第4話

教室の扉が、少し勢いよく開いた。


「はいはい、おはよう。席ついて〜」


明るく弾んだ声が教室に響く。

それだけで、朝のざわめきが自然と整っていく。


教壇に立ったのは、担任の相沢先生だった。

腰まで伸びた黒髪を軽く揺らしながら、手慣れた様子で教卓へ向かう。


「朝から元気そうで何より。……と言いたいところだけど、

まだ目が半分寝てる人もいるわね」


くすっと笑う生徒がいて、空気が少し和らぐ。


相沢先生は、生徒の反応を確かめるように教室を見回してから、

にこやかに出席簿を開いた。


「じゃあ、ホームルーム始めます。出欠取るわよー」


名前が呼ばれるたび、

「はい」「いまーす」と、ばらばらな返事が返ってくる。


「田中」


「はい」


「……紡」


「……はい」


返事をした瞬間、

相沢先生の視線が一瞬だけ、俺の方で止まった。


明るい表情のままなのに、

その目だけが、ほんの少し真剣になる。


「……うん」


短く、何かを確かめるように頷いて、

先生はそのまま次の名前を呼んだ。


気づかれた。

そう思った瞬間、心臓が嫌な音を立てる。


出席を取り終えると、相沢先生は軽く手を叩いた。


「はい、連絡事項二つあります」


声は相変わらず明るい。

けれど、話し方は落ち着いていて、聞き取りやすい。


「それからもう一つ。

最近、体調崩してる人、ちらほらいるみたいだからね」


そこで、また教室を見渡す。


「無理しないこと。

“頑張らない”っていうのも、ちゃんとした判断だから」


その言葉が、

なぜか俺の胸に、まっすぐ落ちてきた。


「何かあったら、遠慮せず言いなさい。

私は、そういうの聞くのが仕事だから」


最後は、少しだけおどけるように笑う。


教室に、また小さな笑いが起きた。


その中で、

俺だけが笑えず、

でも少しだけ、救われた気がしていた。







放課後。

校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


職員室の前に立ち、深く一度だけ息を吸う。

引き戸の向こうから、キーボードの音や紙をめくる音が聞こえてくる。


——大丈夫だ。


そう自分に言い聞かせて、ノックした。


「失礼します」


「はーい」


聞き慣れた明るい声に、少しだけ肩の力が抜ける。


中に入ると、相沢先生はデスクで書類を整理していた。

黒髪を耳にかけ、眼鏡越しにこちらを見る。


「……紡?」


一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに柔らかく笑った。


「どうしたの? 放課後に珍しいじゃない」


数歩近づき、小さく頭を下げる。


「相沢先生……少し、お話いいですか」


声は、自分でも驚くほど静かだった。


先生はペンを机に置き、椅子をこちらへ向ける。


「もちろん」


それから、声のトーンを少しだけ落とした。


「……何か、あった?」


その一言で、喉が詰まった。


言葉は考えてきたはずだった。

でも、向き合った瞬間、それらは全部、意味を失った。


「……その」


視線が床に落ちる。

拳を握りしめる。


「今日……朝、先生に声かけてもらって……」


相沢先生は、何も言わずに頷いた。


「……あれで、少し楽になりました」


本心だった。

だからこそ、もう逃げられなかった。


「でも……」


声が、わずかに震える。


「それでも……俺……」


一度、息を吸う。

肺が痛むほど、深く。


「……病気なんです」


相沢先生の表情が、静かに変わった。

驚きではない。

逃げない目だった。


「……病院で、昨日」


言葉を選ぶ余裕なんてなかった。


「癌だって……言われました」


空気が、止まる。


「……余命は、一年くらいだって」


自分の声が、他人のものみたいに聞こえた。


相沢先生は、すぐには何も言わなかった。

ただ、ゆっくりと椅子から立ち上がり、

紡と同じ目線になるように、少し身をかがめる。


「……そう」


たった一言。

でも、その中に、すべてが込められていた。


「……怖かっただろ?」


その言葉で、

胸の奥に溜まっていたものが、一気に揺れた。


「……はい」


それ以上、言えなかった。


相沢先生は、そっと息を吐いてから、静かに続ける。


「教えてくれて、ありがとう」


「言うの、相当勇気がいっただろ。」


紡は、黙って頷く。


「……誰にも、まだ言ってなくて」


「そう」


先生は、無理に笑わなかった。

でも、声は確かに優しかった。


「学校のこと、成績のこと、進路のこと……

全部、後回しでいい」


「今は、紡が“生きる”ことが一番大事だ」


その言葉が、胸に落ちる。


「ここでは、我慢しなくていい」

「弱っていい」

「頼っていい」


一つ一つ、噛みしめるように言う。


「私は担任だから。

紡がここにいる間、ちゃんと一緒に考える」


「一人には、しない」


視界が滲んだ。


「……ありがとうございます」


声が、掠れる。


相沢先生は、少しだけ照れたように笑った。


「ほら、泣くのはまだ早い」


「これからだから。大変なのは」


その言葉に、救われる。


職員室を出るとき、

背中に、確かな温度を感じた。


振り返らなかった。

でも、もう一人じゃないと思えた。


廊下を歩きながら、思う。


——言ってしまった。

——でも、後悔はしていない。


知ってくれる人が、一人いる。

それだけで、


今日を、生きていてよかったと思えた。

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君に届けと恋言葉 黒木のコタツ @kuroki708

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