1-2
「本当に申し訳ない」
「いや……」
遠慮する男をなかば押し切る形で、新しいアイスコーヒーを注文した。もちろんお代は私持ちだ。
私のこぼしたアイスコーヒーは、男の服をこそ汚しはしなかったけれど、彼が文字を書き留めていたペーパーナプキンをすっかりだめにしてしまった。もはや白いところを探すほうが難しいほどで、何が書かれていたとて、こうなってしまえば捨てるしかないだろう。
男もそう考えたようだ。コーヒーを吸ってはかなく透けた薄紙は、無造作に丸められ脇に寄せられていた。
いったい何が書かれていたのか――この後に及んでなお湧き上がる好奇心を抑え、当たり障りのない話題を持ち出す。
「この店には、よくいらっしゃるんですか」
「いえ……まあ」
言葉を濁した男が、ちらりとマスターを見遣った。
新しいアイスコーヒーが到着するまでの、気まずい間。自分の飲み物に手をつけるのも
「……俺は、この近くにある大学に通っていて」
出方の探り合いに耐えられなくなったのか、今度は男のほうから話し始めた。
「大学――そうだったんですね」
「ええ。この春で三年になります」
「ということは、二十歳過ぎ……?」
思いのほか歳が近かったことに驚く。男は薄く微笑んで言った。
「とてもそうは見えない?」
「もう少し、お若いのかなとは思っていました」
「そうですか――」
男の唇が不満そうに引き結ばれ、慌てて付け加える。
「あ、すみません。別に深い意味はなくて」
「構わない。よく言われます」
鷹揚な物言いに反して、その視線はすねたように逸らされている。取り繕いきれていない素直な反応を微笑ましく思っていると、「笑うな」と睨まれた。
思わず自分の頬に手を遣る。
「えっ、笑ってた?」
「……もういい」
呆れの乗ったため息と共に、男のよそよそしさが剥がれ落ちた。
またもやいつの間にかサーブされていたアイスコーヒーを啜って、男はカウンターに片肘をつく。
「お前、どうしてグラスを倒したんだ? 肘が滑ったとはいえ、よほどこっちににじり寄って来ないと、ああはならんだろ」
「それは――あなたがあんまり懸命に手を動かしているから、何を書いているか気になって」
「この出歯亀」
「返す言葉もない」
もう一度頭を下げ、私もようやく自分のグラスに手をつけた。
少し常温に近づいたジンジャーエールで喉をうるおし、一息つくと、さっきまで大人しくしていた好奇心がむくむくと膨れ上がる。
男の飾らぬ振る舞いに、私の心持ちもいくぶんか気安いものになっていた。
「何を書いていたか聞いても?」
と尋ねると、男の視線がカウンターに落ちる。濡れて縮んだペーパーナプキンを指先でつつき、彼は静かに言った。
「――物語を」
物語。
物語を!
そのやや仰々しい言葉は、衝撃的な響きをもって私の中に響いた。
「物語を……」
響いた音の持つ意味を改めてなぞるように、私は呆然と繰り返す。
私の中に響いたそれは、直感に似ていた。
物語――それこそ、まっさらな棚であるところのノートを埋めるのに、もっとも相応しいもののひとつだという直感に。
同時に、空白を埋めるべきものを持っている男が、ひどく羨ましくなった。
(彼の中には、書きたいものが満ちているんだ)
それこそ、それが物語としてあふれ出たとき、書くものを持っていなければ、頼りないペーパーナプキンすらノートの代わりにするほどに。ノートを集めるばかりで、その中に納めるべきものを何も持っていない私とは、まるで正反対だ。
書きたいものを持ち、手を動かして、それを書き留める。
まっさらな棚を、自分の中から生まれた物語で埋めていく。
彼のやっていることは、とてつもなく尊く豊かな行いであるように思えた。
自然、感嘆の声がこぼれ落ちる。
「すごいなあ」
「そうでもない。このくらいのこと、趣味でやっている奴はいくらでもいる。それどころか、仕事にしている人間も」
「そうだとしても、すごい。書こうと思ったことすらない人間からすれば、なおのこと」
そう言って身を乗り出しかけた、そのとき。
(――あ)
生まれたばかりの尊敬の念が、あっという間に後悔に取って代わる。
私はつい今しがた、そんなふうに書き留められた大切な物語を、コーヒー濡れの紙屑にしてしまったのだ。
「お詫びを――」
どうしたものかと泳いだ目に、卓上の真新しいオレンジ色が飛び込んでくる。これだ。
私は男に、買ったばかりのノートを差し出した。
「あなたの物語をだめにしてしまったお詫びに、これを貰ってくれないか」
ノートを見た男が、呆れたように首を振る。
「ペーパーナプキンと新品のノートじゃ釣り合わんだろ」
「そんなことはない」
「ある」
「どうして」
「どうしても何も――」
男が話を切り上げそうな素振りを見せたので、私は焦った。どうしたって、このノートを彼に受け取ってもらわなければ気が済まない。
どうしたら――
苦し紛れに出た言葉は、私の手前勝手な望みを多分に含んでいた。
「なら、お詫びとしてではなく……私のノートを譲るかわりに、あなたがどんな物語を書いているのか見せてくれないか?」
「――――」
男が静かに目をみはる。
突飛なことを言っている自覚はある。私は高名な編集者でもなければ評論家でもない。物語という物語に飢えているような読書家でもないどころか、最後に本を読んだのはいつだったか思い出せないような、どこにでもいる人間だ。こんなことを言い出す見ず知らずの男に、書いているものを読ませる理由が、いったいどこにあるのだろう。
目の前の男が今何を思っているのか、決して考えるまいと言葉を続けた。
「全部じゃなくていい、見せてもいいと思うものだけでも」
必死な私に流されたのか――しばしの沈黙を経て、男はひとつ頷いた。
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