第2話
そうなのだ。表を見ると、地面が凍っているのが分かったのだ。
水分をたっぷり含んでぬかるんだ土――泥は、肌を切るような夜間の冷気によって固くなっている。これなら上を歩いても、足跡は残らないに違いない。
私は善?は急げとばかり、手早く、藤原の身体を梁から吊し終えると、離れの玄関ドアを開けた。一気に流れ込んでくる冷たい空気。体温を容赦なく奪うこの寒さに、日常生活においては不快な思いをするに違いないが、現在の私にはありがたいぐらいだ。寒ければ寒いほど助かる。
天気予報を信じたがために、こうして馬鹿を見た私が、今また天気予報に、いや実際の天候に救われるのは、さぞかし滑稽な図だろう。
両腕を胸の前で抱えた私は屈み込んで、恐る恐る、地面に触れてみた。
指先は、地面の固さを感じ取った。
充分だ。これなら歩いても足跡は残らない。
私は確信を得てうなずくと、一旦引き返し、来たときに使った傘を丁寧に折り畳んだ。それを携帯し、外に出、ドアを慎重に閉める。
一つ、大きく息を吐き、手袋をゆっくりとした所作で脱ぐと、懐にしまった。
そして、静かに一歩を踏み出した。
* *
「不思議ですねえ」
現場を一通り見終わった刑事がつぶやいた。顎に手を当て、首をしきりに捻っている。
別の一人、やや老け気味のが言う。
「こんな緩い坂で転ぶなんて、どじな野郎だよ。それで頭を打って、あの世行きとは運がない。哀れだね」
「いえ、私が不思議だと言ったのは、転んだことではなくて、足跡が……」
言いながら、比較的若い刑事は指を動かした。坂を上がりきったところに建つ離れ、斜面下方に横たわる男の遺体、その向こうに見える大きな屋敷を順にたどっていく。
「足跡がないんですよ。こんなに地面がぬかるんでいるのに、本館からも、離れからも、狭山の足跡がありません」
「うむ。確かにな」
年輩の刑事もまた顎に手を当てた。
「転んで、坂を滑った痕跡さえない。妙だ」
「気象台に問い合わせたところ、狭山の死亡推定時刻後、この一帯に雨は一滴も降らなかったそうです」
「考えられるとしたら……雨が降っている間に、坂の中程までやって来て、そのまま止むのを待つ。止んでから、おもむろに歩き出し、足を滑らせたってことか」
「それもおかしいですよ」
異を唱える若い方。
「雨の中でずっと待つこと自体、変ですけど、そもそも狭山の身体はほとんど濡れていません。傘は遺体から少し離れたところに落ちていましたけど、折り畳まれた上、きちんと袋に仕舞ってありました。使った形跡がないんです。傘を使ってなくて、身体も濡れていないからには、狭山が外に出た時点で、雨は降っていなかったんでしょう」
「そうだな。となると、やっぱり、離れの遺体と関係ありか?」
年輩刑事は離れを見上げた。
「雨の中、離れに行った狭山は、藤原の首吊り死体を見て仰天。離れを飛んで出た。まさしく飛ぶように走り出たもんだから、坂に足跡を残さず、そのまま転落死した……」
「それもちょっとおかしいですよ。慌てて離れを飛び出したのなら、傘を乾かし、折り畳む時間がなくなります」
「……かわいくないねー、おまえ」
「だって、事実は事実として……」
年輩刑事が眉を寄せると、若い刑事は口ごもり気味になるも、どうにか抗弁した。
「内ポケットに押し込んであった手袋も、奇妙ですし……」
腕組みをしていた年輩刑事は、しばらく続いた渋面を解き、不意に柔和になった。彼に笑顔は、全く似合わない。
気味悪がって身を引いた若い刑事の両肩を掴まえ、猫なで声で告げる。
「仕事熱心で、結構なことだねえ。じゃ、報告書はおまえに任せるからな。知恵を絞って、辻褄の合うストーリー、こしらえろよ」
「そ、そんなあ」
情けない声を上げて弱る若いのをおいて、年輩刑事は坂を上り始めた。
「――おっと。こいつはマジで、滑り易いや」
* *
やはり、私は気が急いていたのだろう。もしかすると、緩やかな坂を甘く見ていたのかもしれない。
斜め下に見える本館ばかりに意識が向き、足下への注意がおろそかになってしまった。
あ!と思ったときには、もはや遅かった。私の身体は一本の棒のようになり、氷結した斜面を転がっていった。ごろごろ、ごろごろと。
そして突然、後頭部に衝撃が――。
おしまい
天気予報なんて 小石原淳 @koIshiara-Jun
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