小侠・心燕の岩割り(後編)
石切り職人は鎚を止め、白髪の少年を見た。
山の汗と土にまみれた手で、顎をひと撫でする。
「坊主。割りたい岩は、どれほどでけぇ」
「そうだな——山ほどの大きさ……卵みたいな形で、雷が落ちても傷ひとつない」
職人は眉を上げた。
「そりゃあ、ただの石じゃねぇな」
「割り方を教えろ」
職人は笑った。嗤うでもなく、哀れむでもない。
若い者が、勝てない相手に腹を立てている顔だ。
「石にも岩にも『目』がある。その目に沿って、のみと鎚でこつこつ叩くしかねぇ」
「武術で突き崩したいんだ」
「無理だ。意味も薄い。せっかくの石がもったいねぇ」
「石の目ってのは」
「何十年もやってりゃ、勝手に分かる」
それで終わり、という顔だった。
心燕は歯噛みした。教えが薄い。だが薄いからこそ、本物だとも思った。
武の秘も、要訣ほど短い。
心燕は礼を言って山を登った。
次はのみを持った。岩に刺し、
山頂の空気は、麓より薄い。
霊岩は今日も無言で座っている。雷の匂いが染みついた黒。
心燕はのみを当て、鎚の代わりに棍で叩いた。
きん。
刃が弾かれる。
立たないわけではない。
だが進まない。
「……舐めやがって」
心燕は笑った。怒りの笑いだ。
霊岩は答えない。答えないから、続けられる。
日が落ちるまで打ち、翌日も打った。
手の皮が裂けても、血が滲んでも、のみを置かなかった。
止血のために自分で『麻穴』を押さえ、手の傷に布を巻き、また叩いた。
数ヶ月。
ようやく、握り拳五つ分ほど掘れた。
身ひとつでやる仕事ではない。気が遠くなる。
息を整えるため、岩陰に腰を下ろしたときだった。
枝が揺れた。猿がいる。花果山には珍しくない。だが、その猿は手に石を持っていた。
猿は霊岩と同じ色の石を、爪で割ろうとしている。
当然、割れない。爪が滑り、歯も立たない。
猿は苛立って、石を地面に叩きつけた。
地面には偶然、同じ鉱物の岩があった。
石が少し欠けた。
猿は目を輝かせた。
今度は岩に向けて、石を叩きつけ続ける。
ぱき、ぱき、と小気味いい音が続き、石はどんどん割れ、最後にはなくなった。
猿は満足そうに去っていく。
残されたのは、欠片と、粉と、静けさだけ。
心燕は、その一部始終を見ていた。
胸の奥で、何かが鳴る。
同属相克。
同じもの同士は、削り合う。
――だが、それは前提だ。
道具や理屈の話は、ここから先を保証しない。
心燕は掘った穴の縁を指でなぞった。
霊岩の粉が指に付く。ざらりとした感触。
この岩は、岩の質でしか削れない。
そう思った瞬間、心燕は気づいた。
削れるかどうかじゃない。
削っても、割れない。
心燕はのみを引き抜いた。
山間へ放り捨てる。金属が石にぶつかり、遠くで乾いた音を立てた。
棍を握る。
心燕は霊岩を見た。相手は相変わらず、何も言わない顔をしている。
だからこそ、余計な言い訳が消える。
勝つか、負けるか。
折れるか、折れないか。
心燕はその二択だけを残した。
足元の欠片に目がいく。
のみで削った周りに、霊岩の剥片が散っている。雷に焼かれた黒。触れれば冷たく、妙に重い。
心燕はひとつ拾い、爪で弾いた。
きん、と乾いた高い音が返る。
「……使える」
棍を横たえ、
金具は擦れ、欠け、打痕で歪んでいる。山頂で叩き続けた月日の跡だ。
欠片を当てる。合わない。角が邪魔をする。
なら削る。削る道具は――同じ石だ。
欠片で欠片を削る。『同属相克』を、手の中で起こす。
ざり、ざり、と粉が落ちる。
心燕は息を沈め、指先に
力んだら割れるのは欠片のほうだ。
少年の万力のような力ですこしずつ棍の先に欠片がおさまっていく。
霊岩の欠片は、棍の石突に沿う
心燕はその棍をぐっと握り込む。
掌の熱を欠片へ移すように、気を巡らせる。
――かちり。
噛み合いが骨まで伝わった。
棍が、ひとつ呼吸をした気がした。
心燕は霊岩へ視線を戻す。
同じ質で、同じ質を穿つ。理屈は立った。
だが、それでも――割れる保証はない。
心燕は突いた。
突いて、突いて、突き続けた。
最初は何も変わらない。
だが、微かに違う。
手首の痺れが減り、音が変わる。
砂が落ちる量が増え、粉が舞う。
それでも、霊岩は霊岩だ。
何千、何万と突いても、ある日ふっと何も変わらないことに気づく。
その瞬間、心燕は理解する。
道具が正しくても、理屈が合っても、心に岩を割ることが居座っている限り、岩は割れない。
都行きの夢も、門への恨みも、霊岩への憎しみも。
全部が邪魔だ。
心燕は、息を捨てた。
力を抜くのではない。目的を抜く。
割るために突くのをやめ、突くから突く。
突く。
ただ棍が前へ出る。
気が巡る。
腕も肩も、腰も脚も、勝手に繋がる。
初秋。空は澄み、残暑がまだ残る。
半ば無心で放った一突きが――霊岩を貫いた。
音はなかった。
手ごたえもなかった。
次の瞬間、卵形の巨体が、内側から潰れ崩れた。
砂と欠片が、静かに落ちる。
まるで、最初からそこに割れ目があったみたいに。
心燕は、しばらく動かなかった。
達成感が湧かない。歓喜もしない。
当たり前の行為が当たり前の現象を起こしただけだ、と心が言う。
空を見上げる。三日月が出ていた。
月は笑わない。褒めない。
ただ、空にある。
◇
道場に戻り、心燕は師父に告げた。
岩を割った、と。
師父は目を見開き、問いただす。
「どうやって成し遂げた」
「……いつの間にか割れていた」
心燕は首を振る。
「俺がやったとも思えない」
師父は、息を呑んだ。
それは門派に伝わる絶招・
師父の口から、結論が落ちる。
乾いた一言。逃げも飾りもない。
「
力んで成すのではない。
理屈で押し切るのでもない。
空のまま、成る。
師父はしばらく黙り、やがて言った。
「名を与える」
心燕は、何も言わない。
白髪の下の瞳が、わずかに揺れた。
石突に嵌まった欠片が、掌の中で冷えている。
「岩を割りて生まれ出たりし、空を悟る者――ゆえに」
師父の声が落ちる。
「お前は
その瞬間だけ、悟空の胸の奥が熱くなった。
都へ行く許しを得たからではない。
自分が、やっと自分の輪郭を掴んだからだ。
「謹んで承ります。師父」
◇
ある夜。
海の底。そのさらに底――潮の流れすら届かない暗黒の層で、沈黙が一度、息をした。
そこに鎖がある。
金でも銀でもない、ただ「金」としか言いようのない色。年月の腐食を拒む光沢。海水を受けても錆びず、深海の圧にも曲がらず、絡み合ってなお真っ直ぐな、天の
じゃらり。
音が鳴った瞬間、周囲の水が震えた。
魚も、藻も、貝も、逃げ場を探して散った。闇に潜むものたちが、目を閉じた。見てはいけないものが、目を開く前触れだと、本能が知っている。
鎖は動いたのではない。
鎖の向こう側――鎖が縛っている何かが、意識を起こしたのだ。
天の河を鎮め、地の潮を定めるために据えられたという、重さの
ただそこに在るだけで、海の水脈を押さえつけ、波を黙らせる。
誰も持ち上げられぬはずの神鉄。誰も触れてはならぬはずの鎮め。
そのはずが、今夜、ほんの僅かに揺らいだ。
――理屈で辿り着けない領域に、悟空が踏み込んだ。
そして世界は、それを見逃さない。
だがその眠りはいつか誰かが来ることを知った沈黙だ。
その夜、深海の闇の中で、鎖は最後に一度だけ鳴った。
じゃらり。
まるで、笑うように。
花果山棍侠伝 明丸 丹一 @sakusaku3kaku
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