第7話 土曜日、閉店後の厨房――原点の一杯
夜十一時。
一乗寺の通りは、さすがに息をひそめていた。昼も夜も戦場やったカブキモノも、今はシャッターが下り、残るのは洗い終えた床の光りと、ほのかな湯気だけ。
妹らはもう夢の国。
さくらも、うめも、今日はさすがに電池切れや。
たけ子も「明日も営業やしな」と、布団に吸い込まれていった。
厨房に残っているのは――
寸胴と、
慶三と、
低い音。
ごう……ごう……。
音は静かやのに、重たい。
まるで時間そのものが煮えてるみたいやった。
「まつ」
短い呼び声。
いつものやつやけど、今夜は、胸の奥が先に反応した。
「なに、父ちゃん」
軽く返す。
軽く返してまうのは、癖や。
けど、閉店後のこの時間に呼ばれるんは、そうそうない。
片づいた厨房の奥。
慶三は寸胴の前に立っていた。
背中、まっすぐ。
いつもより、黙りが深い。
何も言わず、蓋を持ち上げる。
――むわっ。
湯気が立つ。
鼻に入った瞬間、まつは眉をひそめた。
「……なにこれ」
声が、自然と低くなる。
「家のスープちゃうやろ」
慶三は、ようやく振り返った。
「せや」
それだけ。
「……父ちゃん?」
まつは一歩、近づく。
色、油、香り。
骨の主張が、いつもと違う。
「……これ」
喉が鳴る。
「呼び戻しや」
一瞬、頭が止まった。
「……は?」
「見て、覚えろ」
慶三は柄杓を取り、寸胴の中を軽くかき混ぜる。
音が違う。
時間が詰まった音や。
「父ちゃん、知ってるやろ。
呼び戻しは……」
「扱いがむずかしい」
言葉を遮るように、慶三が続けた。
「わしの原点や」
その一言で、まつは黙った。
「一乗寺には、出せへんラーメンや」
まつは、思わずツッコむ。
「なんで今、仕込んだん」
「出すためちゃう」
「ほな、なんのため」
慶三は、寸胴を見つめたまま言う。
「忘れんためや」
しばらく、沈黙。
寸胴の音だけが、厨房に残る。
「呼び戻しはな」
慶三が、ぽつりと言う。
「一日サボったら、全部台無しや。
火も、骨も、水も、時間も。
全部、嘘つかへん」
まつは、唇を噛んだ。
「一乗寺は戦場や。
けどな、戦場で一番怖いんは、
“勝ててるつもり”になることや」
背中が、いつもと違う。
言葉が、多い。
それだけで、今夜が特別やと分かる。
「父ちゃん……」
「ラーメン屋はな」
慶三は、ようやく振り返った。
「毎日、選ばれ続けなあかん。
せやけど、流行に選ばれたら終わりや」
まつは、うん、と頷く。
「呼び戻しは、原点や。
“これ以上、引き算できへん味”や」
慶三は、寸胴からスープをすくい、
別の鍋に移した。
「今夜は、これで一杯だけ作る」
まつの目が、見開かれる。
「一杯?」
「一杯や」
麺を茹でる。
動きは無駄がない。
何年も前に刻まれた手順が、そのまま体に残っている。
器に、スープ。
麺。
チャーシュー。
余計なもんは、何もない。
――久留米豚骨ラーメン、呼び戻し。
慶三は、その一杯を、黙って差し出した。
「……食べ」
まつは、丼を受け取る。
湯気が、顔に当たる。
「いただきます」
一口、すすった。
「……っ」
言葉が、出てこん。
重い。
けど、濁ってへん。
骨の甘みと、時間の圧。
逃げ場がない味。
「……父ちゃん」
「どうや」
「……扱い、むずかしすぎるわ」
慶三が、ふっと口元を緩めた。
「せやろ」
まつは、箸を置いた。
「これ、一乗寺で出したら……
戦争、壊れる」
「せやから出さん」
即答。
「けどな」
慶三は、まつを見る。
「知っとけ」
短い言葉やけど、重い。
「お前は、料理がうまい。
理論も、腕も、ある」
「……知ってる」
「調子乗るな」
「なんで毎回そこ刺すん」
一瞬、いつもの空気が戻る。
でも、慶三は続けた。
「原点を知っとるかどうかで、
迷った時の戻り先が決まる」
まつは、丼の底を見つめた。
残ったスープが、静かに揺れている。
「……覚えた」
そう言うと、慶三は何も言わず、頷いた。
夜十一時半。
一乗寺は眠っている。
けど、カブキモノの厨房では、
原点が、静かに受け継がれた。
まつは、いつもと違う父ちゃんの背中を見ながら、
心の中でそっと思った。
(この一杯、忘れたらあかん)
それは、
勝つためのラーメンやなくて、
迷わんためのラーメンやった。
一乗寺ラーメン戦線異常あり! 前田家と前田家のラーメン戦争! まつと利家の、恋と麺 イサクララツカ @g1922933
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