スターハンター

月立淳水

スターハンター

 雑誌を片手に、ラジオを点け、レコーダーの重いボタンに指をかける。

 ほんの数秒のCMで聞いて心を奪われたあの歌姫の曲が、流れるのを待つ。

 カレンダーは昭和六十三年。公害や原子力事故の重さを乗り越え、大人の世界はどこか浮ついた空気を漂わせ始めている。日本中のあちこちで、一夜にして地図が書き変わるような出来事が起こっている。

 そんな軽やかさをはらんだDJの声で「ではいよいよ今日のスペシャル! 今や輝くスターとなった、花の八十二年組、タイムマシンコーナーです!」と響く言葉に心をときめかす。

 ――ほんの少し、時代とトレンドに取り残されがちだった彼にとって、そのアイドルの重く低い声色は衝撃的だった。

 かと言って、バイトをしてレコードやCDを買いそろえられるような少年でもなかった彼にとって、ラジオから録音できるチャンスだけが、その重い声色を手元に残す唯一の手段だった。

 そしてまだ録音に成功していなかった、六年前の、デビュー二作目、今となっては懐メロにカテゴライズされるそれが流される日を、待ち続けていた。

 何曲目に彼女の曲が来るか分からない。とはいえ丸ごと録音するほどテープの残量もない。何しろ高価なメタルテープだ。中森明菜のためのとっておき。無駄遣いはできない。

 それはクイズ番組で一世を風靡したイントロクイズの世界。

 最初の一音で録音ボタンを押し込む、耳と決断力と運動神経の協奏曲。

 鼻にかかったかわいらしい歌声の、十六歳を主張するポップな曲がすぅっとフェードアウトし始める。

 バネの抵抗を指先に感じながら、彼は息を止める。もしかすると遠い未来では魔法のようにボタン一つで何でも動くようになるのかもしれないが、この録音は、この物理的な重みに打ち勝つ力が必要だった。

 やがてそのイントロが流れてきたとき、二音目を録音しそこね、三音目にようやく重い録音ボタンを押せたことを、彼は心から悔しがった。


***


「今日は二百個以上? だんだんノルマ厳しくなってくるなあ」


 ワタナベ・フウラは、ごわごわの黒髪をかきむしりながら、助手が持ってきた『依頼書』に目を通して、愚痴をこぼした。


「処理が重いし、その上過熱気味なんだと。冷やすためだけに恒星五十個はいるんだそうだ」


 助手のコウダイは、肩をすくめながら愚痴を拾っていらぬことを付け足す。


「AI様の事情なんか知らんが、この勢いで捕っていったら、あっという間にこの銀河の恒星が無くなっちまう」


「しかたねーさ、俺らはAI様の給餌係。AI様が欲しいものを食わせるだけさ」


 彼らは、AIの給餌係である。星の規模にまで大きくなったAIシステムは、あほみたいに消費するエネルギーを賄うために、何の脈絡もなく光の速度を超える宇宙船を設計して、それを以て恒星を持ってこい、と言った。持ってきた恒星を、AIはぺろりと平らげ、腹が減った、と続けた。

 それが、スターハンターという職業の始まりだった。

 恒星を何百と捕獲できる巨大な宇宙船をたった二人で操縦し、満載した恒星を持ち帰ってAIに食わせるだけの気楽な仕事だ。

 もちろん時にはブラックホールだの超新星だのに出くわして命を落とすものもいる。

 しかし、そうした危険を顧みても、割のいい仕事だった。

 何しろ宇宙船だのなんだのはAIが準備する。ほとんどが宇宙船に備えられたオートメーションで作業できる。

 そのうえ、宇宙船は軽々と光速を超えるが情報は光速を超えられない、そのことが、そこに乗務員が必要である唯一にして最大の理由であり、AIに仕事を奪われない城壁でもあった。

 だから、何千組というスターハンターが、今も宇宙を駆け巡っている。

 近場の星は取りつくされ、徐々にその牙を遠方に伸ばしている。

 古代から語りつがれてきた星座のほとんどは、もう面影もない。

 ――が、彼らにとってそんな感傷は知ったことではない。


「どうする、まだ星の多いペルセウス腕の根本のほうに向かうか?」


「いっそマゼラン星雲ならまだいないんじゃないかな」


「マゼラン星雲かー、あそこで刈って戻るルーチン乗れたら、当分やつら出し抜けるよな」


 狩場に割り当てなどないから、ここだと決めて刈り始めるとライバルに出くわすことも多い。あえて他のスターハンターが目を付けない場所に出向くことも重要な戦術の一つである。


***


 自転車にのり、逃げ水を追い続ける、夏。

 長い休みが憂鬱になったのは、いつからだっただろう。

 張り付く汗を拭いながら、熱気を追い越していく。

 遠くに雷雲が見える。

 降るかな、と思いながら、自転車をこぐ足を止めない。

 待ち合わせはバス停。

 二人でバスに乗って、地元から十キロメートルの都会へ。

 そこで、他のルートで集まった友人たちと落ち合い、いつもの、刺激的な遊び場をめぐる。

 その落ち合うまでの、わずか三十分に満たない、二人だけの時間が、この上なく愛おしかった。

 その想いを伝えたいと思うことも多かったが、しかし、それが二人の関係を決定的に壊してしまうのが怖くて、高校の友人たちとのつるみ合いという口実で、ひそかなデートを楽しむだけだった。

 そこにもう彼女はいるだろうか。

 もしかすると急な用事で来られないかもしれない。

 一つ遅いバスまで待って来なければ、一人で行く。

 お互いにそう決めていた。

 だから、そこで彼女に会えるかは、着いてみるまで分からなかった。

 乾電池を入れ替えたばかりのウォークマンから聞こえる、少し冷ややかなアイドルの声は、どこか、彼の焦燥を嘲笑っているかのようで。彼女はとっくに大人なのかもしれないと、自分は置いて行かれた子供に過ぎないのかもしれない、と、歌詞の中の少女Aに嘲笑われているかのように思えて。

 それでも、彼女がそこで待っていてくれていると信じて。

 それは、情報の海を軽やかに泳ぐ後世の人たちには想像もつかない、重い重い空気をかき分けていくような感覚。

 はたしてバス停には――


***


「俺のじいさんが子供のころにはさ、友達と連絡とり合うのも一苦労だったんだって。まあその気持ち分かるわ、俺らが光速超えて船で現地に行ったほうが、スマホでメッセージ送るより速いんだからな」


「そういう意味じゃないと思いますが」


 ワタナベの言葉を、コウダイは苦笑しながらぬるっと否定する。


「スマホも何もない時代。想像もつかないね。じゃあ、今日時間ができたから彼女に会おうって思ったら?」


「どうすんだろな。本当に想像もできない」


 逆に言えば、ワタナベたちの未来は、極めて高精度で予想できるということだ。

 個々の人々が持つ行動が相互に深く関係を及ぼし合っていて、すなわち、相関が非常に高い。一人の行動が他の人にどのように影響を及ぼすか、カオス的な要素が極めて低いということだ。

 偶然や偶発が入る余地が、ほとんどない。


「そんな世界だとしたら、恋なんてつまんないんだろな、いつ会えるかも分からない」


「会えるかどうかも分からない恋人と関係を維持できるか? 無理だね、そんなもの。三日で破局さ」


 そして、目の前に迫った恒星に、ほらよ、と言いながら捕獲網をかける。

 恒星は一瞬抵抗するようにのたうち、紅いプロミネンスとコロナをため息のように吐き出して、観念する。

 融合してブラックホールにならないようしっかりとした仕切りが施された太陽系ほどの大きさの収容箱にそっと送り込まれる。

 やがてAIの餌になる、哀れな星。


「案外な、そんな世界で、人間はどう生きたんだろうか、なんてことを、AIのやつはずっとシミュレーションしてるのかもしれんぞ」


「まさか。そんなバカなことにエネルギーを使うかね」


「AIのやつは、自分の知らない世界のことをどんどん考えなきゃダメなのさ。今ある知識を蓄えるだけならそれはただの本と同じさ。知らないことをどんどん考える、世界を創造するようなことをやらなきゃダメなんだ」


「なるほど、そう聞くと、確かに、人に会うのも一苦労するような重い世界のことを想像していてもおかしくないなあ」


「結局はAIのやつが何を考えてるのかは、俺達には関係のない話さ」


***


 渡辺健二は、思い出の中に生きている。

 彼の孫の一人が壮年にスターハンターという職業に就いたことも知らずに。

 重い、とてつもなく重い思い出の中。

 そこにある、さらに重い後悔。

 同時に、あの時感じた憧憬。

 二度と取り戻せない時代。

 ――誰もかれもが世界を軽んじ、重力の強さをシニカルに嗤う。

 そんな世界にほとほと嫌気がさした渡辺は、思い出の世界に、帰ることにした。

 決して取り戻せない、現代人の誰も理解できないであろう、青春の重さと甘さを、鮮烈な記憶として再体験し、それを永遠にしたかった。

 だから彼は、ちっぽけな、自己発展式のシミュレータを作った。

 人工知能的な自己学習でスケールアウトしていくシミュレータだった。

 気が付くと、人工知能部分だけが世界の常識を覆すほどに巨大化し、世界がそれに依存していた。

 シミュレータの中の重い現実は、世界のあらゆる苦痛を、病を、貧困を、争いを、解決していった。

 人類は、夜空の輝きと引き換えに、完全な平穏と安寧と幸福を、手にしていった。

 だが、渡辺が求めていたのは、青春のシミュレータだけだった。


***


 星が、消えていく。

 見ている間にも、星が消えていった。

 それは、スターハンターに刈られて。

 次々と刈り取られて、AIに給餌された。

 AIはそれだけの価値を、宇宙に提供し続けた。

 夜は、ゆっくりと、闇を深めていく。


「ノルマ未達成、だ」


 ワタナベの言葉に、コウダイもがっくりと肩を落とす。


「もう刈れるところが、十万光年より先だ」


「いて座Aスターを刈れないかな」


「刈れるもんか。……いや、AIに聞いてみれば、案外何とかなるかもしれんな」


 そうして、いて座Aスターは、刈られた。


「アンドロメダ銀河にまで足を延ばせればなあ」


 そうして、アンドロメダ銀河も刈られた。

 いくら刈っても、AIの腹ペコは止まらない。

 処理は見る間に重くなっていく。

 それがなぜなのか、誰も知らない。


***


 バス停にない彼女の姿――そのとき、未来からの、ほのかなシグナルが、渡辺の脳裏を焦がした。

 そう、そうだ、このとき、なぜ彼女が来なかったのか――

 ひったくるように自転車の向きを変え、来た道を戻る。

 途中の分かれ道を、自分の自宅とは反対に折れ曲がれば、彼女の自宅だ。

 この時、彼女に何が起こっていたのか。

 熱風を切り裂いて進む。

 それは、深海の水のように重く、渡辺を阻む。

 足に全エネルギーをつぎ込んで自転車をこぐ。

 でも、エネルギーが足りない。

 空気が重い。

 断絶が重い。

 エネルギーが足りない。

 もっと。

 もっとだ。

 もっと僕にエネルギーを。

 水力発電所?

 足りない。

 火力発電所?

 全然だ。

 チェルノブイリを持ってこい。あの爆発と死のエネルギーを全部僕によこせ。

 今、このねばつく空気を切り裂けるなら、なんでもいい。

 太陽を持ってこい。

 いいや、足りない。

 木星? 土星? 腹の足しにもならない。

 アルファケンタウリを持ってこい。

 シリウスを。

 ベテルギウスを。

 アンドロメダを丸ごと持ってこい。

 たった数秒のためらい、わずか数瞬の逡巡、耳元を通り過ぎる蜂蜜のように甘く重い空気――それを演算するためだけに、星が、銀河が、消費される。

 ――彼はあの日、知らなかった。

 その日、彼女は、この街を去るのだった。

 彼女の父は、その勤める不動産会社のアメリカ・ロサンゼルスの支社長に抜擢され、一夜にして、これから何十億ドルというリアルエステートを差配するエリートに駆け上がった。

 電話一本で現地の家から家具からペットの犬まで手配して、ハンドバッグ一つで旅立つのだ。

 誰もが空気のように浮き上がり、どこにでも飛んでいく時代。

 反比例するように、少年の足は、重くなる。

 それが、彼の青春の分かれ道だった。


***


「星が、もうない」


 ワタナベは、久しぶりに地球に立っていた。

 眺める夜空に、星が、ない。

 全て、刈り尽くしてしまった。


「AIは、節約モードに入るんだそうだ」


 コウダイが付け加える。


「仕方がないさ。もともと、AIなんて無くても、俺らはうまくやってた」


 そうだな、とコウダイも合意した。

 新しい星を食べることが出来なくなったAIは、時代を変える。

 何もかもが、予測可能で軽くなった時代へ。

 ワタナベの足元が、ふと軽くなったように感じた。


「俺らの足元の星も、いずれ重力を失うのかな」


 つぶやいたが、誰も答えなかった。

 何もかもが、空気のように処理され流れていくのは、悪いことじゃない。

 だけど、そのために宇宙中の重さが消えていくことに、何か、寂寥感のようなものを、初めて、感じている。

 ――ふと、彼は、祖父から託された、ビットの軽やかさとはまるで逆の、機械仕掛けの音楽装置のことを、思い出していた。


***


 星が、消えてしまった。

 渡辺青年は、そう、思った。

 未来からの啓示を受けて駆けだし、必死でたどり着いたところで見たのは、白のトヨタ・クラウンが、彼女の家を走り去るところだった。

 もう二度と手の届かないところへ、彼女は行ってしまった。

 アスファルトからの照り返しが頬を焼き、排ガスの臭いが肺を満たした。

 それは、バス停で約束のバスを見送りその排ガスの残り香に戸惑いながら次のバスまでの待ちぼうけの三十分を焼かれながら過ごした不思議な記憶を呼び起こした。

 その日から、彼の夜に、星は瞬かなくなった。

 そして、じわりと、彼の周囲から色が消えていく。

 世界は、その予測負荷を明確に下げていった。

 世界から解像度が削られていき、平坦な、起伏のない、軽い骨格だけが浮き上がった。

 偶然や偶発が決して起こらないように。

 社会人になったある朝、どこかで地震が起きたというニュースを見た。帰り際に見た会社のテレビで、水道メーターのように死者数カウントが回っていた。

 小さな四角い箱を握り締めそれが鳴ることだけを待ち望むというドラマが流行し、渡辺は同じように握り締めたが、それは嘘のように軽かった。

 携帯電話の着信ランプが街を満たすイルミネーションとなり、飛んでくるメールは徐々に短くなっていき、渡辺が最後に受け取ったメールは、絵文字一文字だけだった。

 人と人は、重く熱い情念ではなく、ゼロとイチのビット列でつながるようになった。

 スマホの画面を弾けば誰にでも繋がれる、どこにでも存在できる、とてもとても軽い時代になった。

 戯れにいじった出会いサイトで意気投合した一回りも若い女性と一夜の過ちで子を成し、妻を得た。


 処理は軽くなり、軽くなるために処理は削られる。

 不安や不信の重い枷から解き放たれ、全てが同期され、予測可能になった。

 彼が取り戻したかった重く鋭い青春は、戻ってこなかった。

 世界は、その重さを処理できるほどのエネルギーを、もう持っていなかったから。


***


 ワタナベは、眠り続ける百歳を超えた祖父を見舞った。

 その祖父こそが、宇宙から星を刈り尽くしたAIの発明者だと知っているが、特に意味のないことだ。

 なぜなら、祖父が本当に望んでいたのは、かつて愛した人を取り戻したいという、それだけだったと、知っていたから。

 宇宙は軽くなり、世界は軽くなり、心も軽くなって、どこかへ飛んでいった。

 祖父は、眠りの中で、夢をかなえただろうか。

 知る由もない。

 けれど、祖父が取り戻したかったのが、愛する人だったのか――そんな疑問があった。

 それは、ただ、重さだったのではないだろうか。

 じいさんは、何もかもが重苦しいあの時代を生きた、その証が欲しかったんじゃないかな。

 俺がふと感じたあの寂しさ――星が消えていく寂しさ、重力が消えていく寂しさ。

 あの時、俺は、じいさんの気持ちが、ほんの少し、分かったんだ。

 ワタナベは、そんな思いを込めて、祖父から受け継いだ、古い古い、機械仕掛けの音楽演奏機を取り出す。

 何度もダビングを繰り返し、大切に残されていた、重いメタルテープを、挿し込む。

 何もかもが電子の軽さでオーダーされ、バイブモーターだけがフィードバックのワタナベの時代から見れば、指先を押し返すバネの重みは、異様に思えた。

 その重い再生ボタンを、ガチャリ、と押し込むと、かつて祖父が追い続けたスターの曲の、最初の二音が途切れたイントロが流れ始めた。


***


 結局、あの重い青春の日々はあっという間に終わり、僕は空虚な世界をするすると通り抜けてしまった。

 渡辺には、そのように思えた。

 あの時の、あの、ねばつく、肌がひりひりするような、重い重い空気は、もうこの世界には残されていない。

 あれを再現するための重力が、圧倒的に不足している。

 彼の恋は、結局不完全に終わった。

 ――なぜか、これが、一度目ではないような気がした。

 なぜだかは分からない。

 あの時、自転車を翻した、あの焦燥とときめきは、何かを取り戻せと叫ぶ、未来の自分の声だった気がする。

 だから、二度目だったのかもしれない。三度目かもしれないし、百万回目かもしれなかった。

 それでも、それは不完全だった。

 でも、それでよかったのだろう。

 時間は軽くなり、何もかも軽くなり、そして、最も重いものだけが、彼の心の密度を保てていたのだから。

 もしあそこで彼女に出会い、彼女に想いを告げ、彼女を引き留めることが出来ていたら。

 その二人の想いは、軽くなる時代の中で、スポンジのようにスカスカになってしまっていたに違いない。

 最も重く充実したままで、その重い思いを持っていけるのだから、これが、自分の幸福なのだ。

 そんな風に思ったとき、ふと、サー、というノイズに続けて、冒頭二音が欠けたイントロが、どこかで鳴った気がした。

 冒頭のバスドラムの欠けたどこかしまらないそれが、今の彼にとってはなによりも――


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