第2話:ユイ

 自分の心臓の音が、こんなにも甘く、心地よく響くものだとは知らなかった。ドクン、ドクンと、一定の、けれど確かな昂揚を伴った拍動が、ポニーテールに結い上げた髪の付け根あたりまで伝わってくる。


 放課後の第二音楽室。沈みゆく夕日が、古い木製の床を琥珀色に染め、宙に舞う埃すらも、リズを祝福する金粉のように見えた。私は、自分の乱れた制服を整えるのも後回しにして、隣でぐったりとピアノの椅子に沈み込んでいるリズの肩に、そっと自分の頭を預けた。


 深い紺色の、重たく、けれど絹のように滑らかな彼女の髪が、私の頬に触れる。その髪からは、私が贈ったバニラのミストと、彼女自身の清廉な体温が混じり合った、世界で一番愛おしい匂いがした。


「リズ……今日も、可愛かったよ」


 私は、一点の曇りもない声を漏らした。リズの体は、まだ小さく震えている。呼吸は浅く、視線は宙を彷徨っているけれど、私にはそれが「私によって与えられた快楽の余韻」にしか見えなかった。


 私がこれほどまでに気持ちよく、胸が張り裂けそうなほどの幸福に包まれているのだ。私よりもずっと繊細で、美しい心を持つリズが、私と同じ……いえ、それ以上の喜びを感じていないはずがない。


 リズが時折漏らす、泣き出しそうな、今にも消えてしまいそうな掠れた声。それを聴くたびに、私は自分の指先を通じて、彼女の魂と一つに溶け合っていくような全能感に満たされる。


 性愛こそが、人間が到達できる最も尊い愛情表現なのだと、今の私なら確信を持って言える。私たちがこうして肌を重ね、熱を分かち合う時間は、かつて私たちが「親友」として笑い合っていた日々よりも、ずっと高潔で、不可侵な儀式なのだ。


 私は、リズの震える指先をそっと取り、自分の掌で包み込んだ。


 冷たい。この冷たさを、私の熱で一生温め続けてあげたい。


 リズは私の「神様」だ。その信仰は、あの埃っぽい図書室で彼女を見つけた瞬間から、一分一秒たりとも揺らいだことはない。


 小学校二年生のあの日。窓際で一人、重たい紺色の髪に顔を隠すようにして本を読んでいた彼女を見た時、私は全身に電流が走るような衝撃を受けた。周囲の喧騒から切り離された、絶対的な静寂。彼女の周りだけ、空気の密度が違うように感じられた。


 私は、自分が太陽だと言われることが多かったけれど、その実、本物の「光」が何たるかを知らなかったのだ。彼女こそが光だった。誰にも見つからないように、ひっそりと闇の底で輝いている、純潔のダイヤモンド。


「ねえ! あなた、リズっていうんでしょ?」


 無意識に、私は彼女の手を掴んでいた。彼女を独り占めしたい。この美しい沈黙を、私だけのものにしたい。そんな子供じみた、けれど根源的な独占欲が、私のポニーテールを跳ねさせ、彼女を外の世界へと連れ出させた。


 私が誘って始めたピアノ。リズが初めて鍵盤に触れた時のことを、今でも鮮明に覚えている。彼女の細い指が、恐る恐る白鍵を叩いた瞬間。音楽室の空気が、一瞬で色づいた。


 リズの才能は、私が想像していたものを遥かに凌駕していた。彼女は、教えられたことを吸収するのではない。まるであらかじめ自分の中にあった「天上の旋律」を、確認作業のように指先から溢れ出させているようだった。


 一ヶ月後には私の練習量を追い越し、半年後には、教師すらも口を挟めないほどの聖域へと彼女は登り詰めていった。普通なら、ここで嫉妬をするのかもしれない。


 けれど、私は違った。隣で彼女の演奏を聴いているだけで、脳が痺れるような快感に襲われた。


 凄い。凄すぎる。私のリズが、私の見つけた女の子が、世界をその指先一つでひれ伏させている。その事実が、たまらなく誇らしく、そして「気持ちよかった」。


 彼女が天才であればあるほど、その隣にいる私の価値も、特別なものになっていくような気がしていた。けれど、中等部に上がり、リズが「青い氷の君」として神格化されていくにつれ、私は無意識のうちに、ある恐怖を抱くようになった。


 ——このままでは、私はリズの「視界」から消えてしまう。リズは、常に私のことを「特別な親友」として扱ってくれていた。他の誰かが彼女に話しかけても、彼女は薄氷のような微笑みを返すだけで、決して心の内を見せようとはしない。私にだけは、練習に疲れた横顔や、時折見せる年相応の弱音をさらけ出してくれた。


 けれど、私は知らなかった。リズが、私の周囲にいる「その他大勢の友人」の一人に自分が成り下がることを、死ぬほど恐れていたなんて。私にとって、リズ以外の人間は、リズという神に仕える私を彩るための、ただの背景に過ぎなかったというのに。


 クラスの女の子たちと笑い合いながら、私の頭の中は常にリズでいっぱいだった。


「ユイ、この紅茶おいしいね!」


「……うん、そうだね(リズなら、この香りは少し強すぎるって眉を寄せるかな)」


「今度の休み、みんなで買い物に行かない?」


「いいね。(リズは人混みが嫌いだから、私は断って彼女の部屋にピアノを聴きに行こう)」


 一分一秒、呼吸をするようにリズのことを考えていた。彼女ならどう笑うか。彼女なら何を選ぶか。私の世界は、リズという一点を軸にして回転していた。


 そんな中、私はピアノを辞め、陸上部に入った。リズは驚いていたけれど、私は確信していた。リズと同じ土俵で競っても、私は彼女の「観客」くらいにしかなれない。けれど、私が陸上という別の分野で、彼女と同じくらいの「高さ」に辿り着くことができれば。そうすれば、私は「天才・リズ」の隣に立つ資格を得た、『対等な親友同士』になれるかもしれない。


 それが、私の地獄の始まりだった。リズが見ていたのは、常にグラウンドで爽やかに笑い、軽やかに風を切る私の姿。けれど、その裏側で私がどれほど泥を舐めるような思いをしていたか、彼女は知らない。


 リズも私の努力を認めてくれていたけれど、本当の私は、彼女が想像している五倍、いいえ、十倍は自分を追い込んでいた。


 早朝。誰もいないグラウンドで、肺が焼けるような痛みに耐えながら走り込む。


 放課後。リズのピアノが聞こえてくる音楽室の窓を遠くに眺めながら、足の爪が剥がれ、ソックスが血で赤く染まるまでスタートダッシュを繰り返す。


 凡人の私が、天才であるリズと並び立つためには、これくらいの代償は当然だと思っていた。痛覚なんて、とっくに麻痺していた。走れば走るほど、リズに近づける。その確信だけが、私を突き動かしていた。


 中学二年生の、あの県大会の日。私はスタートラインに立ち、観客席の最前列で私を見つめるリズと視線を交わした。


(見てて、リズ。今、あなたの隣に行くから)


 号砲とともに、私は弾かれた。今までで一番の加速。風が、私の髪を激しく揺らす。


 視界が開け、ゴールテープが目前に迫った、その瞬間——。私の世界は、無残な音を立てて砕け散った。


 ――メキッ、という嫌な音が、脳髄に直接響いた。視界が不自然に傾ぎ、今まで私を前方へと力強く押し出していた右脚が、突然、何の意味も持たない肉の塊へと成り果てた。


 爆発的な衝撃が走り、私は無様にトラックへ叩きつけられた。焼けるような摩擦熱と、土の匂い。視界の端で、誰かの脚が次々と私を追い抜いていく。


「あ……っ、あああああぁぁぁぁ!!」


 悲鳴を上げたのは、痛みからではなかった。壊れてしまった。終わってしまった。


 リズ。リズ、リズ、リズ。私の頭の中にあるのは、ただそれだけだった。


 この日のために、私がどれだけの爪を剥がし、どれだけの血をソックスに滲ませてきたか。リズが見ていたそれ以上の時間を、私はあのグラウンドに捧げてきたのだ。すべては、ピアノという聖域に住まう彼女の、隣に立つ資格を得るためだけに。


 凡人の私に許された唯一の道。血の滲むような反復練習という名の泥を這いずり、ようやくリズと同じ高さの空を飛べると思った、その瞬間の墜落だった。


「……やっと、『対等な親友』になれると思ったのに」


 病院の白いベッドの上で目覚めたとき、私の世界からは一切の色彩が失われていた。右膝を固定する重々しい装具。医者の言葉は、まるでどこか遠い国の言語のように現実味がなかった。


「日常生活には支障はありませんが……競技に戻るのは、まず無理でしょう」


 死刑宣告の方が、まだ慈悲深かった。私から「脚」を奪うことは、リズへの唯一の連絡通路を断つことと同義だったから。見舞いに来る友人たちは、口々に「残念だったね」「また別の楽しみを見つけようよ」と、耳障りな同情を置いていった。


 あんなに私を慕っていた友人たち。けれど彼女たちは、私の内面など見てはいなかったのだ。彼女たちが愛していたのは、「スポーツ万能で、太陽のように快活なユイ」というアイコンに過ぎない。


 走れなくなり、笑わなくなった私は、彼女たちにとって価値のない、ただの傷ついた凡人だった。


 そんな絶望の極致に、彼女が現れた。病室の重い扉が開き、深い紺色の長髪を揺らして、リズが私の前に立った。彼女の瞳には、私のすべてを肯定し、共有しようとする、あまりに純粋で美しい「悲しみ」が宿っていた。


「もう……走れない。リズ、私の人生、ここで終わりみたい」


 私は、私の嘘偽りのない感情をリズにぶつけた。リズと対等な親友でありたいと願って行った、あの血の滲むような日々は無駄だったのだ。もう生きている理由も見出せなかった。


「ユイ……」


 リズが、私の震える手を両手で包み込んだ。


「そんなこと言わないで、ユイ。陸上がなくても、私はここにいる。あなたが私の孤独を救ってくれたように、今度は私が、あなたの足になる。一生、あなたの隣で、あなたを支え続けるから。だから、一人だなんて思わないで」


 その言葉を聴いた瞬間、私の心の中で、何かが恐ろしい音を立てて決壊した。神様は、私を見捨ててはいなかった。陸上という凡人の努力を奪う代わりに、リズという「神の人生」そのものを私に差し出してくれたのだ。


 ――リズが、一生、私の隣にいてくれる?


 ――私が走れなくなったから、リズは私のものになってくれるの?


 それは、究極の救済だった。リズは、私に『一生』という呪いを、自分からかけてくれたのだ。その瞬間、私の中で『友情』という名の生ぬるい堤防は跡形もなく消え去った。『対等な親友』よりもさらに深い関係へと進めるのだと、私の心は踊った。


 今まで、リズが天才として輝く姿を見て、「凄すぎて嫉妬なんて感情が吹き飛ぶくらいに気持ちがいい」と感じていた陶酔。友人たちと笑いながらも、一分一秒、リズのことだけを考え続けていた無意識の執着。それらがすべて、どろどろとした熱量を持って一つの出口へと向かい始めた。


 私は、リズを抱きしめたかった。彼女を犯したかった。彼女の清廉な魂と肉体を、私の歪んだ情欲で塗り潰し、私なしでは生きていけない体に作り替えたかった。それが、私にすべてを捧げると言ってくれた彼女への、最高の恩返しだと思った。


 私は、自分が気持ちいいことは、リズも気持ちいいのだと信じていた。


 退院して学園に戻ってから、私はリズへの接触を「解禁」した。音楽室で二人きりになったとき、彼女の震える指先を握り、首筋に顔を埋める。


 リズは驚き、戸惑い、泣きそうな声を出すけれど、私にはそれが「私を求めている声」にしか聞こえなかった。


「ねえ、リズ。こんなに熱くなってるよ……。嬉しいんでしょ? 私が、こうしてリズに触れるの」


 リズの鳴いたような、掠れた悲鳴に近い喘ぎ声。それを聴くたびに、私の脳内には至上の多幸感が溢れ出す。


 ほら、リズも喜んでる。私の指が、彼女の胸の中の秘められた場所を探り、熱を暴き出すたびに、彼女の体はビクンと跳ねて、私の名前を呼ぼうとする。その姿は、かつての「青い氷の君」の気高さからは程遠い、ただの「私の女の子」の姿だった。


 それがたまらなく愛おしくて、誇らしくて、私はもっと彼女を「幸せ」にしてあげたいと思うのだ。自分を救ってくれた神様を、ベッドの上で一匹の獣に変える。それこそが、この閉鎖的な監獄で、私たちが永遠に結ばれるための、唯一の、そして至高の儀式なのだから。


 学園の教室は、いつも騒がしい。休み時間になれば、私の座る机の周りには自然と人が集まってくる。


「ユイ、今度の土曜日、駅前に新しくできたカフェ行かない?」


「あ、いいね。行こ行こ!(……リズ、あそこのベリーのタルト、きっと好きだろうな。今度こっそり買ってきてあげよう)」


 リズ以外の女の子たちが、嬉しそうに頬を染める。彼女たちは、私の外見や、怪我を乗り越えて明るく振る舞う「強さ」に惹かれているのだろう。けれど、私にとって彼女たちの存在は、窓辺に飾られた造花と大差なかった。視界には入るが、心には届かない。


 私の意識のすべては、常に、教室の隅で一人、紺色の長い髪を揺らして本を読んでいるリズだけに注がれていた。


(ねえ、リズ。こっちを見て)


 心の中で、何度も彼女の名前を呼ぶ。リズは時折、不安げにこちらを盗み見ては、私と女の子たちの距離を見て、すぐに視線を伏せてしまう。


(ああ、もう。リズってば、本当に可愛いんだから)


 その怯えたような仕草が、たまらなく愛おしい。


 昔からそうだった。私が他の子と楽しそうに話していると、彼女の周りの空気は、目に見えて冷たく、寂しげに凍りつくのだ。本当は、そんな必要なんてまったくないのに。私の世界には、リズしかいない。他の友人と話すのは、ただの処世術だ。リズという唯一無二の神様を飾るための、賑やかな背景。その背景を完璧に演じることで、私はリズという聖域を誰にも邪魔されずに守り続けてきた。


 私の孤独を埋められるのは、世界でリズ一人だけ。あの病室で、リズが「私があなたの足になる」と言ってくれたあの日。私は彼女の「足」を奪う代わりに、彼女の「全人生」を貰い受けたのだ。


 放課後のチャイムが、地獄の、あるいは福音の合図のように響き渡る。友人たちの誘いを丁寧に断り、私はいつものように第二音楽室へと向かった。重厚な扉を開ければ、そこには私を待つ、私のリズがいる。


 西日に照らされた彼女の肌に触れる。私の指が彼女のブラウスのボタンを解くたび、リズはひどく震え、今にも吐き出しそうなほど苦しげな吐息を漏らす。


 ああ、なんて純粋な愛なのだろう。私は、彼女の首筋に顔を埋め、陶酔とともに確信する。これほどまでに激しく震えるのは、彼女が私を求めすぎて、その感情の大きさに体が耐えきれていないからだ。彼女が漏らす「やめて」という微かな掠れ声も、私には「もっと壊して」という愛の裏返しにしか聞こえない。


 私が気持ちいいのだから、リズも気持ちいいはずだ。私がこれほどまでに彼女を愛し、大切に扱い、熱を注いでいるのだから、彼女が不幸であるはずがない。


「リズ……大丈夫だよ。私が全部、受け止めてあげるから」


 私の指が、彼女の繊細な双丘に触れる。リズが声を上げて泣き出し、私の肩を力なく叩く。その痛みすら、私にとっては至上の愛の感触だった。


(ほら、リズ。またこんなに鳴いて。やっぱり、私のことが大好きなんだね)


 私は、彼女の紺色の髪に何度も指を絡め、自分の欲望を彼女の中に刻み込んでいく。かつての英雄としての誇りも、陸上で積み上げた努力も、もういらない。今の私を突き動かしているのは、リズを「幸せ」にするという、暴力的なまでの善意だけだった。


 窓の外、学園の時計塔が長い影を落とし、夜が忍び寄る。私は、汗ばんだリズを抱き寄せ、彼女の耳元で甘く囁いた。


「来週も、またここでしようね。……愛してるよ、リズ」


 リズの瞳からこぼれ落ちた一筋の涙を、私は「歓喜の雫」だと信じて、愛おしそうに舌で掬い取った。太陽は、いつだって正しい。例えその熱が、愛するものを焼き尽くしてしまったとしても。

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