第二章:月面の国で、呼吸(いき)をする

 降り立った瞬間、空気が肌に張り付いた。


 湿度。熱。

 そして、何か焦げたような、土と海と石灰が混ざったような匂い。


 空港というよりは、小さな体育館のような建物。入国審査のカウンターは一つだけで、中年の男性職員がゆっくりとパスポートをめくっている。


「Holiday?」


「Yes」


「How long?」


「Two weeks」


 職員は手毬の顔とパスポート写真を見比べ、何かを考えるような間を置いてから、スタンプを押した。出口を出ると、タクシー乗り場に車が三台並んでいる。


 手毬は最初の車に近づいた。運転手は五十代くらいの、褐色の肌をした大柄な男性で、助手席の窓から顔を出してこちらを見ていた。


「Hotel?」


「Yes. Menen Hotel」


「OK, OK. Get in」


 車の中は、古いカセットテープの音楽が流れていた。ゆったりとしたリズム。ギターの音色。運転手は無言でハンドルを握っている。


 道路は舗装されているが、ところどころ陥没している。車は速度を落とさずに穴を避け、時折、大きく揺れる。窓の外、椰子の木が並んでいる。その向こうに、青い海。しかし、すぐに風景が変わった。


 


 無数の、人の背丈ほどある白い岩の塔が、地平線まで続いている。まるで巨大な生き物の牙のように、不規則に突き出している。その間に、わずかに生えた雑草。土はなく、すべてが石灰岩の白さに覆われている。


 まるで月面だ、と手毬は思った。いや、月よりも暴力的だ。この風景には、明確ながある。


「Phosphate mining」


 運転手が、初めて口を開いた。


「They dug everything. Before, this was all forest. Now, nothing」


 手毬は窓に額を押し付けて、その荒廃を見つめた。


 採掘。

 リン鉱石。


 検索で読んだ情報が、今、目の前に現実として広がっている。この島は、かつて世界で。そして今、


 ホテルに着いた。二階建ての小さな建物。受付には若い女性がいて、流暢な英語で手続きをしてくれた。部屋は三階、階段を上がる。廊下の窓から、また、あの尖った岩の風景が見える。


 部屋に入る。ベッド、小さなテーブル、クローゼット。エアコンはなく、天井に扇風機が回っている。シャワーを浴びた。水圧は弱く、お湯の温度が一定しない。でも、汗と埃を流すには十分だった。


 手毬はベッドに横たわった。

 扇風機の音。

 遠くで聞こえる波の音。

 そして、自分の呼吸。


 今、自分はどこにいるのだろう。


 東京から何千キロも離れた、地図上の点。

 たまたま見つけた国。

 誰も知らない島。

 携帯電話の電波は微弱で、SNSの通知音もない。


 静寂が、耳の奥に染み込んでくる。


 いつの間にか眠っていた。目が覚めると、窓の外は夕暮れだった。オレンジ色の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。手毬は身体を起こし、窓を開けた。


 海風が入ってくる。塩の匂いと、植物の匂い。そして、どこかから聞こえる子どもたちの声。笑い声。


 手毬は部屋を出て、ホテルの外に出た。舗装されていない道を歩く。土埃が靴につく。道の脇に、小さな商店がある。冷蔵庫の音がブーンと響いている。中には、数人の男性が座って、ビールを飲んでいた。


 手毬が通り過ぎると、一人が手を振った。


「Hello!」


 手毬も、ぎこちなく手を振り返した。


 さらに歩くと、小さな広場のような場所に出た。そこには、十人ほどの子どもたちが集まっていて、何かゲームをしている。ボールを蹴り合っているようだ。その横で、女性たちが座って話をしている。


 手毬はベンチに座った。誰も彼女に声をかけない。でも、排除もされない。ただ、そこにいることを許されている、という感覚。


 日が沈んでいく。空が赤から紫へ、そして藍色へと変わる。星が、一つ、二つ、そして無数に現れる。


 東京では、星なんて見えなかった。


 手毬は空を見上げながら、涙が出そうになるのをこらえた。泣いてはいけない、という理由はない。でも、泣いたら、何かが決壊してしまう気がした。


 ホテルに戻る道、手毬は海岸に出た。波が岩に当たって砕ける音。月明かりの下、白い泡が見える。


 砂浜に立ち、靴を脱いだ。足の裏に、冷たい砂の感触。波が足元まで来て、去っていく。


 ここにいてもいいのだろうか、と手毬は思った。


 翌朝、手毬はホテルのレストランで朝食を食べた。パン、卵、コーヒー。窓際の席に座り、外を眺めていると、一人の女性が近づいてきた。


 六十代くらい。白髪混じりの髪を後ろでまとめている。穏やかな表情。


「日本から来たの?」


 流暢な英語だった。手毬は驚いて頷いた。


「そう。私はリタ。元教師よ。ここのホテルで、時々、観光客の案内をしているの」


「小早川手毬です」


「テマリ……綺麗な名前ね。ナウルは初めて?」


「はい」


「何を見に来たの? この島には、観光地なんてほとんどないわよ」


 手毬は、どう答えていいかわからなかった。失恋したから? 失職したから? 逃げたかったから? どれも本当で、どれも嘘のような気がした。


「……た」


 リタは、少し目を細めて笑った。


「正直でいいわね。じゃあ、何も見ない旅の最初に、私が島を案内してあげる。今日、時間ある?」


「はい」


「じゃあ、十時にホテルのロビーで待ってて」


 リタは、そう言って去っていった。


 十時、リタは古い四輪駆動車でホテルに現れた。助手席に座ると、車は海岸沿いの道を走り出した。


「まず、アニバレ湾に行きましょう」


 車は舗装されていない道を進む。揺れが激しい。手毬は窓の外を見つめた。椰子の木、小さな家、そしてまた、あの尖った岩の風景。


「あれが、リン鉱石の採掘跡よ」


 リタが指差す先に、広大な荒地が広がっている。


「私が子どもの頃は、まだ採掘が続いていた。毎日、トラックが行き来して、島中が埃まみれだった。でも、お金はあった。学校は無料、医療も無料。税金もなかった」


 リタの声は、淡々としている。でも、その奥に、何か複雑な感情が潜んでいるのを、手毬は感じ取った。


「でも全部、使。リン鉱石が枯渇したら、お金もなくなった。投資も失敗した。今は、オーストラリアからの援助と、漁業権の売却で、なんとか生きている」


 車は、小さな入り江に着いた。アニバレ湾。透明度の高い青い海。サンゴ礁が見える。何人かの子どもたちが泳いでいた。


 手毬は車を降りて、砂浜に立った。波の音。子どもたちの笑い声。風が髪を揺らす。


「綺麗でしょう? でも、海の向こうには、採掘跡がある。美しさと破壊が、すぐ隣り合っているの。それが、この島よ」


 リタは、岩に腰かけて、遠くを見つめていた。


「手毬、あなたはんでしょう?」


 手毬は、答えなかった。でも、沈黙が、答えになった。


「いいのよ。ここは、逃げてきた人たちの島でもあるから。この国自体が、ある意味、世界から逃げた場所なの」


 手毬は、リタの隣に座った。


「私も、逃げてきました。でも、何から逃げているのか、自分でもよくわからないんです」


「それでいいのよ。逃げることは、恥じゃない。時には、逃げることが、前に進むための唯一の方法だったりする」


 二人は、しばらく黙って海を見ていた。


 午後、リタは手毬を島の中心部、ヤレンに連れて行った。政府の建物が集まっている地区。その一角に、小さな博物館のような施設があった。


「ナウルの歴史が展示されている場所よ。観光客はほとんど来ないけど、島を理解するには大切な場所」


 中に入ると、古い写真や、採掘の道具、伝統的な工芸品が並んでいた。手毬は、一枚の古い白黒写真の前で立ち止まった。


 日本軍の兵士たちと、島民たちが写っている写真。


「第二次大戦中、日本軍がこの島を占領したのよ」


 リタの声が、背後から聞こえた。


「千二百人の島民が、トラック諸島に強制移送された。多くが、戻ってこなかった」


 手毬の胸が、締め付けられた。

 知らなかった。

 日本人として、ここに来ていることの意味。

 それは。


「……知りませんでした」


「多くの日本人は知らないでしょうね。でも、私たちは忘れない。忘れてはいけない」


 リタは、手毬の肩に手を置いた。


「でも、恨んでいるわけじゃないの。歴史は歴史。あなた個人の責任じゃない。ただ、知っておいてほしい。この島が、どれだけの痛みを抱えているか」


 手毬は、展示を見て回りながら、ナウルという国の重層的な歴史を感じ取っていた。植民地支配、戦争、資源の搾取、環境破壊、経済破綻。そのすべてが、この小さな島に刻まれている。


 夕方、リタは手毬を自宅に招いた。小さな一軒家。リビングには、家族の写真が飾られている。


「夫は十年前に亡くなったの。糖尿病だった」


 リタはコーヒーを淹れながら、言った。


「この島は、肥満率が世界一なのよ。知ってた?」


「……はい、調べました」


「リン鉱石で儲けたお金で、輸入食品ばかり食べるようになった。加工食品、砂糖、油。伝統的な食事は忘れられて、みんな太って、病気になった」


 リタは、窓の外を見た。


「豊かさが、私たちを壊したのよ。皮肉でしょう?」


 手毬は、コーヒーを飲みながら、リタの横顔を見ていた。皺の刻まれた顔。でも、その目は、穏やかで、強い。


「手毬、あなたは失ったものを数えているのね?」


「……はい」


「人は、失うことで初めて、何が大切だったかに気づくの。でも同時に、失って初めて、自由になれることもある」


 リタの言葉が、手毬の胸に沈んでいった。


 その夜、手毬はホテルの部屋で、ベッドに横たわっていた。窓を開けると、星が見える。風が入ってくる。


 自分は、何を失ったのだろう。


 彼氏。仕事。安定。未来の予定。


 でも、本当に失ったものは、それらではないのかもしれない。


 失ったのは、だったのかもしれない。


 手毬は、スマートフォンを手に取った。

 加奈からメッセージが来ている。

「元気?」


 返信を打とうとして、やめた。今、言葉にできることは、何もない。


 翌日、手毬は一人で島を歩いた。地図もなく、ただ、足の向くままに。


 採掘跡地に入り込んだ。尖った岩の間を縫うように歩く。足元は不安定で、時折、つまずきそうになる。太陽が容赦なく照りつける。汗が背中を伝う。


 岩の隙間に、わずかに植物が生えている場所があった。シダのような葉。小さな花。生命は、こんな過酷な場所でも、諦めない。


 手毬は、岩に腰かけた。視界の限り、荒れた土地が続いている。


 ここは、私の心みたいだ、と思った。


 何もかも、掘り尽くされて、空っぽになった場所。でも、完全に死んではいない。わずかに、何かが芽吹こうとしている。


 遠くで、誰かが歌っている声が聞こえた。


 手毬は声の方向に歩いた。岩の向こうに、小さな家があった。庭で、一人の男性が作業をしている。五十代くらい。大柄で、日焼けした肌。


 男性は手毬に気づくと、手を振った。


「Hello! Lost?」


「No, just walking」


「Walking? In this heat? Crazy」


 男性は笑った。豪快な笑い声。


「I'm Manu. Fisherman」


「Temari. Tourist」


「Tourist? We don't get many tourists. Come, have some water」


 マヌは家の中に入り、冷たい水をペットボトルに入れて持ってきた。手毬は一気に飲んだ。


「Thank you」


「You like this place? The mining site?」


「It's... strange. Beautiful and terrible at the same time」


 マヌは頷いた。


「Yes. This island was the richest in the world. Now, we have nothing. But you know what? Nothing is not always bad」


 彼は、採掘跡地を指差した。


「Before, everyone was busy. Making money, buying things. Now, we have time. Time to talk, time to fish, time to be with family. Maybe, nothing is better than too much」


 手毬は、マヌの言葉を反芻した。


 何もないことが、悪いことではない。


 それは、東京にいたら、絶対に考えなかった発想だった。


「You want to see my boat?」


 マヌは、手毬を海岸に連れて行った。小さな漁船が、浜に引き上げられている。


「Every morning, I go fishing. Not for money. Just for food. Enough for my family, and some for neighbors」


 マヌは、船体を撫でた。愛おしそうに。


「This boat, my father gave me. He taught me how to fish, how to read the ocean. That knowledge, no one can take away」


 手毬は、船を見つめた。古びているが、丁寧に手入れされている。ペンキの剥がれ、ロープの結び目、すべてに、歴史が刻まれている。


「Temari, why you come to Nauru?」


 マヌの問いに、手毬は正直に答えた。


「I lost everything. Boyfriend, job. I didn't know where to go. So I came here」


「Ah」


 マヌは頷いた。


「You came to the right place. This island, we know about losing. We lost our land, our wealth, our people. But we're still here」


 彼は、手毬の目を真っ直ぐ見た。


「Losing is not the end. It's just... change. Maybe, you needed to lose, to find something new」


 手毬の目から、涙が溢れた。


 自分でも驚いた。東京で、彼に別れを告げられたときも、会社をクビになったときも、泣かなかった。でも、今、この何もない島で、見知らぬ男性の前で、涙が止まらなかった。


 マヌは何も言わず、ただ、手毬の肩を軽く叩いた。


 その夜、マヌは手毬を夕食に招いた。家族は、妻と、二十代の息子カイ。


 カイは公務員で、政府の観光局で働いているという。痩せ型で、眼鏡をかけている。


「日本から来たんですか? 僕、日本のアニメが好きなんです」


 カイの目が輝いた。


「ナルト、ワンピース、進撃の巨人、エヴァンゲリオン……全部見ました」


 手毬は、久しぶりに笑った。


 夕食は、魚の煮込み、タロイモ、ご飯。シンプルだが、美味しかった。


「手毬さん、ナウルの印象はどうですか?」


 カイが訊いた。


「……不思議な場所です。荒れているのに、穏やかで。何もないのに、豊かな気がします」


 マヌの妻が笑った。


「それは、見る人の心次第よ。同じ風景でも、人によって見えるものが違う」


 食後、カイは手毬を外に連れ出した。


「明日、伝統舞踊のイベントがあるんです。よかったら、見に来ませんか?」


「伝統舞踊?」


「はい。月に一度、地域のグループが集まって、踊りを披露するんです。観光客はほとんど来ませんが、島の文化を知るにはいい機会です」


「ぜひ、行きたいです」


 カイは、嬉しそうに頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る