光と灯―国境のロジック―(「鈍いって、誰の事?」後編)

真崎 一知

第1話 歓迎会と『下愚は移らず』の予兆

 ロシアの文豪の小説にこんな一節があったような気がする。

「一つの悪行は百の善行によって贖われる」

 この言葉を想起したとき、この物語を書こうと思った。


 ――四月。

 相沢直哉は妻の遥とともに、離島の事務所に着任した。

「学生のときの飲み会」の記憶が、事務所の歓迎会とリンクする。

 馴れ馴れしい「女子大生」と事務所の嘱託の女性事務員――三田村 梨穂――が直哉の左腕に自分の腕を絡ませ、話しかけてきた。

「ねえねえ、彼女とか居るの?」

 直哉は正直に返した。予防線でもあった。

 ――「うん、居る」と「はい、妻が居ります」

 鼻をつく香水の匂いも口臭もそっくりだ。

 女子大生と三田村が見事にオーバーレイしていく。


 その女子大生はこう言った。

「写真見せて……!……うわ、超美人!でも、過去に男がわんさか居るよ。絶対そうだよ。今でも男がほっとかないよ。ねえ、彼女しか女を知らないなんて損だよ。ポニーテール(笑)。ダッサ(笑)……え?ふたりともインスタとかしないの?……それじゃ彼女が地元で何してるか、ますます分かんないじゃん(笑)……絶対、他の男とヤッてるよ(笑)」

 ――お前は想像力を母親の胎内に忘れたのか?田舎の情報ネットワーク舐めんな!

 遥が素行不良なら、俺の親からやんわりと『おい、もう付き合うな』と連絡されている!

 遥の……いや、ごめん、遥、冒涜しちゃったよ。

 あのさー、お前、複数の男との関係を、声高に自慢してんじゃねえよ。耳が腐る!

 他人の容姿や肩書きを勝手に切り取って、タグ付けして陳列して序列化して、消費する。

『いいね!』など埃未満の価値しかない。お付き合い『いいね!』がそれほど嬉しいか?

 その薄汚い承認欲求の道具に、俺と遥を巻き込むな――


 三田村も、かつての女子大生とまったく同じ言葉を編んだ。完全なるトレース。

 無邪気に、夫妻の異性関係を詮索し、中傷し、そして揶揄……いや侮辱している。

 ――あなたは俺より、ずっと前から歩んできた、人生の先達だろ?経験豊富なはずだよね?

 どうしてそんなに下品なんだよ。そのレベルの低いゲスっぷり、もはや害悪だよ。――

 急激に女の体温が上がったように感じた。

 いや、直哉の心が凍てついているのだ。視界が狭まった。

 光沢を放つ深紅の唇が、スローモーションになった。

 ――下愚は移らず。そういう言葉がある。コイツも……破壊してやろうか――


 あのとき、直哉は目の前のケバケバしい化粧の女子大生に向けて、こう言った。

 冷静極まりなく、その女の精神を一刀両断にし、泣かせた。

 その言葉は深い溜息の後、矢のように飛んだ。

「……アンタ、とても臭い。口も香水も。日替わりの男に頼りきった承認欲求と自己肯定感」

 そして、ビビっている幹事に、会費四千円に五千円札を握らせ、その足で帰宅した。

 後ろから汚い音声が聞こえてきたが、一切振り返らない。何も感じない。

「最低!酷い!この童貞!……わーん!」

 直哉の大学からの出席者は、全員、内心でこう思っていた。

(いや、あんたの負け。反論の余地なし。そのままの事実じゃん(笑))

(よくぞ言ってくれたわ!相沢クン。男前!……でも、もう飲み会出禁だね……)

(むしろ相沢を呼べ!……他にも駆除対象、いろいろ居るだろ。女遍歴自慢野郎とか、知識マウントくんとかさ(笑))

(……いや、誘いをかけても、相沢はもう絶対に来ないと思うぞ……)


 ある程度耐性がついているが、直哉は三田村に対し、破壊に向け、頭脳をフルに使い、罵声を高速で用意し、最後は演出を計算し始める。

 女が吐き出したその薄汚い言葉が、直哉の鼓膜に触れた瞬間。 彼の脳内では、かつてない速度で「罵倒のロジックと演出」が組み上げられていった。

 ――その安くて臭い口を今すぐ縫い合わせて――

 学生時代なら、そのまま言葉を鋭利な刃にして、彼女の心をバラバラに解体していただろう。 直哉の瞳の奥が、冷たく、昏い光を帯びる。「破壊」の実行まで、あと数秒。


 その時。


「相沢さん、ちょっといいかな。こっちへ来てくれ。……仕事の話だ」


 背後から、低く、けれど通る声が響いた。

 課長の宗像 誠一郎(むなかた せいいちろう)だ。

 彼は直哉と女の間に割って入るでもなく、ただ当然のように、直哉をその不毛な戦場から呼び出した。

 直哉は、脳内の演算を強制終了させた。

 薄汚い女に一瞥もくれず、宗像課長の席に進んだ。

 三田村はニヤニヤと笑いながら、他の男性のところに行って、腕を組もうとしていた。


「わかりやすく話をしよう。相沢さん、仮に高校時代、君と奥さんが付き合っていて妊娠が発覚したとする。ふたりは退学だった。その時、周囲の大人はこう思ったはずだ。

『馬鹿野郎、なんてことを……。だが、こうなったらもう庇いきれない。これほど前途有望なふたりを、規則で切り捨てなければならないのは……社会にとっての欠損だ』とな。

 君という才能が、若さゆえの過ちで『欠落』してしまうことを大人は恐れた。……だが、こういう大人の計算高い汚さは、二十五歳の君にはまだ分からないかもしれないな。かつての俺が、自分の正義を疑わなかったように。

 前の事務所は、君のことを『誠実、優秀、果断にして鋭敏』と太鼓判を押している。だからこそ、感情を吐き出す前に一呼吸置くんだ。いいな、約束してくれ。……奥さんを悲しませるような真似だけは、絶対にしちゃいけない。後悔するのは君自身だぞ」

「……約束します」

 直哉の瞳は澄んでいった。

(前の事務所からは、こうも聞いた。『ひとたび逆鱗に触れれば、言葉で相手を完膚なきまでに破壊する』とも。……さっきの冷徹な瞳、その暗さ。自他共に破壊しかねない)

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