カナリとの出会い
1-1
――またやってしまった。
ある春の
店内は静かだ。日本語でも英語でもなさそうな言語で歌われる音楽が薄く流れていく。
私の収まっているカウンター席を中心にぽつりぽつりと客はいるけれど、皆それぞれが自分の時間に集中している。仕事帰りのむくつけき男が堂々と苦悶の表情を浮かべていても、気にするものは誰もいない。
この店の、こういうところが好きだった。
例えば、仕事で数字に浮かされ回転しすぎる脳内を落ち着かせるとき。
例えば、雨の中、家路をたどることに疲れてしまったとき。
そして例えば今夜のごとく、どうしようもない悪癖を抑えきれなかったときに。
私のこれを悪癖と呼ぶのは、実のところ少し抵抗がある。なぜならこの行為そのものには、「悪」と呼ばれるべき後ろ暗いところなど、何ひとつありはしないからだ。
私の悪癖――いや趣味は、ノートを買うことだ。
通常の文具店で手に入るものはもちろん、仕事鞄に入らないくらい大きなもの、シャツの胸ポケットにすっぽり入ってしまうくらい小さなもの、薄いもの、厚いもの、国内で作られたもの、海の向こうからやってきたもの、有名な会社が作っているものから、個人が製本し販売しているものまで。
ノートを買うときはいつも胸が躍る。自分の内側に、なんだって納められるまっさらな棚が据えられたような心地になるのだ。〈何でも納められる空白〉に安心する
さて問題は、まっさらな棚であるところのノートを手に入れたとて、私にはそれを使うあてがないことだ。
仕事でメモを取るとなれば、社から支給されたデスクトップパソコンに打ち込むか、取引先からもらった粗品のふせんを使う。プライベートでメモを取る必要に駆られるのは週末に買い物リストを作るときくらいのもので、それも携帯端末のメモアプリに入力してしまえば事足りる。外出の予定管理だって携帯端末頼りだ。そもそも私の出かける予定など、仕事帰りにこの喫茶店に寄る以外は、たまの里帰りか休日の気ままな散歩程度のものだけれど――
ともあれ、そういうわけで。
ろくに使い道もないのにノートを買うこと。これが私の趣味であり、悪癖だ。
白紙のノートがぎっしりとつまった本棚を見ては、「もうこんなことはやめよう」と固く心に誓うのだが、どうしてもやめられず今に至る。
今日も新しいものを買ってしまった。仕事を終え、電車に乗って自宅の最寄り駅で降りたところまではよかった。その後、夜の九時まで開いている駅前の文具店にふらりと立ち寄ったのも、まあ悪い事ではなかっただろう。そこでノートを買いさえしなければ。
鞄から文具店の紙袋を取り出し、その中身を手に取る。買ったのはB6サイズのノートだ。国内の有名メーカーが作っているこれは、なんと二〇〇ページもある。小学生の時分によく使っていた学習帳が三〇ページほどであることを考えると、やはりなかなかの厚さだ。このがっしりと、重みのある佇まいが好ましかった。表紙の濃いオレンジ色も目を惹いた。ほれぼれするほど鮮やかな表紙と、その背表紙をくるむ上品な黒のクロスを眺めていると、からりと涼やかな音が耳を打つ。
顔を上げれば、卓上にジンジャーエールで満たされたグラスが置かれていた。私が注文していたものだ。
誰かが背後に立った気配もなければ、カウンターの向こうから誰かが手を伸ばした様子もなかった。店のマスターは素知らぬ顔でグラスを拭いている。
このカフェではいつもそうだ。マスターである彼がカウンターの外に出てきたところを見たことがない。けれど注文は、いつも滞りなくサーブされる。マスター曰く、ホール担当がかなりの恥ずかしがり屋なのだという。疑問は尽きないが、「彼の静謐な働きぶりに免じて、『お待たせしました』のひと言がないのは許してやってください」とマスターに微笑まれてから、私はそのことに言及するのをやめた。
買ったばかりのノートを卓上に置き、グラスに刺さっていた赤いストローでジンジャーエールを味わう。春の夜には冷たすぎるくらいよく冷えていた。
せっかくの喫茶店なのだからコーヒーを頼むほうが格好がつくのかもしれないけれど、私はどうにもコーヒーと相性が悪い。カフェインが効きすぎてしまい、一口飲めば一晩中、眠れなくなってしまうのだ。
コーヒーの香りで満たされたこの喫茶店で、私の意識は常に冴え渡っている。その反動か、この喫茶店を出ると、私はいつも眠気に襲われた。プールで数時間泳いだ後のような、心地よい眠気にだ。
ふと、ひとつ隣から「からり」と氷の揺れる音がする。私の右側に座る誰かに、飲み物がサーブされたようだ。
ややあって、同じく横から紙の擦れる音がした。次いで、軽いものが紙を引っ掻く音が。
音につられてそちらを見れば、ひとつの空席を挟んでもうひとつ隣、そこに座る男が手を動かしていた。私と彼を隔てるアイスコーヒーに目もくれず、備え付けのペーパーナプキンに何事か書きつけている。先の紙を引っ掻く音は男の操る簡素なボールペンの先から発生していて、今もなお生まれ続けていた。
あんな頼りないペーパーナプキンに、ああも絶え間なく……
(何を書いているのだろう)
男の手元にこっそりと目を凝らす。日本語ではあるようだが、文字が細かすぎて内容まではわからない。わかったことといえば、そのペンを操る手は私よりずっと白く、細く、硬質な張りがあるということだけだ。高校生、そのくらいだろうか――重くて黒い前髪が、文字を書くため
不躾な視線を注がれているにもかかわらず、男がペンを止める気配はなかった。ほよど他者に興味がないのか、集中しているのか。
(いったい何を?)
私が小さく身を乗り出したのと、何も考えず重心を移動したせいでずるりと滑った肘の先が、アイスコーヒーのグラスを押し倒したのは同時だった。
「……あ」
無感動な声を上げた男が、顔を上げる。
鳶色の瞳と目が合った。
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