第2話 夫婦の日常から馬鹿騒ぎへ

 恐らくあったであろう、夫と妻の会話。

 金曜日。歓迎会の翌日の夕食中、夫は表情に険がまったくない。

「………ということがあってさ。つい暴走して暴言を言いかけた」

 妻はいつものポニーテールを解いている。

「大学生のときの、相手の彼女、かわいそうだよ。言い過ぎだよ」

「……仕方ないよ。遥と俺を同時に貶めたからね。無自覚に。他人を侮り過ぎだよ」

「直哉、次からは『妻しか見えないんです』を返して。アホのふりをしてね」


 少し、お酒が入って、夫が本音を語り出す。

「高校生の時はキスで止めといて良かった。お前は……当時の俺のキャパを完全に超えてた。

 あのまま進めば、すべてを遥に全振りして、ふたりとも確実に破綻してた。

 あの停止判断は、今考えても唯一の正解だった」

「高校までは私も耐えたんだよ!直哉と自分を退学させず、成績を維持、いや、伸ばすんだから。私のミッション、かなりヤバかったよ!でも、直哉はチョロかった」

「へ?」

「譲れない枠をはっきり出すから。それさえ回避すれば、あとは私の自由なんだから」

「お互いに、その方が楽だと思う。丸投げは受け手が困る。

 すべて協議するのでは窮屈だし。必要に応じて相談し、道を探すしかない」

「直哉らしい」

「歓迎会で、そういう話になったから、それでしばらく座が盛り上がったよ」

「どんな風に?」

「老成し過ぎと笑われた」

「確かに。架空の人物だよね。こんな二十五歳児、何処にも居ないよ」


 さらに酒が進む。

「遥、どうして結婚してくれたの?」

「え?約束を果たしてくれたから」

「……『県職員になって戻ってくる』と言ったこと?」

「それだけじゃない」

「……そう?」

「社会人になったとき、『公務員の給料では……』とか、『次の異動のとき、たぶん出先だから、結婚するなら、そのときにだろう』とか、けっこう未来のこと、言ってたよ」

「……確かに言った」

「そして、本当に社会人三年目のとき、本当にプロポーズしてきた(笑)」

「……したした。去年の九月」

「約束を必ず果たす、果たそうとする、そこがかわいい!」

「……あー、酔っ払った。寝るわ」

「おやすみなさい」(直哉、学生時代とは違う。でも、今でも君は私が知っている直哉のまま)


 ――月曜日の朝。六月上旬

「……っ! やべー!!」

 跳ね起きると同時に、時計の針が視界に刺さった。

 即、職場に電話した。「一時間の年休をお願いします!間に合えば取り消します!」

 出勤支度を慌ただしくしている妻に声をかける余裕もない。

 直哉は最短ルートで身支度を整え、文字通り勤務先への坂道をダッシュで駆け抜けた。

 ――■県○振興局

 だが、無情にも事務所の玄関をくぐった時には、九時半をすっかり回っていた。

「……おはようございます。申し訳ありません、遅れました」

 肩で息をしながらデスクに向かう直哉に、いつもの宗像課長がコーヒーをすすりながら、これ以上ないほどニヤついた顔で声をかけてきた。

「おー、相沢さん。アウト……まあ、いいよ。年休は処理済だから。それから……」

 宗像課長は指先で自分の顎のあたりをトントンと叩いた。

「とりあえず、一回トイレ行って顔洗ってこい(笑)それから、坂木さん、相沢さんのここに絆創膏を貼ってやって」

 坂木しのぶ「はい!」(にやにや)

「……え?」


 洗面所で直哉は絶望した。

(……ん?……ちょっと!……それはないですよ。遥ちゃん。なんか左顎が痛いと思ってたら、これかよ……絶妙に嫌な感じで、貼りにくいが……自分で貼ろう!)

「坂木さん!絆創膏ちょうだい!自分で貼るから」

「え?ダメですよ。私に任せてくださいよ」

「それは申し訳ないよ。男の顔なんか触るもんじゃないよ」

「でも、きちんと髭を剃ってますよ?どうしてそのときに気付かないんですか?」

「朝は剃らないんだよ。前の夜に風呂場で剃ってる。朝はつい忘れてしまうからさ」(よし貼れた!……セーフ)

「へえ~……やっぱり貼れてませんよ。私に見せてくださいよ~」

 彼女の目の輝きはヤバい。

「……じっとしててくださいね。あ、角度が……」

 至近距離。坂木が、直哉の顎に絆創膏を密着させようとした、その刹那だった。

 直哉の肌から立ち上る、清潔な石鹸の香りの奥に、「それ」が混じっていた。

 絆創膏の匂いに混じって、そして、微かに、本当に微かに、だが確実に。

 それは、直哉自身の体臭ではない。

 もっと甘く、もっと湿り気を帯びた、別の誰かの体温を感じさせる残り香。

(……っ!?)

 直哉の皮膚、紫がかった、誰かが吸い付いた痕、その歯型は、まだ「視覚的な事故」として処理できる。

 だが、この至近距離で鼻腔を突いた「他人の唾液の、生々しい甘い残り香」は、ほんの微かなものだったが、昨夜のふたりの「距離」を、隠しようもない濃度で突きつけてきた。

 相沢遥さん――同じ事務所の違う係で、現地任用職員として、ニコニコと働いている、あの遥さんの、さわやかなポニーテールの、表の顔からは想像もつかないような、直哉への深い執着と情熱の痕跡。

(……奥さん、見た人の眼を焼いてくる美人さん……これ……これ、ガチのやつだ……!)

 坂木は、顔面を真っ赤にしながら、丁寧に丁寧に絆創膏を貼り付けた。

(相沢さんの首筋の血管のトクトクしてるところに、奥さんの噛みつき……火力がオーバーキルだわ……)

 彼女の目からは何か光線が出ているようだった。

 夫婦の秘め事を覗いてしまった背徳感……。

「……相沢さん!終わりましたから、もう行っていいです!!」

 直哉が去った後、坂木の鼻から、すーっと血が流れ落ちてきた。

 その直後、事務所の女性職員のグループチャットは、文字通り「爆発」した。

『【速報】愛の痕跡発見!!相沢さんの左耳直下から奥様のサライヴァの匂いが!!鼻血不可避!!うちらを焼き払いに来た!!』

 そして、極めて速やかに誰かの鍵アカウントのSNSで実況され始めた。

『【五感焼失】相沢夫妻の愛について語りましょう【鼻血不可避】』


 男性陣は「絆創膏って何だよ」「にやにや」だけ。裏事情を知らず。


 独身の女子職員たちの反応はさらに過剰だった。彼女たちの目は、獲物を見つけた肉食獣、あるいは極上のロマンス映画を最前列で観ているファンのように輝いている。

(……見て、あの徹底した無関心。あれ、絶対『家で何があったか』を隠すための鎧よね) (尊い……。普段冷たい人が、あんな痕跡つけて涼しい顔で仕事してるの、色気がヤバすぎる……あ!絆創膏を指でなぞってる!)

 直哉が席を立つたびに、密やかなため息がフロアを走る。

 本人は、自分の鉄面皮が完璧に機能していると信じている。

 宗像課長がぽつりと呟いた。

「……あいつ、仕事と家庭を完全に回してるよ……命を削って」

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2026年1月13日 20:00
2026年1月13日 21:00
2026年1月14日 20:00

光と灯―国境のロジック―(「鈍いって、誰の事?」後編) 真崎 一知 @MASAKIICHI

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