第3話:日常
世界が、急速にその清冽さを失っていく。かつて私たちが「親友」として分かち合っていた空気は、今や粘りつくような脂粉と、剥き出しの肉欲が混じり合った、澱んだ泥水へと変貌していた。
放課後の音楽室だけでは、もはや足りなかった。ユイの中に芽生えた、あるいは解放されてしまった「愛」という名の怪物は、場所を選ばず、時間を選ばず、私の生存を脅かし始めている。
「リズ、ちょっとこっち来て」
昼休み。教室の喧騒の中、ユイが私の席に歩み寄り、明るい声で私の手首を掴んだ。その瞬間の、私の心臓の跳ね上がりを彼女は知らない。漆黒のポニーテールを高く結い上げ、少しだけ汗ばんだ額を拭いながら笑う彼女は、クラスの誰もが憧れる、太陽のような少女そのものだ。その屈託のない笑顔は、かつて私を孤独から救い出してくれた、あの至宝のような輝きを今も保っている。
けれど、今の私にとってその笑顔は、鋭利な剃刀の刃を隠した薄い紙のようにしか見えない。
「……ユイ、今から図書室に……」
「いいから。ね、いいでしょう?」
ユイの指が、私の手首の骨を、折れんばかりの力で握りしめる。それは拒絶を許さない、純粋で暴力的な「お願い」だった。
私は、彼女の瞳の奥に宿る熱に当てられ、何も言えずに立ち上がる。もし、ここで彼女の手を振り払ってしまったら、私は再び、あの誰にも名前を呼ばれない、影のような人形に戻ってしまう。ユイを失うことは、私の世界そのものが崩壊することを意味していた。だから私は、喉元まで出かかった悲鳴を飲み込み、彼女に引かれるまま、賑やかな教室を後にする。
私たちが辿り着いたのは、旧校舎側の、今は使われていない空き教室だった。重い木の扉を開けると、そこには数年分の沈黙が堆積した、埃っぽい空気が滞留していた。積み上げられた古い机、錆びついたパイプ椅子。窓から差し込む陽光には、無数の塵がダンスを踊るように舞っている。
扉が閉まり、鍵が掛けられる「カチリ」という音が、私の心に冷たい楔を打ち込んだ。
「リズ……会いたかった。授業中も、ずっとリズの後ろ姿を見てたんだよ。紺色の髪が揺れるたびに、触りたくて仕方がなかったの」
ユイが、私の背後から抱きついてくる。ポニーテールの毛先が私の頬を掠め、彼女の体温が制服越しに伝わってくる。彼女の指が、迷いなく私のブラウスの第一ボタンに掛かった。
「ユイ、やめて……ここは、誰か来るかもしれない」
「大丈夫だよ。ここには誰も来ないって、私、知ってるもん。ねえ、リズ……リズ、リズ、リズ……」
彼女は、私の名前を祈りのように唱えながら、強引にボタンを弾き飛ばす。布地が擦れる音。剥き出しになった鎖骨に、彼女の熱い唇が押し付けられる。
「っ……」
胃の底から、酸っぱい粘液がせり上がってくるのを感じた。
汚い。やめて。触らないで。けれど、ユイはそんな私の内面など微塵も気づかない。彼女は、私が震えているのを「恥じらい」や「期待」だと思い込んでいる。私の胸元を曝け出させ、薄い下着の上から、執拗に、貪るようにその指を動かしていく。
「ああ……リズ……きもちいい……リズ、リズ……っ」
彼女の吐息が、耳元で熱く爆ぜる。かつて陸上で鍛え上げたその指は、驚くほど力が強く、逃げることを許さない。ユイは、自分の行為によって私が「救われている」と本気で信じているのだ。自分がこれほどまでに気持ちよく、多幸感に包まれているのだから、愛するリズも同じように満たされているはずだという、無垢な盲信。
彼女が私の首筋に鼻を押し当て、獣のように私の匂いを嗅ぐたびに、私は自分の中にある「ユイという名の聖域」が、一滴の墨汁によって真っ黒に染まっていくのを見ていた。彼女は、私を愛しているのではない。彼女は、私という存在を媒介にして、自分自身の「愛しているという陶酔」を消費しているだけなのだ。
「リズ、声……出して? 聴きたいな、リズの声……」
ユイが、私の下着の中に、汗ばんだ指を滑り込ませた。その瞬間、私は、自分自身の尊厳が、古びた床の埃の中にバラバラに散らばっていく音を聴いた。
◆
空き教室での密会が常態化し始めた頃、ユイの熱情はさらに場所を選ばないものへと変質していった。それは高等部校舎の三階、廊下の突き当たりにある女子トイレだった。
白く無機質なタイルが敷き詰められたそこは、休み時間になれば生徒たちの賑やかな声が反響し、化粧直しをする鏡の前の喧騒で溢れかえる。そんな場所でさえ、ユイにとっては「愛を確かめ合う」ための舞台に過ぎなかった。
「リズ、ちょっとだけ、いい?」
授業の合間の短い休み時間、ユイは私の返事も待たずに手を引き、一番奥の個室へと私を押し込んだ。
狭い空間。陶器の便器と、金属製のサニタリーボックス、そして壁に備え付けられた予備のトイレットペーパー。そこは本来、人間の排泄を司るための不潔な場所でしかない。
ユイは背後で鍵を回すと、瞬時に私を壁際に追い詰め、私の首筋に顔を埋めた。
「ユイ、お願い……誰か来る、やめて……っ」
「大丈夫だよ。声を殺せばいいだけだもん。ねえ、リズ……リズ、リズ、リズ……会いたかった、ずっと会いたかった」
ユイの呼吸は既に熱を帯び、ポニーテールの結び目からこぼれた数筋の髪が、私の鎖骨の上を乱暴に掃いた。彼女は私のブラウスのボタンを、慣れた手つきで次々と弾いていく。冷たいタイルの質感が背中に伝わり、私は身震いした。
その時、個室の外で「ガラッ」とトイレの入り口の扉が開く音がした。
「ねえ、昨日やってたあのドラマ見た?」
「見た見た! 超ヤバかったよね!」
複数の女子生徒たちの声。彼女たちのローファーがタイルを叩く、硬いゴム底の「コツ、コツ」という音が、すぐそこで響いている。私は恐怖で心臓が止まりそうになった。もし、この足元の隙間から二人の足が見えたら。もし、この中で何が行われているか知られたら。
けれど、ユイは微塵も怯まなかった。それどころか、外に「他人」がいるという状況が、彼女の興奮に拍車をかけているようだった。
「リズ……リズ、リズ……きもちいい……っ」
ユイは私の口を掌で塞ぎ、もう片方の手で私の、大きくも小さくもない乳房を乱暴に掴み、揉みしだいた。
指先が皮膚に食い込む。彼女の舌が、私の首筋から鎖骨へと這い回り、そこに何度も吸い付いては、執拗に痕を刻んでいく。
「リズリズリズリズ、リズ……っ、ああ、きもちいい……! リズ、大好きだよ、本当に大好き……っ」
彼女の口腔内から漏れる湿った音。耳元で繰り返される、呪文のような私の名前。ユイは何かに取り憑かれた状態に陥ったかのように、自身の指先と唇を動かし続け、その快楽を享受している。
壁の向こうでは、同級生たちが手を洗う水の音が聞こえる。自動センサーが反応し、水が勢いよく流れる音。
彼女たちは今、何を話しているのだろうか。放課後の予定? 週末の買い物? その「日常」があまりに遠く、眩しい。私はユイの掌の中で、必死に声を押し殺した。涙が溢れ、ユイの指の隙間からこぼれ落ちる。
汚い。この場所も、私に触れるユイも。そして、こんな場所で親友に弄ばれることを許し、声を殺して耐えている自分自身も。ユイの指が、下着の端を強引に引き下げ、私の肌に直接触れた。
その瞬間、私は、自分の中で一番大切に守ってきた「何か」が、最後の一欠片まで粉々に砕け散ったことを知った。かつての、あの陸上競技場で眩しく笑っていたユイは、もうどこにもいない。私の前にいるのは、愛という名の名分を振りかざし、欲望のままに私を貪る、美しき怪物だけだった。
「……リズ……ああ、リズ……っ」
ユイは最後の熱を私の肌に擦り付けると、満足げに深い溜息を吐いた。外の足音は、既に消えていた。静寂が戻った個室の中で、ユイの荒い呼吸だけが響いている。 彼女は、自分がどれほど酷いことをしているのか、今も全く気づいていない。それどころか、泣き濡れた私の顔を見て、愛おしそうに目を細め、私の濡れた睫毛を指でなぞるのだ。
「リズ、そんなに感じてくれたの? ……やっぱり、リズも私を求めてくれてたんだね。嬉しい」
その無垢な言葉が、何よりも鋭利な刃となって私の心を切り刻んだ。
◆
ユイは、手際よく自分の乱れた制服を整えた。狭い個室の中で、彼女のポニーテールが軽やかに揺れる。つい数秒前まで、私の肌に執拗に吸い付き、呪文のように私の名前を呼びながら、獣のような熱を帯びていた少女と同一人物だとは信じられないほど、その動作は日常的で、清々しいほどに迷いがなかった。
彼女は、壁に備え付けられた鏡のようなステンレス製のトイレットペーパーホルダーの蓋を利用して、自分の表情を確認する。指先で少しだけ髪を整え、上気した頬を自ら両手で包んで、「あ、ちょっと赤いかな」と、放課後の部活でいい汗をかいた後の中学生のような、無邪気な声で独り言を漏らした。
「リズ、大丈夫? ちょっと急いじゃったかな。でも、リズがすごく熱かったから、私、我慢できなかったんだよ。……また、放課後ね。大好きだよ、リズ」
ユイはそう言うと、私の頬に最後の一口――今度は慈しむような、純粋な親愛を感じさせるキスを落とし、個室の鍵を外した。
扉が開く。女子トイレの入り口の扉を抜けて、彼女が廊下へと走り去っていくローファーの足音が、軽快なリズムで遠ざかっていく。
……一人になった。 狭い個室に、取り残された。
個室の空気は、ユイの体温と、彼女が愛用している石鹸の香り、そして私から奪い取った剥き出しの脂汗の匂いが混じり合い、濃密に澱んでいた。
私は、崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。タイルの床は、掃除用洗剤の塩素の匂いが微かに漂い、冬の終わりの冷気を吸い込んで、膝をついた私を無慈悲に冷やした。見上げれば、頭上には学校指定の、無機質なトイレットペーパーが、安っぽい芯に巻かれて無表情に鎮座している。
私は震える指で、自分のブラウスのボタンを留めようとした。けれど、指先の震えが止まらない。ユイに千切られそうになったボタンの糸が、一本だけ頼りなく空中に漂っている。
汚い。何よりも、自分が汚い。
ユイの唇が触れた場所。彼女の指が這い回った場所。そこが、まるで泥を塗られたかのように、じっとりと熱を持っている。その熱は、快楽などではない。私の脳が、私の細胞が、全霊を挙げて「拒絶」を叫んでいる証明だった。
ユイは私を愛している。そのことに嘘はないのだろう。彼女の瞳は、いつだって一点の曇りもなく私を見つめ、私のために笑い、私のために涙を流してくれる。かつて私を孤独の深淵から引きずり出してくれた、あの眩しい英雄の面影を、彼女は今も失っていない。
けれど、その愛は、もう私を救うものではなくなっていた。それは、私を窒息させるための、美しいシルクの真綿。彼女が「幸せ」という名分を盾に、私に強いているこの行為は、リズという人格を、リズという尊厳を、一刻一刻と削り取っていくための「愛の暴力」だった。
どうして、拒めないのだろう。どうして、その腕を振り払って、「嫌だ」と叫べないのだろう。
答えは、暗い闇の底で、醜くのたくっている。
――私は、一人になるのが怖いのだ。
ユイを失えば、私は再び、あの広い屋敷の沈黙の中に放り込まれる。両親の期待という名の人形として、誰の心にも触れることなく、ただ「存在しているだけ」の不在に戻ってしまう。
ユイだけが、私を「リズ」と呼んでくれた。ユイだけが、私のピアノを、私の魂を、必要だと言ってくれた。例えその「必要」が、今や歪んだ肉欲の器としての意味に変質してしまったとしても。
「……っ……ぁ……」
不意に、胃の底から熱い塊がせり上がってきた。それは、心の内側に溜まった汚濁が、もはや器を溢れて溢れ出したかのようだった。
私は、慌てて便器の蓋を跳ね上げた。純白の陶器が、私の絶望を待ち構えるように冷たく光っている。
「……ぅ、ぁ……!!」
激しい嘔吐が、私を襲った。胃の中は空っぽだった。昼食を摂る余裕など、ここ数日の私にはなかったから。それでも、身体は何かを必死に排泄しようとして、何度も、何度も、激しく収縮を繰り返す。
喉を焼くような酸っぱい胃液が、陶器の底へと叩きつけられる。涙が溢れ、鼻水が垂れ、端正だったはずの顔は、見る影もなく崩れた。
吐いても、吐いても、終わらない。私の肌に刻まれたユイの痕跡。耳元にこびりついた「リズ、リズ、リズ、リズ」という、執着の囁き。それらが、体内の血管を通り、細胞の一つ一つにまで染み込んで、私の内側から私を腐らせていくような感覚。
私は便器の縁を、爪が剥がれんばかりの力で握りしめた。かつてピアノを弾くために、宝物のように扱ってきたこの指先が、今は、自分の中の汚物を吐き出すための支えになっている。
ああ……。砕けてしまった。
あの、美しかった頃のユイは、もうどこにもいない。あの時、競技場で倒れた彼女を、私が「一生支える」と言ったから。あの聖なる誓いが、皮肉にも、彼女を怪物に変え、私をその餌食に変えてしまったのだ。
「……ぅ、ぐ……っ……」
ようやく嘔吐が収まり、私は力なくタイルに膝を突いたまま、荒い息を吐いた。 トイレの自動センサーが、私の動きに反応して、勢いよく水を流す。轟音が、私の啜り泣きさえも無慈悲に消し去っていく。
私は、立ち上がらなければならない。顔を洗い、髪を整え、何事もなかったかのように、あの騒がしい教室へと戻らなければならない。そこには、笑顔のユイが待っている。「リズ、お疲れ様」と、さっきの行為のことなど、部活の合間の休憩程度にしか思っていないような、明るい声で私を呼ぶ彼女が。
私は、震える足で立ち上がり、個室のドアを開けた。洗面台の鏡に映った自分の顔は、死人のように青白く、けれどその首筋には、ユイが刻んだ鮮烈な「愛の痕」が、悍ましいほど赤く浮かび上がっていた。
紺色の髪を無理やり引き寄せ、それを隠すように整える。私は、自分がいつか、本物の廃人になってしまうのではないかという恐怖に震えながら、一歩、また一歩と、ユイの待つ「日常」という名の地獄へと歩き出した。
トイレの出口の扉が閉まる。廊下には、また別の生徒たちの、楽しげなローファーの音が響き渡っていた。
次の更新予定
群青【女性向け百合小説 / オムニバス形式】 駄駄駄 @dadada_dayo
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