第3話
俺が席に座ってから、少しして。
「……おはよ、紡」
低めの声が、隣から聞こえた。
顔を上げると、前の席の田中悠斗が、こちらを見下ろしていた。
「……おはよう」
返事はしたものの、自分の声がひどく遠く感じる。
悠斗は一瞬だけ俺の顔をじっと見てから、椅子を引いて座り直した。
「昨日、学校来てなかったけど大丈夫だったのか?」
心配しているのは、すぐにわかった。
気付いてくれた嬉しさと、悠斗の心配してくれる優しさ。
だからこそ、胸の奥が痛んだ。
――言えない。
癌だとか、余命だとか。
そんな現実を、この場所で、こいつに向かって口にする勇気はなかった。
「……ちょっと、体調悪かっただけ」
絞り出すように言うと、悠斗は「そっか」と短く頷いた。
けれど、その視線はまだ俺から離れない。
「なんかさ……今日、変じゃね?」
その一言で、心臓が跳ねた。
ありがとう、だけど今はまだ心の準備ができてないんだ。
「別に、大丈夫だよ。」
少し笑み浮かべて答える、即答したつもりだった。
けれど、自分でもわかるほど、声がぎこちなかった。
悠斗はそれ以上踏み込まず、少し困ったように笑う。
「無理すんなよ」
その言葉が、やけに重く響いた。
“無理をしている”ことを、
“いつも通りじゃない”ことを、
もう誰かには見抜かれ始めている。
そう思うと、心配してくれる人が嬉しくて辛くなる。
教室にいるのが一層辛くなった。
悠斗は椅子を回し、自分の席へ戻っていく。
普段なら、あいつの背中を見て安心するはずなのに、今日は違った。
――友達はいる。
――ちゃんと、ここにいる。
――ちゃんと、見てくれている。
それなのに、俺は…。
机の上に置いた手が、わずかに震える。
周囲の話し声は続いているのに、そのすべてが自分とは無関係に思えた。
誰にも拒絶されていない。
誰からも離れろと言われていない。
それでも俺は、もうこの場所に“完全には”いられない。
余命一年という現実が、
この教室でも、確かに俺を孤立させていた。
教室の扉が開く音がした。
ただそれだけの音なのに、胸がわずかに強く反応する。
条件反射のように、俺は顔を上げていた。
――来た。
いろはだった。
朝の光を背に、自然な足取りで教室に入ってくる。
肩までの黒髪が揺れ、眠そうな表情のまま友人に軽く声をかけている。
その姿は、一昨日までと何も変わらない。
いつも通りで、当たり前で、未来が続いている人の姿だった。
それが、ひどく眩しかった。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
顔を見られて、安心した。
同時に、どうしようもなく苦しくなる。
――話しかけたい。
――声を聞きたい。
そう思うのに、体は動かなかった。
自分の弱さと、情けなさに腹が立つ。
来月の誕生日に、想いを伝えるつもりだった。
好きだと。
ずっとそばにいてほしいと。
そのために、何度も言葉を考えてきた。
緊張も、拒まれる可能性も、全部覚悟していた。
けれど、今は違う。
余命一年。
その現実が、俺といろはの間に、はっきりと線を引いている。
――これから先があるいろは。
――一年後、ここにいないかもしれない俺。
同じ教室にいて、同じ制服を着ているのに、
もう同じ場所には立てていない。
その事実に、涙が出そうになるのを必死で堪えた。
いろはは友人と話しながら席へ向かう。
その途中、一瞬だけこちらに視線が向いた。
目が合う。
心臓が、大きく跳ねた。
いろはは少し驚いたように目を瞬かせ、それからいつものように柔らかく微笑む。
小さく手を振って、
「おはよう、紡」
その一言が、胸の奥に深く刺さった。
「……おはよう」
返事はできた。
声も、思ったほど震えていなかった。
それでも、どこか“演技”をしている感覚が残る。
一昨日までの自分を、必死に再現しているだけのようだった。
いろはは少しだけ俺を見つめ、それ以上何も言わずに自分の席へ向かう。
いつも通りの、何気ないやり取り。
——俺の返事は、そんなに不自然だっただろうか。
まだ、死ぬと決まったわけじゃない。
まだ、俺は何も失っていないはずなのに。
それでも、もう大切なものを失い始めている気がした。
机の下で、拳をぎゅっと握りしめる。
声をかけなかった後悔。
声をかけられなかった安堵。
その両方が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
教室は、いつも通り朝のざわめきに包まれている。
誰も気づかない。
俺の中で、何かが静かに崩れ始めていることに。
――この想いは、まだ、伝えてはいけない。
そう自分に言い聞かせながら、
俺はただ、視線を落としたまま席に座っていた。
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