第2話

 低く、腹の底に響くような振動が続いていた。

 その規則的なリズムは、巨大な生物の心臓の音にも似ているが、もっと硬質で無機質だ。

​ ノア——白石ノアは、冷たい金属製の診察台の縁に腰掛け、所在なさげに足をぶらつかせた。


 ——推定異世界、かぁ。


 目覚めたあの祭壇の部屋。二人に連れられてそこから一歩出た先は、湿った石壁とどこから鳴っているのかもわからない風切り音が響く、ダークファンタジー系のゲームにでてくるダンジョンさながらだった。“魔物”の一体も見かけることもなかったということを除けば。

 それでもなお薄暗い回廊はカビ臭くてホコリっぽくて、思わず何度か激しく咳き込んでしまい移動を中止させるという一幕もあったことを思えば、変なものが出てこなくて本当に良かったとも思う。

 しかし、彼らはなんであんなところをマスクもせずに涼しい顔で踏破できるのか。心肺機能が強くなるとそういった部分にも強くなるのだろうか。


 ——でも……。


 彼は周囲を見回して、眉をひそめた。

 “異世界”に来てもどうやら自分はつくづく医療現場と縁があるらしい。

 ツンとした高濃度の消毒液の香りとリベットの打ち込まれた白い壁面に包まれた部屋に妙な安堵感を覚えてしまうことに、僅か、自嘲する。


 ——ちょっとだけ、鉄とオイルの匂いがする。


 診療台を通して伝わってくるその振動が、自分はあの“艦”の中にいるのだという現実を思い出させた。

 そう、彼が“やって来た”のは異世界は異世界でも、どうやら中世ダークファンタジーの世界などではないらしい。

 二人の助けを借りて——というよりも半ば介護に近かった——そのダンジョンを出た彼を迎えたのはビルを横倒しにして装甲板とパイプ、巨大なキャタピラを付けたような威容を誇る百メートルを越えようかという“陸上艦”としか言いようのない代物だった。

​ ノアは自身の太もも——ボロ布から覗く、驚くほど白く滑らかな肌——をそっとつねった。

 痛い。

 そして、その痛み以上に、指先に伝わる弾力のある感触が、ここが現実であることを冷酷なまでに伝えてくる。


​「……で、名前も言えなさそうかい?」


 不意にかけられた声が、答えのない思考に沈んでいきそうになるノアを今に引き戻した。

 聞こえてくる言葉にもだいぶ慣れた。

 聞きとるだけなら気分が悪くなるようなこともなくなったが、こちらから話すとなると上手くできない。無意識に出る言葉が時たま話慣れた日本語と違う響きになることはあるが、意識してそれを話そうとすると上手くいかない。


​「……ぉ、あ……」


​ ノアは答えようとするがやはり上手く発音できない。

 だが、今の自分の喉から出る音が、あまりにも記憶にある自分の声と乖離していて、声を出すこと自体に躊躇いがあった。

​ だが仮に“ちゃんと”話せたとして、この男に対して何を話せというのだろうか。自分は東京都八王子市出身新宿区在住の成人男性白石ノアです、などと言ったところで通じるはずもない。

 少なくともこの男——道中でジーク・ロックウッドという名だと知った——が欲している答えでないことだけは確かだろう。


​「まぁ、無理もないか」


​ 彼の視線が、ちらりとノアに向けられる。


​「一応、もう一度説明しておく。このあとは健康診断、その後そのデータを元に行方不明者情報と照会する。なに、すぐに家に帰れるさ」


 彼はノアの現状を、何かしらの事件に巻き込まれあの遺跡に監禁されていた被害者ではないかと考えているらしかった。

 直接そういった言葉を彼が口にした訳では無いが、態度の端々から感じ取れる。


「ま、あとは専門家に任せるとするか」


 ジークが顎で扉をしゃくると、タイミングを見計らったように金属製のスライドドアが開いた。

 入ってきたのはあのオレンジ髪の少年——カイルと、白衣を羽織った女性だ。

 白衣の下にはジークやカイルが纏っているのと同じジャケットが見える。どうやらあれはこの艦の制服ということらしい。

 小さな丸い眼鏡をかけ、手には薄いタブレット端末らしきものを持っている。

 もじゃもじゃの髪とそばかす、青い瞳。しかしなにより目立つのは頭の上にピンと立つ獣の耳だ。


 ——唐突にファンタジーが来た……!


「ミラさん、あの子です。見た感じ外傷はないけど、喋れないぽくて。心因性かも」


 ミラと呼ばれた女性医師は少し困ったように眉根を寄せる。


「やれるだけやってみます。ですので……あの、男性陣はいったんご退出いただきたくぅ……」


「はいよ。終わる頃戻るから頼むんだわミラ。ほれ行くぞ」


 ジークがひらりと手を振り、カイルの首根っこを掴んで部屋を出て行った。重厚な扉が閉まり、部屋には低い駆動音だけが残される。


「……言葉は通じますか?」


 こくりと頷く。

 それを見たミラは露骨に安堵の表情を浮かべて小さく息を吐いた。

 緊張しているのだろうか。あまり年嵩には見えないし、もしかすると新人なのかもしれない。

 ぼんやりとそんなことを考えてしまう程度に、ノアは“医師に診られる”ということに慣れきっていた。場所が変わっても、人が変わっても——いや彼のいた世界の基準で彼女を“ヒト”と言えるかは分からないが——そうした慣れを伴う行為は彼の心にいくらかの余裕を作る助けとなった。


「よかったです。話せないと色々難しいですから……ていうかジークさんもカイルくんもなんでこの服のまま放置したんですか……服は一旦脱いでしまいましょう。検査後はひとまずこれをどうぞ」


 ミラは眉をハの字にまげて困ったように笑うと、この医務室にある棚のひとつから一着の薄青色の服を取り出した。どうやら検査着のようなものらしい。

 ノアは一瞬躊躇したが、ここで抵抗しても意味がないことは理解していた。それに、病院での生活が長かった彼にとって「検査のために服を脱ぐ」という行為自体は、日常の一部のようなものだったからだ。

 泥と埃にまみれたボロ布を脱ぎ、診察台の横にあるカゴに入れる。肌に直接触れる冷たい空気。けれど、鳥肌は立たなかった。かつての自分の体であれば、わずかな気温の変化でさえ苦痛だったのに。今の体は、まるで高性能な断熱材で守られているかのように、環境に適応している。

 聴診器が胸に当てられ、冷たいゼリーが腹部に塗られる。テキパキと進む検査の中で、ノアの視界の端に自分の体が映る。

 細い。白い。それはいい。病室の自分もそうだった。だが、その「白さ」の質が違う。血管が透けるような病的な白さではなく、陶磁器のような、あるいは作り物めいた完璧な白さ。


「身体的には異常なしですね。簡易検査なので過信はしないで欲しいですが……」


 ミラが端末をタップし、顔を上げる。そして彼女は近くの椅子に掛けてあった先程の清潔な検査着を手に取りノアに手渡した。


「これをどうぞ。顔も洗ったらいかがですか? スッキリしますよ」


 よほど思い詰めた顔でもしてしまっていたのだろうか。心配そうに言うミラに対してノアは曖昧な笑顔のまま受け取った検査着に袖を通すと、部屋の隅、手洗い場の上に設置された鏡へと歩み寄る。

 “こちら”に来てから初めてだ。明確に自分の姿が映りうるものを視界に入れることを無意識に避けてしまっていた。軽やかな呼吸も、視界に映る白い手も、自重を簡単に支える足も、慎ましやかな膨らみのある胸も、視界をわずかに覆う銀の髪も。なにもかもが「これは自分ではない」と叫んでいた。


 ——見ないと、だよね……。


 息を呑む、という音さえ出なかった。銀糸を束ねたような、流れる長髪。宝石のような赤の瞳。色素の薄い肌に、形の良い唇。浮世離れした美少女が鏡に映っている。


(これが……僕……?)


 信じられない思いで、そっと頬に手を伸ばす。鏡の中の少女も、不安げな表情で頬に手を添える。頬をつねる。痛い。少女が顔をしかめる。


「あー……」


 口を開く。鈴を転がすような、高く澄んだ声。男としてのアイデンティティが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのが聞こえた気がする。ジークが言っていた「嬢ちゃん」という呼び名は、からかいでも何でもなく、やはりただの事実陳列だったのだ。


「うぅ……」


 情けないうめき声を上げながら、ノアはその場に崩れ落ちそうになるのを洗面台に手を添えることでなんとか持ちこたえる。

 鏡の中の少女が、今にも泣き出しそうな顔でこちらを睨み返してくる。その表情でさえ、腹が立つほど画になっていた。


「あ、あわわ……ど、どうしました?! ご気分でも悪いですか、どうしよ……っ」


 そんな様子に慌てたミラがとてとてと駆け寄ってきて所在なさげに手を動かしながら声掛けのような、その実、応えなど聞いていない言葉を吐き出している。

 非常に申し訳ないが、放っておいてほしい。


「あのさ、ミラぁ……そういうの患者がビビるからやめなさいって前も言ったでしょうよぉ」


 扉が開く音ともに入ってきたジークが呆れたように軽い声で言う。だが、その目は全く笑っていないし、連れ立ってやって来たカイルもカイルでどこか気まずそうに視線を泳がせている。

 二人のまとっている空気感が明らかに変わっている。


「ご、ごめんなさい隊長……なにかありました?」


「ちょいと面倒なことになったかもしれん」


 ジークは手に持っていた端末をいじって、ミラに手招きをするとその画面を見せるように突き出した。


「こ、れは……」


 画面を見たミラが口元に手を当てて息を呑む。

 なにが記されていたのだろう。


 ——とても、嫌な予感がする。


 今まで目を背けていたなにかが鎌首をもたげてこちらを見つめているような。背筋が粟立つような感覚がする。


「お前さんの身元がわかった」


 身元がある。名前がある。過去がある。

 アタリマエのことだ。

 だが、それは、すなわち——


 ——お前は、誰だ。


 そう、言われた気がした。

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RECAST 〜空っぽの器に憑依した僕は借り物の命の「理由」を探す〜 安喰美蓮 @Miren_ajiki

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