第三章:共鳴
翌日の夕方、カイが手毬を迎えに来た。車で十分ほど走ると、小さなコミュニティセンターのような建物があった。すでに、数十人の人々が集まっている。
中に入った瞬間、空気が変わった。
汗と、何かの油と、古い木材の匂い。舞台のような空間に、十人ほどの女性たちが並んでいる。年齢はバラバラだ。十代の少女から、リタよりも年上に見える女性まで。全員が裸足。手毬は自分の靴を見下ろした。ナイキのスニーカー。白い。
太鼓の音。
女性たちの足が床を踏む。ドン、という振動が、手毬の足の裏を伝って上がってくる。もう一度。ドン。心臓が、そのリズムに引っ張られる。
腕が上がる。
手首が回る。
指先が何かを掴もうとして、掴めずに、また開く。腰が揺れる。膝が曲がる。すべての動きが、言葉になる前の何かだ。音にもならない。ただ、筋肉が、関節が、記憶を語っている。
手毬の喉が、勝手に動いた。
歌が始まった。
ナウル語。
意味は、わからない。
でも音が、皮膚を通して入ってくる。
母音が伸びる。
子音が弾ける。
女性たちの声が重なり、ずれ、また重なる。
完璧には揃わない。
その揺らぎが、波のようだ。
心地良い。
隣でリタが何か言った。聞こえなかった。手毬の耳は、太鼓の音で満たされていた。ドン、ドン、ドン。心臓が、それに合わせて打つ。速くなる。
女性たちの動きが変わった。
激しくなる。
足が床を打つ音が、銃声のように響く。
顔が歪む。
口が開く。
叫んでいるのか、歌っているのか。
手毬の胃が、ぎゅっと収縮した。
そして、静寂。
女性たちが止まる。呼吸だけが聞こえる。荒い。浅い。誰かが咳をした。
最後の歌。
ゆっくりとしたリズム。女性たちが手を繋ぐ。円になる。回り始める。一人の老女が、目を閉じて歌っている。皺だらけの顔。でも、声は透明だ。
拍手が起こった。手毬も手を叩いた。手のひらが痛い。もっと叩く。音が、会場を満たす。
リタが手毬の腕を引いた。舞台裏のような場所。踊り手たちが、床に座って水を飲んでいる。タオルで首を拭いている。一人の女性が手毬を見て、何か言った。笑った。
リタが手毬に向かって何か言っている。口が動いている。でも、手毬の耳は、まだ太鼓の音を聞いていた。
「……踊ってみる?」
ようやく、言葉が聞こえた。
手毬は、自分の口が開くのを感じた。「はい」と言ったのか、何も言わなかったのか。わからない。でも、リタはやさしく頷いた。
◆
それから数日間、手毬は午後になるとコミュニティセンターに行った。
最初の日、女性たちが手毬を囲んだ。誰も英語を話さない。でも、一人が手毬の腕を取って、上げた。もう一人が手毬の腰に手を当てて、左右に揺らす。リタが見ている。でも、何も説明しない。
手毬は動いた。
間違った。女性たちが笑った。悪意のない温かい笑い。手毬も笑った。もう一度。また間違った。足がもつれる。靴を脱いでいたから、床の冷たさが直接伝わってくる。指先が床を掴もうとする。爪が引っかかる。
太鼓が鳴る。
体が勝手に動く。頭で考えるより先に、膝が曲がる。腰が落ちる。重心が下がる。地面が近い。床の木目が見える。誰かの足の裏の皺が見える。
息が上がる。
喉が渇く。誰かが水を差し出す。ペットボトル。ラベルが剥がれている。ぬるい水。でも、喉を通る感触が、はっきりしている。
練習は続く。
何度も同じ動きを繰り返す。腕を上げる。下ろす。手首を回す。最初は意識しないとできなかった動きが、だんだん、意識しなくてもできるようになる。筋肉が覚える。関節が覚える。
ある日、練習の後、一人の若い女性が手毬の隣に座った。セラ。二十代前半。痩せている。鎖骨が浮いている。
「あなた、なぜナウルに来たの?」
手毬は、ペットボトルのラベルの剥がれた部分を指でなぞった。
「……わからない」
嘘だった。
わかっていた。
でも、言葉にする気がしなかった。
セラは、しばらく黙っていた。
遠くで、子どもたちが遊ぶ声がする。
「私はオーストラリアにいた。三年」
手毬は、セラを見た。
「なぜ、戻ってきたの?」
セラは、採掘跡地の方を見た。尖った岩の塔が、窓の外に見える。
「……わからない」
二人は、笑った。
「オーストラリアはあたしにはおっきすぎたのかな……」
セラは最後にため息のようにそういった。
◆
ある夜、手毬はリタの家に泊まった。夕食の後、二人はリビングでコーヒーを飲んでいた。リタは何も訊かなかった。手毬も何も話さなかった。
時計の音だけが、規則的に鳴っている。
手毬は、カップの縁についたコーヒーの染みを見ていた。茶色い輪。何層にも重なっている。このカップで、何杯のコーヒーが飲まれたのだろう。
「あなたの夫は」
手毬は言いかけて、止めた。
リタは、窓の外を見ていた。
「糖尿病だったわ」
それだけだった。
手毬は、自分の元彼のことを考えた。七年間。でも、彼の顔が、はっきり思い出せない。輪郭がぼやけている。目の色は? 鼻の形は? わからない。
リタが立ち上がった。
「寝ましょう」
◆
翌朝、マヌが手毬を漁に連れて行ってくれた。
まだ暗い。空が、わずかに白み始めている。船が波に揺れる。手毬は縁に手をかけた。木が湿っている。塩がこびりついている。ざらざらしている。
マヌがエンジンをかける。音が、暗闇を切り裂く。
船が進む。波が船底を叩く。規則的なリズム。でも、時々、不意に大きな波が来る。船体が傾く。手毬の胃が、浮く。
空が明るくなる。
海が、青くなる。深い青。底が見えない青。手毬は海面を見つめた。波が、光を反射する。キラキラと。でも、その下は暗い。
マヌが何か言った。
手毬が顔を上げると、イルカがいた。三頭。いや、四頭。水面から飛び跳ねる。弧を描く。また、水に潜る。
手毬は、ただ見ていた。
イルカが消える。
マヌが網を投げる。しばらくして、引き上げる。魚が、数匹。銀色の体。口がパクパク動いている。目が、手毬を見ている。見ていない。ただ、光を反射しているだけ。
「Enough」
マヌが言った。
船は、島に戻った。
◆
その日の午後、カイが手毬を採掘跡地に連れて行った。車を降りて、岩の間を歩く。足元が不安定だ。石灰岩の欠片が、靴の中に入る。痛い。
カイが立ち止まった。
そこに、小さな木が生えていた。一メートルほど。葉は緑だが、くすんでいる。縁が茶色く変色している。
「去年、植えた」
カイが木に触れる。
手毬も触れた。幹は細い。手で握れるほど。表面がざらざらしている。樹皮が剥がれかけている。
「育つの?」
「わからない」
カイは、木を見上げた。
「でも、まだ生きてる」
風が吹いた。木の葉が揺れる。カサカサという音。乾いた音。
手毬は、しゃがみ込んだ。木の根元を見る。土はほとんどない。石灰岩の隙間に、わずかに茶色い土が見える。その中に、根が潜り込んでいる。
必死だ、と手毬は思った。
いや、必死ではないのかもしれない。ただ、根を張っている。それだけ。
手毬は立ち上がった。めまいがした。太陽が、真上にある。影がない。
◆
帰国まで、あと三日。
手毬は、一人で採掘跡地を歩いた。道はない。ただ、岩の間を縫うように進む。
この風景が、もう恐ろしくない。
でも、親しみを感じるわけでもない。
ただ、ある。それだけ。
手毬は、首からペンダントを外した。
銀色の小さなハート。彼がくれた、七年前のペンダント。
手のひらに乗せる。軽い。こんなに軽かったのか。
手毬は、岩の間に小さな穴を掘り始めた。指で。石灰岩の欠片が、爪の間に入る。痛い。でも、掘り続ける。土が、わずかに出てくる。茶色い。湿っている。
ペンダントを、そこに置いた。
土をかぶせる。
手毬は、立ち上がった。
何も変わらない。
風が吹いている。遠くで、鳥が鳴いている。太陽が照りつけている。
手毬は、歩き出した。
足が、勝手に前に出る。一歩。また一歩。
◆
帰国前日、マヌとリタ、カイ、セラが、海岸に集まった。焚き火を囲む。魚を焼く。油が跳ねる音。煙が目に染みる。
誰も、あまり話さない。
マヌがビールを飲んでいる。リタは火を見つめている。カイは携帯電話を見ている。セラは、砂に何かを書いている。
手毬は、波の音を聞いていた。
規則的な音。でも、完全には規則的ではない。時々、大きな波が来る。時々、小さな波が来る。
セラが、手毬の手を握った。
何も言わなかった。
手毬も、何も言わなかった。
ただ、手を握り返した。セラの手は、冷たかった。でも掌が少し湿っている。
手毬は、セラの手を、少し強く握った。
セラも、また握り返した。
◆
翌朝、空港へ向かう車の中。
手毬は窓の外を見ていた。尖った岩。椰子の木。青い海。
すべてが、遠くなっていく。
でも、遠くなるのは、物理的な距離だけだ。
手毬の身体の中に、何かが残っている。太鼓の音。塩の匂い。石灰岩のざらざらした感触。それと、セラの冷たい手。
空港で、リタとマヌ、カイが見送りに来た。
抱擁。
リタの体は、柔らかかった。石鹸の匂いがした。マヌの体は、硬かった。魚の匂いがした。カイは、ぎこちなかった。シャツにアイロンをかけていた。
「Take care」
リタが言った。
手毬は、頷いた。
「You too」
声が、出た。
手毬は、搭乗ゲートに向かった。
振り返ると、三人が立っていた。
リタが、わずかに笑っている。
手毬も、わずかに笑った。
口角が上がる感覚。久しぶりだった。
◆
飛行機が離陸する。
窓から、ナウルが小さくなっていく。茶色い島。青い海に囲まれた点。
やがて、雲に隠れる。
手毬は、目を閉じた。
身体が、シートに沈む。エンジン音が、全身を振動させる。
手毬は、シートベルトに手を当てた。金属のバックルが、冷たい。
そのまま、眠った。
◆
ブリスベンで一泊。翌日、東京に戻る飛行機。
成田に着いたのは、夕方だった。
入国審査。荷物受取。到着ロビー。
人が、多い。
匂いが、違う。香水と、排気ガスと、何かの洗剤の匂い。
手毬は、深呼吸をした。
胸が、わずかに痛い。でも、息が入る。
電車に乗る。
窓の外、東京の夜景。ネオン。ビル。人々。
手毬の隣に座っている男性が、携帯電話で話している。声が大きい。
「だから、それは明日の会議で」「いや、無理だって」「わかってるけど」
手毬は、その声を聞いていた。
イライラしない。ただ、聞いている。
男性が電話を切った。ため息をついた。
手毬は、窓を見た。自分の顔が、ガラスに映っている。ぼんやりと。
目の下に、くまがある。でも、目は、開いている。
◆
アパートに着いた。
ドアを開ける。三週間ぶり。
埃の匂い。かび臭い。
手毬は、バックパックを床に置いた。
窓を開ける。
夜風が入ってくる。冷たい。
遠くで、救急車のサイレン。
手毬は、台所に行った。冷蔵庫を開ける。空っぽ。電源が切れている。
水道の蛇口をひねる。水が出る。透明な水。
コップに水を入れて、飲んだ。
冷たい。喉を通る。胃に落ちる。
手毬は、ベッドに横たわった。
天井を見る。
シミがある。いつからあったのか。前からあったのか。
手毬は、自分の手を見た。
爪が、伸びている。汚れている。指先が、少し日焼けしている。
この手で、何かを掴んでいた。魚。木の幹。セラの手。
手毬は、手を握った。開いた。また握った。
まだ、動く。
手毬は、目を閉じた。
波の音を思い出そうとした。
わずかに、聞こえた気がした。
手毬は、そのまま眠った。
◆
翌朝、携帯電話が鳴った。
加奈だった。
「おかえり」
「……ただいま」
「どうだった?」
手毬は、窓の外を見た。曇り空。灰色。でも、明るい。
「……よくわからない」
「え?」
「まだ、わからない。でも」
手毬は、少し黙った。
「でも、何?」
「……悪くはない」
加奈は、少し笑った。
「そっか。じゃあ、今度、ゆっくり話そう」
「うん」
電話を切った。
手毬は、携帯電話を見つめた。
画面に、自分の顔が映っている。ぼんやりと。
でも、見える。
◆
数日後、手毬は求人サイトを見ていた。
編集。営業。事務。いろいろな仕事がある。
どれも、ピンとこない。
でも、何か選ばなければならない。
手毬は、一つの求人をクリックした。小さな出版社。編集アシスタント。
応募ボタンを押そうとして、止めた。
窓の外を見る。
雨が降り始めていた。
細かい雨。
手毬は、窓を開けた。雨の匂いが入ってくる。土の匂い。
東京にも、土があるのか、と手毬は思った。
手毬は、また画面を見た。
応募ボタン。
指が、画面に触れた。
押した。
心臓が、一度、強く打った。
◆
一週間後、面接に行った。
小さなビル。階段を上がる。古い建物。手すりがベタベタしている。
面接官は、四十代の女性だった。眼鏡をかけている。髪を後ろで結んでいる。
「志望動機は?」
手毬は、少し考えた。
「……書くことに、興味があります」
嘘ではない。でも、本当でもない。
女性は、履歴書を見た。
「三ヶ月、ブランクがありますね」
「はい。旅行に行っていました」
「どこへ?」
「ナウル共和国」
女性は、顔を上げた。
「……どこですか、それ」
「太平洋の、島です」
女性は、少し笑った。
「変わってますね。何しに行ったんですか?」
手毬は、窓の外を見た。雨が降っている。
「……何もしませんでした」
女性は、眼鏡を外した。目が、細い。
「何もしない旅、ですか」
「はい」
「いいですね」
女性は、また眼鏡をかけた。
面接は、三十分で終わった。
「結果は、一週間以内にご連絡します」
手毬は、頭を下げた。
階段を降りる。手すりが、やはりベタベタしている。
外に出ると、雨が止んでいた。
濡れた歩道。水たまり。
手毬は、水たまりを避けて歩いた。
一つ、避け損ねた。靴が濡れた。
でも、歩き続けた。
◆
その日の夜、手毬はノートを開いた。
白いページ。
ペンを持つ。
何を書くのか、わからない。
でも、ペンを紙に当てた。
インクが、滲む。
「ナウルは」
書いて、止めた。
ナウルは、何だったのか。
逃げた場所? 見つけた場所?
わからない。
手毬は、ペンを置いた。
窓を開ける。
夜風。
遠くで、誰かが笑っている声がする。
手毬は、また、ノートを見た。
「ナウルは」という文字だけが、そこにある。
手毬は、ペンを持った。
次の行に、書いた。
「荒れた土地だった」
また、止めた。
そうだ。荒れた土地だった。でも、それだけではない。
手毬は、次の行に書いた。
「でも」
でも、何?
手毬は、目を閉じた。
太鼓の音を思い出す。足が床を踏む感触。セラの冷たい手。マヌの船。小さな木。
手毬は、目を開けた。
ペンを持つ。
書いた。
「でも、そこには人がいた」
手毬は、その文字を見つめた。
違う。それだけでもない。
手毬は、ペンを走らせた。
「そこには、足を踏みしめる場所があった」
手が、勝手に動く。
「そこには、呼吸する空気があった」
止まらない。
「そこには、私がいた」
手毬は、ペンを置いた。
四行。
それだけ。
でも、何かが始まっている。
手毬は、ノートを閉じた。
立ち上がって、窓の外を見る。
東京の夜。ネオンが、遠くで点滅している。
手毬は、窓を閉めた。
ベッドに横たわる。
天井のシミを見る。
眠れるかどうか、わからない。
でも、眠れるかもしれない。
手毬は、目を閉じた。
明日。
また、明日がある。
それだけで、十分かもしれない。
手毬は、呼吸を整えた。
吸う。吐く。吸う。吐く。
波のように。
そして、眠った。
(了)
【傷心再生短編小説】ナウルに私を埋(うず)めて ~月の傷、からっぽの島~(約14,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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