大きな火鉢が一つ置いてあり、冬には、患者はみな、そこで暖をとって順番を待っていた。

 薬はもちろん院内処方で、先生の奥さんが「調剤室」と書かれた部屋で調合していた。薬は基本的に散薬ばかりで、一回分ごとに匙で粉を薬包紙に載せ、その紙を器用に三角に折って閉じるのだった。風邪薬は苦いのだけれど、家に帰ると母が薬包紙を広げ、白砂糖を加えて、水を垂らして捏ね、甘い薬に変えてくれる。だからわたしは、病院にいって薬をもらうのが好きだった。

 ある日、熱が出て、わたしは柿田医院を受診した。かなりの高熱で、わたしはぐったりとして歩くのもしんどく、母に背負われて医院に連れていかれた。頭がぼわんとして、見慣れた診察室の障子の桟もぐにゃぐにゃと歪んで見えていた。柿田先生はいつものように聴診器をあて、金属の箆でわたしの舌をおさえて、喉の腫れをみた。

「ふうむ」

 先生は立ち上がると、机の後ろにあるガラス戸の大きな棚から、円形の手鏡のような物を取りだした。手鏡の取っ手からは、コードが二本伸びている。柿田先生は、手にしたガーゼで、回転椅子に座ったわたしの両方のこめかみを拭く。ひやっと冷たく、アルコール消毒の臭いがした。こめかみにコードの先についた丸いものを貼り付ける。そして、鏡のようなものをわたしの顔の前にかざした。ブウンと唸るような音がした。

「お母さん、これをみて」

 先生は母を自分の横に呼んで、わたしの目の前の鏡をのぞきこむように言った。

 わたしからは何も見えない。なにか複雑な模様が刻まれた鏡の裏側が見えるだけである。

「わかりますか、お母さん」

 先生が言う。

「このグネグネしたのが、脳の動きです。活発ですよ。知恵熱というやつでしょう、心配はいらないね」

 母は納得し、安心したように頷いた。

 その日は薬ももらわずに帰った。甘い薬を飲めず、それがわたしには残念だったのを覚えている。


 わたしの家の裏庭は、低い木の杭が一列に打ち込まれて、敷地の境を表していた。杭の外は、隣の畑である。

 杭は、平らに切り揃えられていて、小さなわたしは、片足ずつ杭に置けば、その上に立つことができた。杭の上に立てば、視線が少し高くなる。それが楽しかった。

 ある時、意を決して、わたしは杭から畑に向かって飛んだ。ピリッとした感覚が膝小僧の下に走り、不思議に思って見ると、その部分の皮膚が、水平にざっくりと切れていた。切り口には黄色い皮下脂肪が露出し、たちまち血が吹き出した。泣きながら、母を呼んだ。

 傷が癒えてだいぶ経ち、わたしはまた、杭の上に立った。そして、飛んだ。すると、また膝小僧の下が裂けたのだ。母には怒られた。なぜ危ないことをするのかと。そういわれても何もないのに、普通に飛んだだけなのに、なぜそうなるのかわからない。

 不思議で仕方がなかった。

 その傷が癒えた後、わたしは懲りずにもう一度飛んでみた。

 三回目も切れた。母はもう怒るより呆れていた。

 わたしの膝の下には、その時の傷痕が今も、かすかに白く残っている。


 父がこんなことをわたしに言った。

「父さんはお前を、いろいろなところに連れてっていってやったんだぞ……なのに、お前はぜんぶ忘れちゃうんだよな。連れていってやった甲斐がない」

 そうだろうか。

「船に乗って、火口を見に行っただろう」

 活火山のある島の観光地に、父とわたしはフェリーで旅行したのだそうだ。

「もくもく噴煙があがっていてなあ」

 覚えていない。

 ただ、その時のことなのだろう、おぼろげに、船窓からみた海が記憶に浮かぶ。

 丸い窓の向こうで、白く波が揺れているのを、畳敷きの三等客室で見ていた。

 そして、その旅のどこかで買った玩具はありありと思い出せる。

 今思うとたぶん英語なのだろうが、わたしには読めない文字が書かれた、プラスチックの円筒。その中には、臙脂色の粉がはいっていた。

 その粉をぬるま湯で溶いてかき混ぜると、スライム状のかたまりができあがる。

 甘い匂いがした。ひんやりとして、ブヨブヨとしたそれは不思議な触り心地であった。

 ひっぱると細長く伸びるが、手を離せば元のかたまりに戻った。

 いじって遊んでいるうちに、その柔らかいかたまりに顔を押しつけ、しばらく息をこらえてから離すと、自分の顔の型がそっくり表面に写し取られるのを発見した。

 母にもやってみるように頼んだが、母は気持ち悪いといって拒んだ。

 面白いのになと思いながら、わたしは一人で何度も顔を写し取った。

 そして思いついた。顔だけじゃなくて頭を全部覆って剥がしたら、どうなる? かぶり物ができるのじゃないか?

 さっそく試した。

 息を止めて、粘性のあるかたまりを頭から被り塗り広げる。

 首の辺りまで広げて、よしこれでいいだろう。

 もう息も苦しい。

 急いで脱ぎ去ろうとした。

 脱げなかった。

 そのあとは覚えていない。


 火傷の話である。私は炬燵で大火傷を負った。

 なにしろ昔のことだ。電気炬燵はまだそれほど普及していなかった。

 わたしの家にあったのは、昔ながらの掘り炬燵というものであった。

 床を掘り下げて、炉箱を設置し、その中で練炭を焚いて熱源とする。

 炭を入れたコンロの上には、格子が被せてあり、熱源から距離を取って火傷を防ぐようになっていた。

 母は裏庭で、洗い物を干していた。

 良く晴れた日で、家の中から庭に目をやると、割烹着を着て物干し竿の前に立つ母の背が、光の中に見えた。

 わたしは一人、掘り炬燵の布団にもぐりこんだ。

 頭を突っ込むと、仄暗い中、格子の奥に薄赤く練炭が光っていた。

 きれいだった。炭の芳ばしい匂いもした。

 腹這いのまま両手で格子をつかむと、枠が持ち上がりずれた。灰の中に並んだ赤く光る練炭。わたしは、もっとよく見ようと身を乗り出し、そしてバランスを崩して落ちた。

 思わず突き出した手が燃える練炭の山に突っ込み、じゅうっと肌が焼ける。突き刺すような痛みにわたしは叫び声をあげた。もうもうと灰が巻き上がる。

 必死に逃れようとするが、頭から火箱に落ちている。非力な幼子の力では、体を引き戻すことができず、手を突っ張ればますます燃える炭の中に深く押し込まれる。腕の皮が、肉が焼けていく。

 慌てた母が駆けつけ、助け出されるまで、わたしには泣きわめくことしかできなかった。

 この火傷で、親指をのぞく四本の指が、握りしめた形のままくっついて固まってしまった。そのままでは生活に支障が出る。小学校に上がる前の夏、入院し癒合してしまった指を元通りに切り離す手術を受けることになった。手術は成功し、指は開き、別々に動かせるようになったが、融けてしまった指紋は戻らなかった。


 ある日、起きたら目が開かなくなっていた。

 目を開けようとしても上の瞼と下の瞼が貼りついてしまって離れない。

 わたしはびっくりして、母を呼んだ。

 眼科に連れていかれたのだろうが、どのような診断があったのか覚えていない。どのような処置をされたのかもおぼえていない。それからしばらく、わたしは目が開かないまま毎日を過ごした。母の話では、ベビーサークルの中に入れられていたとのことだ。

 おぼろげな記憶をたどると、その間のわたしの視界は、真っ暗というわけではなかったように思う。ものの形はわからないものの、明るい暗いは認識できて、光の来る方向はわかるのだった。その薄明るい視界(ただし何もみえない)の中を、なにか形の定かでないかたまりが、ふらりふらりと行き来していた。触ろうとしても、手ごたえはない。自分の手も見えないのだから、そのものに手が届いているのかもわからない。

 いったいそんな状態で何日すごしたのだろうか。目が見えないというのは、かなり本人にとって深刻な事態だと思う。ましてや幼い子どもだ、不安や恐怖に囚われるのが当たり前だろう。しかし、どうもそんな記憶がないのだ。辛いことだったから、忘れてしまったのだろうか。思い出せるのは、まるで蛹が繭の中にいるかのように、朧げな光の中でまどろんでいるような心持ちだけである。

 そんな日が続いた後、突然、何かが破れるような感覚があり、一気に目が開いた。

 痛いほどにまぶしい光に目がくらみ、両手で目を押さえた。

 そして、再度、おそるおそる瞼を上げると、目は普通に開いたのだった。

「おかあさん!」

 わたしは大声で母を呼んだ。

「めがあいた!」

 台所から母が飛びこんできた。


 出張に行くといつも父が買ってきてくれた駅弁の冷たいご飯。

 近くの小川で、水に沈んで見たきらきら光る底砂。

 ありありと思い出せるいくつもの光景。

 しかし、今思うとそんな記憶のすべてが尻切れとんぼだ。

 あれらは本当にあったことなのか。

 わたし自身が年老いた今となっては、もはや確かめる術もない。

 しかし、あの写真は、過去がそこにあった証しだ。わたしたち一家が、黒い壁の横のあの家で暮らしたという証拠。

 自分の身体に残る、いくつかの傷跡も確かな記憶だ。例えばあの大火傷。あの火傷のせいで、わたしの右手には指紋がない。

 右手を目の前にかざし、しげしげと見る。

 今やしわだらけで、あちこちに染みの浮いた老人の手。四本の指の腹には指紋はなく、つるりとした皮膚があるばかりだ。この右手が、あの出来事があったという確かな証拠なのだ。

 ふと違和感を感じ、わたしは再度写真を見返す。

 右手——?


(了)

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