第23話『地獄の先へ』
第14話 地獄の先へ
【取調室・現在】
「…だから、うちは…」
私が、震える声でその先の言葉を続けようとした、その瞬間だった。
「もうやめろ!」
井上刑事が、椅子を蹴るように立ち上がり、叫んだ。
その顔は蒼白で、額には汗が滲んでいる。
「もういい!聞きたくない!」
彼は、まるで自分自身に言い聞かせるように、頭を抱えた。
「そんな地獄みたいな話…これ以上…」
その悲痛な叫びに、私の言葉は途切れた。
多重寺は、そんな若い相棒を制することなく、ただ静かに私を見つめていた。彼の目は、まるで全てを見通しているかのようだった。(そうだ、それでいい。この女を本当に理解するには、俺たちも同じ地獄の淵に立つしかない。綺麗事の同情など、侮辱でしかないのだから)
私は、凍てつくような目で、立ち尽くす井上刑事を見据え返した。
「…刑事さんが話せって言ったんやないですか!」
私の声は、低く、鋭く、彼の良心を切り裂くように響いた。怒りを叩きつけた反動か、私の肩はかすかに震えていた。だが、その声は、もはや揺らぐことはなかった。
「地獄? 当たり前やないですか。うちらはずっと、地獄の底で生きてきたんやから。今更、綺麗事なんか聞きたないわ」
私は、多重寺刑事をまっすぐに見た。彼は、何も言わずに、ただ静かに頷いた。話せ、と。その目が言っていた。
私は、井上刑事を睨みつけたまま、続けた。
「最後まで聞きや! な? …うちと、お兄ちゃんが、どうやってあの地獄を終わらせたのかを」
【回想・12年前のクリスマスの夜】
直樹が、血と憎悪に染まった顔で、研ぎ澄まされた包丁を和子へと突きつける。その殺気に満ちた眼差しは、和子の最後の抵抗すら奪い去った。和子はへたり込み、その顔は恐怖に歪んでいた。このままでは、本当に、お兄ちゃんが人殺しになってしまう。
その瞬間、私の喉の奥から、やっと声が絞り出された。か細く、掠れた声。だが、それは必死だった。
「お兄ちゃん!やめ!やめよ!」
私の言葉は、直樹の耳に届いただろうか。それでも、私は続ける。このままではいけない。この憎しみの連鎖を、ここで断ち切らなければ。
「意味ないねん!そげなやつ殺したところで意味ないわ、価値もない、世の中変わらんけんね!」
あの時、心の中で響いた声が、私の口から飛び出した。天使か悪魔か分からなかった、あの声。それは、私自身を救うための言葉やった。そして今、兄を止めようと、必死に叫んでいた。
私の声が、直樹の耳に届いたのか。彼の振りかぶった腕が、ピタリと止まった。和子へと向けられていた刃先が、一瞬、ゆっくりと下がる。彼の瞳に宿っていた狂気の光が、わずかに揺らぐ。その顔に、ほんのわずかだが、迷いの色が浮かんだように見えた。私の言葉が、彼の中に残っていた、兄としての理性を、必死に呼び戻そうとしていた。
その、一瞬の隙。
和子の目は、まだ恐怖に震えていたが、その奥に、獲物を狙う獣のような狡猾さが戻っていた。彼女は、へたり込んだまま、震える手で、シンクの陰に隠してあった、もう一本の包丁に手を伸ばした。
「上等やないか!」
和子の顔に、歪んだ笑みが浮かぶ。恐怖は消え去り、そこには、血に飢えた狂気だけが残っていた。
「ぶち殺したる!」
叫び声と共に、和子は勢いよく立ち上がり、手にした包丁を、直樹へと真っ直ぐに突き出した。その刃は、直樹の腹部へと、ためらいなく向かっていった。全てが、あまりにも突然の出来事やった。
【取調室・現在】
井上刑事は、私の言葉に押し黙ったまま、ゆっくりと椅子に座り直した。
彼の顔からは、同情の色が消えていた。ただ、この物語の結末を、最後まで見届けるという刑事としての覚悟だけが、その目に宿っていた。
私は、もう、誰の顔も見なかった。
ただ、12年前の、あの血と鉄の匂いがする台所の光景だけを、見つめていた。
語り終えた私の額には、びっしりと冷たい汗が浮かんでいた。12年分の記憶を吐き出すことが、どれだけのエネルギーを消耗するか、刑事さんらには分かるまい。
私の終わらない告白と、それを聞き続ける覚悟を決めた刑事たちとの間で、見えない何かが、静かに結ばれようとしていた。
『『わたしの名前はSILK』』 志乃原七海 @09093495732p
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