第22話『兄の血』




【取調室・現在】


「…お兄ちゃんは、うちを守ろうとしてくれたんです。あの地獄から、うちだけやなく、自分自身も救おうとして…」

私の声は、取調室の冷たい空気の中で震えていた。

目の前の刑事たちの顔が、私の言葉によって歪んでいくのが分かった。


【回想・12年前のクリスマスの夜】


「放すもんか!絹代は、私のもんや!誰にもやらへん!」

和子の甲高い声が、狭い台所に響き渡る。その顔は憎悪に歪み、完全に正気を失っていた。直樹は、私の肩を掴む和子の手を振り払おうとするが、和子の握力は異常なほど強く、指が食い込む。


その瞬間、和子は左手に持っていた焼酎の瓶を、大きく振りかぶった。鈍いガラスの輝きが、薄暗い台所の照明を反射して、一瞬、キラリと光る。

「邪魔すんやない!いきなり現れてからに!」

怒鳴りつけるような声と共に、振り下ろされた瓶は、直樹の頭部を正確に捉えた。

ガツン!

鈍く、しかし確実に、骨に響くような音がした。直樹の体が、ぐらりと大きく揺れる。彼はよろめき、その場に膝をついた。和子の手が、私の肩から離れ、直樹の倒れる音が、遅れて耳に届いた。


私の視界が、一瞬にして真っ赤に染まる。直樹の頭部から、どろりとした生温かい液体が、ゆっくりと流れ落ちていく。髪を濡らし、顔を伝い、床に小さな水たまりを作っていく。血だ。お兄ちゃんの、血。


直樹は、うつむいたまま、しばらくぴくりとも動かなかった。和子は、その場でハァハァと荒い息を吐き、恐怖と高揚が入り混じったような顔で、その光景を見下ろしている。

やがて、直樹はゆっくりと顔を上げた。その顔は、血で半分ほど赤く染まっていたが、なぜか薄らと笑っていた。その笑みは、狂気に近い、どこか冷めた、恐ろしいものだった。


「なあ、絹代よ?」

直樹の声は、まるで遠い場所から聞こえてくるようだった。しかし、その言葉は、私の心臓を鷲掴みにするような、鋭い響きを持っていた。

「もう、終わりにしよう?」

彼の瞳は、血と涙で濁っていたが、その奥には、これまで見たことのない、冷たい光が宿っていた。

「こんなやつ、親やない!人でもない!」

直樹は、血のついた手で、よろめく和子を指差す。その指は震えていたが、意思は固かった。

「見たやろ?俺を、兄ちゃんを殺そうとしたんやで!」


直樹の言葉が、私の凍り付いた心を、深く抉った。確かに、見た。母が、兄を、殺そうとした。その事実は、これまで心の奥底で蓋をしていた、あらゆる感情を一気に噴き出させた。憎しみ、悲しみ、恐怖。そして、わずかに残っていた、母への愛情も、完全に枯れ果てた音を立てた。もう、全てが終わりだった。この家も、私という人間も、そして、母という存在も。


「俺だけやない!妹の絹代にまで、死ぬところやったんやで!」

彼の視線が、再び私へと向けられる。その眼差しは、私の心臓を深く突き刺した。

「もうええやろ!」

直樹は、よろめく身体を引きずりながら、台所の奥へと向かった。その足取りはふらついていたが、彼の内側から沸き起こる、制御不能な怒りが、彼を突き動かしているようだった。


直樹は、シンクの横に立てかけてあった包丁に、迷うことなく手を伸ばした。銀色の刃が、鈍く光を反射する。

「ぶち殺したるわ!」

その言葉は、まるで獣の咆哮のようだった。直樹は、血と憎悪にまみれた顔で、包丁を握りしめ、和子へと向き直る。その目には、もう、かつての兄の面影はなかった。そこにあったのは、ただ、純粋な殺意だけ。


和子は、その場にへたり込んだ。震える手で、空になった焼酎の瓶を、まるで盾にするかのように持ち上げる。

私は、その光景を、ただ茫然と見つめていた。私の目の前で、お兄ちゃんが、お母さんを、殺そうとしている。この、地獄のような家で。私の体は、凍り付いたように動かない。しかし、心の奥底では、何かが、激しく揺れ動いていた。それは、恐怖か、あるいは、解放への予感か。理解できない感情が、渦を巻いていた。


【取調室・現在】


「…だから、うちは…」

私が、震える声でその先の言葉を続けようとした、その瞬間だった。


「もうやめろ!」


井上刑事が、椅子を蹴るように立ち上がり、叫んだ。

その顔は蒼白で、額には汗が滲んでいる。

「もういい!聞きたくない!」

彼は、まるで自分自身に言い聞かせるように、頭を抱えた。

「そんな地獄みたいな話…これ以上…」


その悲痛な叫びに、私の言葉は途切れた。

目の前の若い刑事は、もう、刑事としての仮面を保てなくなっていた。ただ一人の人間として、12年前に起こった悲劇の重みに、押し潰されそうになっていた。

多重寺は、そんな相棒の肩に、何も言わずにそっと手を置いた。


取調室に、重い、重い沈黙が落ちた。

私の終わらない告白と、それを聞き続けることのできない刑事の良心とが、行き場をなくして、ただ漂っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る