花果山棍侠伝

明丸 丹一

小侠・心燕の岩割り(前編)

 音はなかった。

 手ごたえも、なかった。


 それなのに――卵形の大岩が、内側から潰れ崩れた。


 砂と欠片が、静かに落ちる。まるで、最初からそこに割れ目があったみたいに。

 心燕しんえんは、しばらく動かなかった。


 達成感が湧かない。歓喜もしない。

 当たり前の行為が当たり前の現象を起こしただけだ、と心が言う。


 掌が熱い。皮は何度も裂け、癒えては剥けた。指の節には、止血した傷の痕がまだ残っている。

 それでも目の前の霊岩れいがんは、崩れた。


「……これを、俺がやったのか」


 声は山頂の薄い空気に吸われて消えた。


 足元に、黒い欠片が混じっている。雷に焼かれた色。触れれば冷たく、妙に重い。

 心燕はそれを拾い、爪で弾いた。


 きん、と乾いた高い音。


 その音だけが、妙に現実だった。


 空を見上げる。三日月が出ている。

 月は笑わない。褒めない。ただ、空にある。


 ――都へ行く。

 そのために岩を割った。そう思っていたはずなのに、胸のどこにも達成感がない。


 次の瞬間、山風が吹いた。粉が舞い、視界が白く濁る。

 心燕は瞬きひとつでそれを払い、黙って棍を握り直した。


 その棍の石突いしづきは、歪んでいる。打痕で欠け、擦れている。

 どれだけ叩いたか、数えきれない月日の跡だ。


 ――なぜ、ここまでやった。

 答えは簡単だ。勝っても認められないからだ。勝っても壁が増えるからだ。


 粉が落ち着く。

 崩れた霊岩の向こうに、花果山かかざんの森が広がっている。桃の匂いが、わずかに混じる。


 心燕はそこで、ふっと思い出した。


 最初に折れたのは、岩ではない。


      ◇

 

 ばきり、と音を立てて対手の棍が折れた。

 乾いた音が広場を走った瞬間、巨漢の腕が止まった。弟子たちの息も止まった。

 誰もが、目の前で起きたことを理解できなかったからだ。


 東勝神洲とうしょうしんしゅう傲来国ごうらいこく花果山かかざん

 截派孫家美猴拳せつぱそんけびこうけんの道場は山麓にある。初秋の空は澄み、残暑の熱が土の匂いを濃くしていた。


 中央に立つのは二人。

 ひとりは三十がらみの巨漢で、弟子たちが畏れて叔父上と呼ぶ男。

 もうひとりは十七、八の少年――心燕しんえん。若さに似合わぬ白髪が陽を弾き、目だけが静かだった。


 礼が交わされる。持棍礼じこんれい

 師父しふの前で頭を下げ、互いに向かい合う。熱と緊張が、広場の空気を薄くした。


 掛け声はない。

 先に仕掛けたのは巨漢だった。


 棍の端を持ち、武器の長さで間合いを食う。横薙ぎが風を裂く。

 基本にして良手。外されても連撃へ繋がる。表裏四種、八つの変化を抱えた攻めだ――垂尾瞬果すいびしゅんか


 弟子のひとりが、息を吸う音がした。

 あれは受けるだけでも骨が鳴る。ましてや、少年の細腕では。


 心燕は棍を中央寄りに持つ。守りの形、通背腕伸つうはいわんしん

 だが、受けに回らない。


 半歩だけ、身をずらす。

 肩と腰がわずかに捻れ、棍が短く鳴った。


 ――べきり。


 巨漢の得物の先端が、地面に落ちた。


 遅れて、巨漢は手の中の軽さに気づく。折れたのだ。三分の二ほどのところから、断たれている。

 弟子たちのざわめきが遅れて波のように押し寄せる。


「……今、棍を斬ったのか」


 誰かの小声が、広場の端で震えた。

 打つ武器で、断つ。そんな理屈は門派の教えにない。見たこともない。


 反撃を警戒して目を上げた巨漢の視界に、心燕が入る。

 ――もう棍を構えていない。


 巨漢の中で怒りが膨らむ。侮られた。そう感じた。

 短くなった棍を握り直そうとして――手首が痺れ、武器を落とした。


「叔父上、もう終わっている」


 心燕の声は軽い。熱がない。

 巨漢は手首を押さえる。骨は折れていない。なのに指が動かない。


「ああ。骨は折ってない。麻穴まけついただけだ」


 当たり前のように言う。

 それがどれほど難しいか、巨漢は知っている。


 点穴法てんけつほう

 止血や整骨のように、治療の基礎として触れる者はいる。だが戦いの最中に、動く相手の『穴』を封じて動作を奪うのは別だ。


 まな板の上の魚を捌くのではない。

 川を泳ぐ魚を、川の中で切り分けるような精密さ。


 心燕はそれを、息ひとつ乱さずにやった。


 弟子たちがざわめく。敬意と恐れが混じる気配が、広場の端から端へ流れていく。

 だが心燕は、視線の熱をひとつも拾わない。拾ったところで、何も変わらないからだ。


 師父へ向き直る。


「さあ、師父。これで俺の実力は分かっただろ」


 師父は眉根を寄せる。

 褒める顔ではない。叱る顔でもない。苦さが滲む。


「しかしな、心燕」


 巨漢が吐き捨てるように続ける。


「今のは、何かの間違いかもしれん」


 心燕は鼻で笑った。

 勝っても認められない。技を見せても軽んじられる。そういう顔だ。


 巨漢は弟子たちへ、鋭い視線を走らせた。

 口を開くな。見たものを軽々しく語るな――そう言わんばかりの圧だ。


 広場の空気が、一段冷える。

 心燕の胸の奥で、何かが乾いた音を立てる。


 勝ち筋は見せた。次は、壁の外へ行くだけ。


 師父が言う。


「お前には武才がある。もしかすれば我が流派の祖と並び立つほどの、な。だが――配慮が足りない。そんな勝ち方をすれば人から恨みを買う」


「門の戒律もある」

 巨漢が唸る。

「淫行、仕官、鏢局入りはご法度だ」


「分かってる」

 心燕は肩をすくめた。

「俺は官に仕える気も、用心棒屋に入る気もない」


 心燕の目が、山の向こうを見た。

 道場の外。門派の外。花果山の外。


 外へ行けば、強い奴がいる。なら、そこで自分を試せる。

 その欲は願いではなく、呼吸に近かった。


「ただ、自分の実力がどれほどか試したい。都に行きたい」


「都には強い奴がいる、ってか」


「そうだ。わんさといるはずだ」


 師父はため息を吐いた。

 諦めと、惜しさと、ほんのわずかな期待が混じった吐息だった。


「よろしい。それなら条件を出そう。花果山の頂に大岩があるのは知っているな」


「ああ。開祖が山頂から削り出したという」


「その岩を砕け。砕くほどの功を身につけられたら出奔を許す。どこへなりと行け」


 弟子たちが息を呑む。

 岩割り。巧さと破壊は別物だ。巨漢が口元を歪め、師父はそれを見ない。


 心燕だけが、淡々とうなずいた。


「二言はないな」


「ない」


 そのまま背を向ける。

 追いすがる者はいない。追える気がしない。


 広場に残るのは、折れた棍の欠片と、凍った沈黙だけだった。


      ◇


 夕方、心燕は山道に立った。

 花果山は麗山だ。草木は枯れず、桃や木の実が絶えない。鳥が鳴き、鹿が走り、狐が影のように横切る。


 だが足場は岩だらけで、傾きは容赦がない。登るほどに足裏が削れていく。


 心燕は黙って登った。

 都へ行く。そのための条件だ。


 ――なのに胸の底で、別の感情が芽を出す。


 岩を割る。

 その言葉が、喧嘩の相手の名みたいに響いた。


 山頂近く。空が近い。

 卵形の大岩がそこにある。鈍く黒ずみ、砂粒が陽光を返す。


 ここは普段、不可侵だ。

 この高さゆえ雷が落ちる。災厄を引き取る『霊岩』として敬われている。


 心燕は棍で軽く叩いた。

 かん、と乾いた音が返る。硬い。そこらの石とは別物だ。


「……いい顔をした岩だ」


 心燕は笑った。

 攻めてこない。避けもしない。なのに、びくともしない。

 強者は、こういう顔をする。


 棍を構える。

 全力で突けばいい。そう単純に考えた。なら、どこを突く。人体に急所があるなら、岩にも弱みがあるはずだ。


 だが表面はごつごつとして傷も見当たらない。

 雷に打たれてなお無傷なら、雷以上の力が要るのか。


 そう考えた瞬間、心燕の胸の奥が愉快になった。


 名案はない。なら、試す。


 心燕は突いた。

 腕が、じん、と痺れる。岩は砂をぱらりと落としただけで、沈黙した。


「力技じゃないか」


 心燕は息を吸い、吐く。

 体の内に『気』を巡らせる。外の力ではなく、内の質を束ねる。そういうやり方があることを知っている。


 門派に伝わる秘奥の名は金絲功きんしこう。だが術としては失われ、名だけが残る。


 内側の熱が全身に行き渡るのを待ち、もう一度突いた。

 今度は音がほとんどしない。手ごたえもない。うまくいった感触だけはある。


 ――だが岩は変わらない。傷もつかない。


 心燕は棍を下ろし、頭を掻いた。


「……面倒だな」


 面倒。なのに、やめる気はない。

 霊岩は何も返さない。返さないから、腹が立つ。


 数日目。麓へ下りる途中で、心燕は鎚の音を聞いた。

 金属が石を叩く、短いリズム。規則正しい呼吸のような音。


 しばらく経って、山のふもとの村に降りると、石切り職人がいた。

 花果山の石は硬く、目が揃っている。土台や墓石に使えるから、採集と加工で食う者もいる。


 心燕は足を止めた。

 武術家の生まれが民に教えを請う。気が引ける。


 だが霊岩は、そんな矜持を笑っている気がした。


 心燕は一歩、前へ出る。


「……岩は、どうやったら割れる」


 職人は鎚を止め、白髪の少年を見た。

 その目が、戦う者の目であることに気づいて、少しだけ口元を曲げる。


「坊主。割りたい岩は、どれほどでけぇ」


 心燕の喉が、かすかに鳴った。

 花果山の頂の霊岩が、脳裏で無言の顔をしている。


 「そうだな——山ほどだ」

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