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残っていたジンジャーエールをことさらゆっくり飲み干して、ひとりで喫茶店を出る。
十六時の空はまだうっすらと明るかったので、私は自宅のアパートへ向かう前に駅前まで戻り、いつもノートを買う文具店で万年筆用のインクを買った。色は既に入れられているものと同じ、ブルーブラックを。
店の人に尋ねたところ、今のインクを使い切り、万年筆をよく洗ってから新しいインクを入れたほうがいいらしい。
その文具店に、カナリが私にくれた万年筆と同じものがあった。〈ほんとうの入門用 ~はじめての万年筆~〉というキャッチコピーがつけられ売られている。あまり品の良い行為ではないと知りつつ薄目で値段を確かめると、どうやら三千円と少しで買えるものであるようだ。
ハードカバーのやや分厚いノート一冊分くらいだと思い至り、知らず入っていた肩の力が抜けた。友人への突然の贈り物としては、少し高価ではあるものの、ありえない金額でもない。
日の暮れ始めた頃に帰宅し、白紙のノートをたっぷり抱えた本棚の前に立つ。少し迷って、クリーム色の表紙に一羽の黒い鳥が飛ぶ、なんでもない大学ノートを抜き取った。
交換日記なのだから、カナリが書く番になったら、彼がこのノートを持ち運ぶのだろう。そう思ったとき、このなんでもないノートはカナリの持ち物によく馴染むような気がした。それこそ、彼から貰い受けた黒い万年筆のように。
ワンルームの中央に据えた座卓の前に座り、ノートを開く。
少し太めの罫線に沿って日付を入れ、続けて〈カナリから万年筆をもらう。〉と書いた。交換日記を始めたことや今日読ませてもらった物語のことも書ける気がしたが、やめておいた。一番最初に記そうと思ったこと、それだけを書いていくほうが長続きしそうだと感じたからだ。
その判断は、正しかった。
××.××.××
卵をふたつ焼いた。
××.××.××
折りたたみ傘の袋をなくす。
××.××.××
雨、半袖はまだ寒い。
こんな調子で書いていたら、毎日欠かさずとはいかないまでも、一ヶ月のほとんどの日に何かしらを書き残すことができたのだ。ずらりと並んだ文字たちを見ていると、否応なく達成感が湧いてくる。
私にも、書くことができる。
この部屋に死蔵されている、たくさんのまっさらなノートたちに生を与えることができる。
ノートに綴られた、すでに乾ききった文字たちを指でなぞった。慣れない万年筆でうっかり滲ませてしまった「た」や「や」のなかの十字路や、なめらかに曲がり切れなかった「よ」や「ま」のぎこちないカーブを。
しんとしたひとりの部屋に、指が紙をなぞる音だけが響く。
インクの濃いところと淡いところの隙間から、静かな感動が染み出してくるようだった。
*
次にカナリと喫茶店で落ち合ったとき、梅雨はすっかり明けていた。
例年よりも早くに始まった、茹だるような夏の日。いつもの喫茶店のいつものボックス席で、私はカナリの物語が書かれたオレンジのノートを受け取り、うきうきとした心地で交換日記を差し出した。
カナリは受け取った私の一か月をぱらりと見て、「こういうのは期待するなよ」と鞄に仕舞う。なんだか拍子抜けしてしまって、私はジンジャーエールを一口飲んでから言った。
「読まないのか?」
「読まない。日記を本人の前で読むなんて無粋なことはしない」
カナリは「だからお前も、俺の日記は俺のいないところで読めよ」と言って、いつもの通り持参した本を開いた。
その言葉に納得し、私も彼の物語を読み始める。
その森の奥。最も濃密な緑に抱かれた場所。そこに湧く泉は――
*
その次の月。いよいよ夏の盛りのこと。
カナリと喫茶店で落ち合い、いつもの土曜日を過ごし、ひと月前の彼に倣って自宅に帰ってから開いた日記は、確かにこういうのではなかった。
その日はトノサキという男と待ち合わせをしていた。決して約束の時間を違えない男との待ち合わせは気が楽だ。男を待つ間、注文していたツナと卵のサンドイッチをほおばる。いつもより卵の黄身が固く茹でられていたような気がして――
数行読んで気がついた。カナリの日記は、彼自身を主人公にした物語の形を取っている。
(こんなところも物語なのか)
架空のことを綴っているときと比べれば詩的な表現は控えめになっているけれど、淡々とした中に時折はさまるシニカルな表現や、どこまでも素直で冷静な毎日の切り取り方は、読めば読むほど彼の普段の筆を思わせる。カナリの目から見た私の姿を知れるのは、なんとも言えず
そして、気づく。
これも物語であるのなら、私も今なら、物語を書けるのではないか?
すぐさま真似をするなんてとカナリは笑うかもしれないが、私は初心者なのだ。もし揶揄われたら、「魅力的なものを手本にして何が悪い」と言い返してしまおう。カナリの困り顔を思い浮かべながら、万年筆のキャップを外した。
私も自分自身を主人公にし、日常を物語のように切り取るのだ。
もちろん、最初からカナリのようにとはいかなかった。
いざ書き始めてはみたものの、生み出されるのは単調な短い文ばかり。あったことと思ったことが平坦に並べられ、ときおり衝突してどちらがどちらかわからなくなり、さっきは転んでいた私がこちらでは転ばされ、事態は事実を越えて複雑化する。かと思えば、事実を述べているだけの無彩色な物語もどきが虚しいほどに延々と続いてゆく。
虚しいけれど、楽しくもあった。
書けば書くほど、カナリがなんでもないような顔で成し遂げていた「想像を文字に起こす」という作業が、いかに複雑で難解な仕事であるかがわかっていくのだ。
そうやって書きあげた一か月分の日記をカナリに渡したのが、残暑の頃。
いつものように別れ、休日の夕刻を無為かつ優雅に過ごして迎えた夜、寝床に入り、カナリのことを考える。昼間のカナリは私の日記の中身をひと目たりとも確認せず、鞄に仕舞っていた。
喫茶店で別れて数時間が経つ。カナリは私の書いたものを読み終えただろうか。あれを読んで、彼はどんな感想を抱くのだろう。
そんなことを考えながら、眠りについて――
その夜、カナリの夢を見た。
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続きは同人誌版にてお楽しみください。
物語のための庭 やまおり亭 @yamaoritei
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