第1話
胸の奥で小さな袋がゆっくり広がって、しぼむ。
その度に冷たい空気が喉を通り抜けていく。
吸うにも、吐くにも余計な力がいらない。ためしに深く息を吸ってみても体に痛みが走ることはなく、むしろ酸素が体に行き渡るかのように少し体が暖かくなるような気さえした。
そんな軽やかな呼吸、それ自体に違和感がある。
今の彼——白石ノアにはそんな呼吸はできない。
できないはずなのだ。
(……病院じゃない)
肺の中を満たす薄く乾いた空気には消毒液の匂いはなく、代わりにどこか鉄の粉のような微かな匂いが漂っている。
背を預けている場所もそうだ。ベッドにしてはいくらなんでも硬すぎるし、冷たすぎる。
彼は意を決して薄っすらと目を開く。
そこには見慣れた白い天井はなく、薄暗い石造りの部屋が広がっていた。殺風景な室内に家具といえるようなものは無く、あるのは同じく石造りの不気味な祭壇のようなものと、それに灯った幾本かのろうそくだけだった。
ろうそくが灯っているということは誰かがいたのだろうか。自分ではない誰かが、この薄気味悪い場所に。
彼は寝返りを打つようにゆっくりと体を動かして、石造りの床に手をつく。
「……っ?!」
そこにあるのは、細くて白い腕。
いやそうじゃない。細くて白いのはもともとそうだ。決定的に違っているのはその腕がどんなに細くても、白くても、今にも折れそうな血色のわるい腕ではないということだった。
——僕の腕じゃない。
細くて頼りない腕ではあるが骨が浮き出ているそれではなく、確かに細いが筋肉と脂肪に覆われている腕。健康的な腕だ。
口の中が乾く。
腕だけではない。目に見える体の部位のどれもが自分の情けない小枝のような骨と皮ばかりのそれとはあまりにも異なっている。
それに服だって慣れ親しんだ院内着やら手術着やらではない。ボロのチュニック、ただそれだけ。
「な、ぃが……っ!」
一体ここがどこで、自分がどうなってしまったのか。あまりにも分からないことだらけで思わずつぶやこうとした言葉が崩れる。
まるで、思考と言語のあいだに一枚なにか壁があるかのように言葉が上手く紡げない。
「こ、こは……ろこら……」
試しにゆっくりと発音を意識してみる。
違和感。まるで初めて覚えた言葉を発音するかのように喉が、舌がギクシャクと動いて思い描いた音にならない。
——ついに僕は
思考の中に混じりこんだ知らない言葉。
だが意味はわかる。
そしてそのこと自体が、ひどく、不安を掻き立てる。
——知らない言葉が、なんで。
どうしてわかるのか。
どうして当たり前のように“思考”に割り込んでくるのか。
一体その言葉はなんなのか。
なにもわからない。なにもわからないのに、当たり前のようにそれが自分の思考言語に割り込んでくる感覚。
軽い吐き気が込み上げる。
「
己が呟いた日本語でない言葉に眉をひそめることしか出来ない。
自分の体の違和感も、この自分の存在そのもののアイデンティティを冒してくるかのような気味の悪い感覚に比べれば取るに足らないことのようにさえ思える。
「……はぁ」
思わず吐いたため息が、思い浮かべていたのと同じように出たことで、彼はほんの少しだけ安堵した。
だがそんな束の間の安堵はその謎の空間にある唯一の扉……装飾の施された重厚な扉が爆発じみた鈍い轟音とともに弾け飛んだことで見事なまでに打ち砕かれる。
両開きの扉は片方だけでも彼の体重の何倍もの重さがありそうなのに、まるで軽い木の板みたいに凄まじい速さで吹き飛んで、反対側の壁に叩きつけられて止まった。
巻き込まれなかったのは運が良かった。扉の真ん前にいたらいまごろペシャンコになっていたかもしれないと思うと、たらりと冷や汗が垂れる。
「
日本語とも英語とも違う……彼がこれまで耳にしたことのあるあらゆる言語と合致しない響き。
「
しかし意味だけは理解できる。
——
頭の中で浮かべた疑問が、疑問そのものである未知の言葉で紡がれていることに気づいてまた吐き気が込み上げる。
訳が分からない。
しかし状況は彼が思考の海に沈んでいくことを許さない。
もうもうと立ち込める粉塵の向こうから、ガチャリと金属音を鳴らしながら、鮮やかなオレンジ色の髪をした少年が現れる。
青地に金の刺繍が入った軍服風のジャケットを、ボタンの一つまで几帳面に留めて着込んでいる。育ちの良さそうな、あどけなさすら残る整った顔立ちに不似合いな無骨な亀の甲羅のような装甲板。盾のようなもなのだろうが目を惹くのは無造作に突き出た杭だ。
あんなものは映画やゲームの中でしか見たことがない。
少なくともあんなものを装備する軍隊も、警察も、テロリストも、彼の知る限りは存在しないだろうことは確かだ。
「
きょとんとしながら悪びれずに少年はそう言う。
直後、その少年の後頭部に、背後から伸びた手がペシっと小気味よい音を立ててチョップを落とした。
「
呆れたような、しかしどこか飄々とした低い声。
少年の背後から姿を見せたのは、歴戦の雰囲気を纏った壮年の男だった。
後ろで三つ編みにされた黒髪、無精髭の残るワイルドな風貌。その瞳は、血のような赤色を宿している。
少年と同じ青い制服のジャケットを羽織ってはいるものの、前のボタンは全て開け放たれており、下に着込んだアンダーウェアに鍛え上げられた胸板が浮かぶ。
腰にはホルスターと、長剣。
「
「
「|『
男は「やれやれ」といった仕草で肩をすくめ、葉巻でも探すように胸ポケットをまさぐりまた一つため息をついた。
——なんなんだ、この人たちは……。
彼女は呆気にとられていた。
聞いたこともない言語の意味が何故かわかるのはこの際もうなんでもいい。わからないよりはマシだ。
だがわかったところで自分が置かれた状況を理解する助けに全くならないどころか、混乱を助長するような状況というのはいささか困る。
どうやら……というよりもやはりここは日本ではないらしいが、“あの世”であるかすら疑わなければいけないなんて聞いていない。
量子“コンピュータ”の中に保存された意識がなにかのゲームにでも混入したのか? だから自分はこんなわけのわからない状況に置かれているのか?
茫然自失のままぐるぐるとそんな答えのない思考をすることしかできない。
「
長剣を佩いた男の赤い瞳がノアを捉え、すぅっと細められた。
その男の言葉にオレンジの青年はパッと表情を輝かせながら視線の先を辿ってこちらを補足すると、その左手に見るからに重たそうな武装をつけているにも関わらず軽快な足取りで駆け寄ってくる。
もしかすると本当にあれは発泡スチロール製のコスプレ衣装なのかもしれない、なんて現実逃避をしたくなる。
「
青年は目の前で片膝をつくと、柔らかい笑みを浮かべながらそう言う。
先ほど扉を吹き飛ばしたらしい暴力性など微塵も感じさせない、太陽のような明るさ。
「
戸惑いながらも、その瞳に一点の曇りもない純粋な心配の色を見て取り、強張っていた肩の力を少しだけ抜ける。
「……ぁ、う……」
青年の問いかけに答えようとするが、漏れたのは言葉にならない掠れた音だけ。
「
傷に寄り添おうとする真摯な響きに、青年の人の良さが滲んでいる。
——先生はどうしただろう。
ふと『量子コンピュータに意識を残せるかもしれない』と語ったあの研究者のことを思い出した。言葉の端々から思いやりのようなものが見える人だった。
そんな感慨にふけっていると、青年の後ろから、長剣の男がゆっくりと歩み寄ってくる。
「……
男はニヤリと口の端を吊り上げると、腰のポーチから携帯食料のような包みと水筒を取り出し、絶妙に受け取りやすい軌道で投げてよこした。
「……
男はジャケットの胸にあるエンブレムを親指で弾き、安心させるように笑った。
その笑顔は、どこか悪戯っぽく、それでいて自信に満ち溢れているような色をしている。
——少なくとも、悪い人たちじゃない。
直感的にそう感じた。
おずおずと渡された水筒を手に取って、蓋をひねる。
その様子を見ていた男は満足げに頷き、青年に向かって顎をしゃくった。
「
——いや、待て。
「
——嬢ちゃんって言ったか……? 僕が?
元・重病人男性白石ノアは、ひどく混乱した。
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