或る現場の分岐 ~ 近い将来の人とAIの共生
濃尾
或る現場の分岐 ~ 近い将来の人とAIの共生 - 濃尾
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事故シナリオ:「低リスク」
1 入口 低リスク
救急外来の自動ドアが開くたび、冷たい空気が一瞬だけ入り込む。
冬の夜。雨が混じっている。
受付の上に小さなディスプレイがあり、そこに淡々と文字が流れる。
トリアージAI:待機者 27名/予測待機時間 86分
危険度アラート 2件(対応中)
壁の隅では、端末のスピーカーが低い音で通知を鳴らしていた。
あの音は、最初は新鮮だったが、いまはただの環境音だ。
トリアージ担当の看護師・先島は、患者の顔を見てから画面を見る癖が抜けない。
が、最近その癖は「手間」と言われることが増えた。
「先島さん、先に入力を促してください。AIの問診が回らないと、全体が詰まります」
受付の事務が言う。怒ってはいない。疲れている。
先島は、雨に濡れたまま座っている彼に声をかけた。
「お名前、入力できますか? ここで……」
彼は首を振った。
手袋を外そうとして、指が思うように動かない。
濡れた髪から、雫が床に落ちた。
「……日本語、少し。すみません」
片言。発音は荒れている。
彼はスマホを出そうとしたが、手が震えて落とした。
先島はしゃがんで拾い、画面を見た。
壊れて、真っ暗だった。
「大丈夫。こちらで伺います」
その瞬間、先島の背後で別の通知音が鳴った。
赤いランプ。優先。
別の患者が倒れたらしい。
先島は彼を椅子に戻し、素早くバイタルを取った。
血圧:98/62
脈拍:108
体温:37.6
SpO2:96
微妙な数字。境界の数字。
危険でもない、安心でもない。
彼は胸を押さえた。
「ここ、いたい。……息、少し……」
先島は、胸痛の文字を頭の中で太字にした。
だがAI問診のフォームは、まず「主訴の選択」から始まり、選択肢は不自然に細かい。
「胸が痛い」
「胸が締め付けられる」
「胸に違和感」
「胸が焼ける」
「息苦しさ」
彼は言葉を探している。先島は、時間を見た。
背後の赤アラートが鳴り続ける。
先島は、画面で一番近い項目を選んだ。
「息苦しさ」
2 スコア
AIが問診を吸い込んでいく。
既往歴:不明
服薬:不明
アレルギー:不明
痛みの性質:不明(入力不足)
代わりに、AIが出すのは数字だ。
危険度スコア:2(低)
推奨:待機(一般外来)
注意:脱水/軽度感染の可能性
先島は画面を見たまま、一瞬だけ迷った。
胸痛が主訴なら、低スコアでも“赤”に寄せたい。
だが、今夜は赤がすでに二件ある。
人手も足りない。先月、救急の夜勤帯が一人減った。
理由は「AI導入で効率が上がったから」だった。
先島が迷っていると、背後から救急医の声が飛んだ。
「先島さん、あっち優先。そっち低スコアなら待機でいいよ」
救急医・藤堂は、疲労で声が乾いている。
その判断が間違いだと言い切れる根拠を、先島は今この場で持てない。
先島は彼に水を渡し、待機席へ案内した。
「少し待ってください。苦しくなったら、すぐ呼んで」
彼は小さく頷いた。
その表情が、“理解した”のか“諦めた”のか、先島には分からなかった。
3 見えない時間
救急外来の時間は、伸び縮みする。
赤が鳴るとき、他の時間は潰れる。
一時間後。
彼は待機席で眠りかけていた。
顔色は悪い。唇が少し青い気がする。
先島は近づいて声をかけた。
「大丈夫ですか」
彼は目を開け、笑うように口角を上げた。
「……だいじょうぶ。すみません」
謝る。
患者が謝るとき、現場は嫌な匂いがする。
先島はバイタルを取り直した。
血圧:86/54
脈拍:124
SpO2:93
落ちている。明確に落ちている。
先島はすぐにAI端末を開き、「再評価」を押した。
だがAIは、入力項目を要求する。
「意識レベル」
「尿量」
「既往歴」
「痛みのスケール」
「症状の増悪因子」
先島は舌打ちしそうになるのを堪えた。
今必要なのは入力じゃない。ベッドだ。
そこへ、経営側が導入した「フロー最適化ルール」が頭をよぎる。
AIスコアが3未満の場合、処置室への移送には上級医の承認が必要。
ルールは「現場の混乱防止」の名目で作られた。
実際は、夜勤帯の人員削減とセットだった。
先島は救急医・藤堂を呼ぶ。
「待機の方、血圧落ちました。処置室に上げたいです」
藤堂は処置室で別の患者の縫合をしていた。
手を止めずに言う。
「スコアは?」
「……2でした。今再評価中です」
「2ならまず輸液して様子見。処置室は今空きない」
先島は返す言葉を飲み込んだ。
“空きがない”のではなく、空きがないように運用されている。
ベッドコントロールAIが、入院予定を詰め込み、緊急枠を削っていた。
効率が良いほど、緊急時の余裕が消える。
先島は輸液を準備しながら、彼に声をかけた。
「少し点滴します。痛いところ、もう一度教えて」
彼は胸ではなく、腹を押さえた。
「おなか……ここ……」
言葉が出ない。呼吸が浅い。
そして、彼は突然、吐いた。
黒っぽい。コーヒー残渣。
胃からの出血。
先島は反射的に走った。
「処置室、空けて! 今!」
4 事故
処置室へ運ばれたとき、彼の血圧は測れなくなっていた。
脈は糸のように弱い。
藤堂が来て、顔色が変わる。
「……何で待機にいたの」
その言葉は責めではない。
でも責めに聞こえる。
先島は短く言う。
「スコア2でした。入力不足で……」
藤堂は叫びそうになるのを抑え、指示を飛ばす。
輸血。胃管。止血。呼吸管理。
周囲が動く。動く。動く。
それでも彼は戻らない。
後で分かったことは、単純で残酷だった。
彼は、消化管出血と感染症と心筋虚血が重なっていた。
さらに、言葉が通じず既往歴が取れなかった。
そして決定的なのは、最初の主訴が「息苦しさ」と入力されたことだった。
胸痛ルートに入っていれば、ルール上、優先度は上がった可能性がある。
先島の指が選んだ一つの選択肢が、運命を変えた――
そう見える。
だが、現実はそんな単純じゃない。
先島がその選択をしたのは、赤アラートが鳴っていたからで、
赤が鳴り続けているのは、人員が削られたからで、
削られたのは、AI導入で「効率が上がった」という報告が上がったからで、
その報告の評価指標には「取りこぼし」ではなく「回転率」が入っていたからだ。
彼は、午前2時過ぎに心停止した。
5 検討会(カンファレンス)
翌週の検討会。
会議室の蛍光灯が白い。コーヒーが薄い。
スクリーンには時系列ログが映し出される。
19:12 受付
19:18 トリアージAIスコア2
19:20 待機
20:35 再評価(入力不足)
20:42 嘔吐・ショック
20:46 処置室
02:13 心停止
経営企画の人間が言う。
「AIはスコア2を出しています。低リスクです。
つまり、問題は“人の運用”です。
プロトコル逸脱があったのでは?」
この言葉で、部屋の温度が一段下がった。
藤堂が言う。
「プロトコルが現場に合ってない。
スコア2でも、胸痛や言語障害があれば上げるべきだった」
経営企画は頷く。
「では、ルールを追加しましょう。
“言語障害フラグ”が立った場合は、本人確認が取れるまで待機。
誤入力を防ぐため、本人同意と身元確認が必須です」
先島の喉が乾いた。
「それって……待たせる理由を増やすだけじゃないですか」
経営企画は淡々と言う。
「リスク管理です。誤入力の責任を減らす。
それから、夜間の混雑はAIで改善します。
次のアップデートで、待機を最適化します」
ここで、誰も「人を増やす」と言わない。
誰も「余裕を持たせる」と言わない。
改善はいつも“ルール追加”と“自動化強化”で来る。
そしてその方向性は、静かに決まった。
6 非常モードの恒久化
事故から一か月後。
救急外来は新しい運用になっていた。
新ルール
AI問診が完了しない患者は原則として診察待機
身元確認が取れない場合、優先度は上げない
「処置室への移送」にはAIスコア3以上+上級医承認
診療録の未入力項目があると、検査オーダーが通らない
さらに追加されたのが、入口の“安全策”。
入口で、本人確認書類を提示させる。
提示できない場合、相談窓口へ回す。
相談窓口は夜間は閉まっている。
つまり、夜間は待つ。
先島は、入口で立ち尽くす外国人やホームレスや、認知の怪しい高齢者を見て、
自分の中で何かが壊れる音を聞いた。
現場は「安全」になった。
責任は「明確」になった。
事故は「減る」かもしれない。
でもその安全は、最も弱い人を入口で止める安全だった。
患者が救急を諦めるようになった。
救急車の受け入れ拒否が増えた。
それでも指標は改善した。
平均待機時間:短縮
回転率:向上
プロトコル遵守率:上昇
スクリーンの数字は綺麗になった。
そして、これが檻の始まりだった。
7 檻化の完成(静かな終点)
半年後、救急外来の入口には、透明な仕切りができた。
職員が安全のため、と言った。
夜間、入口のロックがかかる。
インターホンを押すと、AI音声が流れる。
「症状を選択してください」
「本人確認のため、身分証をカメラに提示してください」
「入力が完了するまで、入室できません」
先島は夜勤明け、外に出たとき、入口の前に座り込む人影を見た。
雨で濡れている。
半年前の彼と、同じ濡れ方をしている。
先島は思った。
現場を守るために檻を作った。
でも檻ができた瞬間、現場はもう現場じゃなくなった。
救急外来は、効率化された。
秩序が保たれた。
責任が形式化された。
そして、救われるべき人から順番に、外に残された。
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対照シナリオ:「上げるしかできない」
1 入口(同じ夜、同じ雨)
救急外来の自動ドアが開く。
雨の匂いと、一瞬の冷気。
受付の上のディスプレイには、同じように数字が出ている。
でも、表示の仕方が違う。
トリアージAI:待機者 29名/予測待機時間 92分
“例外フラグ” 3件(脆弱性対応中)
重要:例外フラグは「AI拘束力 低下」モード
看護師・先島は、濡れた彼を見つける。
同じように、手が震えてスマホを落とす。
同じように、片言で言う。
「……日本語、少し。すみません」
先島は、問診端末を彼に渡さない。
端末の脇にある、小さなボタンを押す。
「例外フラグ:言語・入力困難」
ピッ、と音がして、画面の色が変わる。
AIが静かにメッセージを出す。
例外フラグ受理:AIスコアは参考値/下げ判定無効
推奨:人間トリアージ優先/上げ判定のみ有効
先島は、まず顔を見る。
唇が少し青い。目が泳ぐ。
「謝る」癖がある。嫌な匂い。
バイタル。
血圧:98/62
脈拍:108
体温:37.6
SpO2:96
境界。
胸を押さえている。
「ここ、いたい。……息、少し……」
先島は、入力を急がない。
代わりに、救急医の当番端末に“短文”だけ送る。
この病院では、例外フラグ時の連絡はテンプレ化されている。
例外フラグ:言語/入力困難
胸部症状+頻脈+境界血圧
観察ベッド提案(“上げ”のみ)
送信すると、端末が返す。
当番医:確認。観察ベッドへ。
先島は彼に言う。
「待つ場所、変えます。ここは“様子を見るベッド”です」
彼は小さく頷く。
それが理解なのか、ただの従順なのかは分からない。
でも今回は、椅子に戻さない。
2 観察ベッド(“余裕”が制度として確保されている)
観察ベッドは三床ある。
夜間は、一床を必ず空けておくルール。
経営には嫌われる空白だが、この病院はそこを削らない。
理由は単純で、数字が示していた。
「回転率を上げるほど、救急死が増えた」
それを一度経験した病院は、余裕を“コスト”ではなく“安全装置”として買う。
彼が横になる。
先島は、簡易通訳タブレットを起動する。
これはAIだが、制度として“責任を奪わないAI”に位置付けられている。
通訳AIは、短い言葉に分けて返す。
「いつから?」
「どこが痛い?」
「黒い便?」
「薬は?」
「病気は?」
彼は詰まりながら答える。
「二、三日…」
「薬、ない…」
「黒い…うん…」
“黒い”という単語が出た瞬間、看護師の頭の中のアラートが鳴る。
同時に、AIも静かに鳴る。
ただしこの病院のAIは、スコアではなく赤信号を出す設計だ。
赤信号:消化管出血疑い(メレナ)
推奨:採血・輸液・医師評価(上げのみ)
注意:例外フラグ患者/見落としリスク高
“見落としリスク高”という文言が、嫌味じゃなく、現場の救いになる。
「AIが低いと言ったから」ではなく、
「AIが危ないと言っているから」動ける。
藤堂医師が来る。
同じ藤堂。疲れているのも同じ。
でも、入り口での判断材料が違う。
椅子で待たせていない。
例外フラグが付いている。
黒い便の単語が拾われている。
藤堂は、まず言う。
「ありがとう。ここに上げて正解」
その言葉は、現場の空気を少し軽くする。
軽さがあると、人は丁寧に観察できる。
採血。心電図。輸液。
酸素。
そして、指示が飛ぶ。
「胃カメラの当直に相談。輸血準備。
それと、胸部症状もある。心筋も見よう」
3 同じ“悪化”が来る。でも、来方が違う
一時間後。
彼は、同じように吐く。
黒っぽい。コーヒー残渣。
血圧が落ちる。
でも今回は、処置室に運ぶ前に、すでに針が入っている。
採血の結果も来ている。Hbが落ちている。炎症反応も高い。
処置室のベッドが空いていない?
ある。
なぜなら、観察ベッドが“バッファ”として働いているから。
軽症を椅子で回転させるのではなく、重症化する可能性のある例外を先に抱え、
波が来たときに処置室へ繋げる。
藤堂は判断を迷わない。
「上げる。輸血開始。消化器呼ぶ。
ICUのベッド、確保して」
ベッドコントロールAIが動く。
ただし、この病院の配分AIは「効率最大化」ではなく、尊厳の下限が埋め込まれている。
例外フラグ患者の“待機上限”は短い
受け入れ拒否は理由の記録が必須
ICU確保は人間署名が要る(AIは提案まで)
配分AIは提案し、当直師長が署名する。
署名は、責任の蒸発を防ぐ“重り”だ。
彼はICUへ入る。
後で分かった診断は、前の物語と同じだ。
消化管出血、感染、心筋虚血の疑い。
違うのは、時間だけ。
“椅子で消える一時間”が、ここでは消えなかった。
彼は生き残る。
長く、しんどい入院になる。
だが、生き残る。
4 翌週の検討会(責任を蒸発させない会議)
会議室。蛍光灯。薄いコーヒー。
ここまでは同じ。
でも、スクリーンに映るログが違う。
19:12 受付
19:14 例外フラグ(言語・入力困難)
19:16 観察ベッドへ(当番医承認)
19:22 赤信号(メレナ疑い)
19:30 採血・輸液
20:10 嘔吐・ショック兆候
20:12 処置室
20:25 ICU確保(師長署名)
翌日 内視鏡的止血
経営企画が言う。
「観察ベッド運用で、回転率は落ちています。
ですが、救急重症化の取りこぼしは減りました。
“例外フラグ”運用はコストです。継続しますか?」
ここで、この病院は一つの指標を出す。
回転率ではない。
“救済率”(例外フラグ患者が適切な介入に到達した割合)
“覆し率”(AI提案が現場判断で覆った割合)
“後追い監査”(覆した判断の妥当性レビュー結果)
覆し率がゼロではない。
そして、覆した判断が“正当だった”と評価されている。
つまりこの病院は、制度としてこう言っている。
AIに従うのが正解ではない。
AIを踏み越える道が、必ず用意されている。
経営企画は頷く。
「なら、継続で。人員は削りません。
教育時間と監査枠に再投資します」
誰も拍手しない。
でも、現場の肺が少しだけ広がる感覚がある。
それが「檻にならない」空気だ。
5 同じ入口、違う未来
半年後。
救急外来の入口に仕切りはある。
だがそれは“締め出す”ためではなく、感染対策のためだ。
夜間、インターホンはある。
しかしAI音声はこう言う。
「入力が難しい方は、そのまま呼び出してください」
「言語支援が必要な方は、スタッフが対応します」
入口で止めるのではなく、入口で拾う。
先島は夜勤明け、外に出る。
雨で濡れた彼がいる。
同じ濡れ方。
先島は迷わず近づき、ボタンを押す。
例外フラグ。
ピッ。
病院の中で、余裕の一床が息をする。
この世界は、完璧じゃない。
でも、最も弱い人から順番に外へ捨てる仕組みには、なっていない。
完
或る現場の分岐 ~ 近い将来の人とAIの共生 濃尾 @noubi
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