第2話 噂は、数字より速い
草の匂いで目が覚めた。
冷えた朝露が頬に張りつき、肺の中が痛いほど澄んでいる。洞窟の湿った空気とは違う。――外だ。
男は、仰向けのまま両手を見た。震えている。指先に白い粘液が乾いてこびりついていた。
「……生きて、る……?」
最後の記憶は、顔を覆う半透明の塊。息ができず、視界が暗くなり――そこから先が、飛んでいる。
腕の内側に、焦げたような痕があった。輪郭の曖昧な刻印。痛みはないが、熱だけが残っている。
男は、喉を鳴らして立ち上がった。足は動く。骨も折れていない。
そして、洞窟の入口を見た。
近い。数十歩先に、黒い口が開いている。昨日、自分が入っていった“穴”。
脚が勝手に一歩踏み出す。確かめたい。何が起きたのか。相棒は――。
だが、二歩目で、刻印が熱を持った。
皮膚の奥を、針で刺されるみたいに。目の前が遠のいた気がして、呼吸が乱れる。
「ぐっ……!」
膝をつく。近づこうとすると、さらに痛みが増す。拒絶されている。入れない。
男は呻きながら、洞窟から離れた。距離が開くほど痛みが引く。
「……なんだ、これ……」
生き延びた代償に、何かを刻まれた。
その答えを持っているのは、自分じゃない。
――ギルドだ。
◇
受付カウンターの向こうで、セラは書類の束を整えていた。朝一番は、いつも同じだ。依頼書の整理、保険の確認、昨日の未帰還者の照合。
そこへ、土と血の匂いを引きずった男が二人、駆け込んできた。
「受付! 洞窟だ! 村の裏の洞窟が……ダンジョンになってやがる!」
セラは顔を上げる。二人とも革鎧。猟師か、下級の探索者。片方は顔に擦り傷、もう片方は青白い。
「落ち着いて。怪我は?」
「死んでねぇ。……けど、死ぬ寸前で、俺は“消えた”。」
青白い男が腕を差し出した。刻印を見せる。
セラの眉が、ほんの少し動いた。
刻印――敗北刻印。
未登録のダンジョンでも、稀に発生する。迷宮の“排除”に近い現象だ。通常は、侵入者が死ぬか、逃げるか、あるいは――強制的に吐き出される。
「消えた、って?」
「スライムに顔を覆われて、息ができなくなって……次に気づいたら洞窟の外だった。こいつが見たんだ。俺が、光に飲まれて消えたのを。」
相棒の男が頷いた。
「嘘じゃねぇ。あいつ、ほんとに消えた。俺は逃げた。そしたら、朝になって外で合流した。……でも、洞窟に戻ろうとしたら入れなくてよ」
セラは二人の顔を交互に見た。
スライム。罠。敗北刻印。未登録。――要素は揃っている。
問題は、“誰が死んだか”だ。
「未帰還者は?」
「いねぇ。二人とも戻った。……だから、なおさら気味が悪い。」
セラは、手元の帳簿にペンを走らせた。
生還。なら、報告は“危険”ではなく“異常”だ。
ギルドの規定では、未登録ダンジョンは発見次第、上層部に報告し、危険度判定を経て、必要なら討伐隊を組む。だが――討伐隊が動けば、村の近くの洞窟は封鎖される。現場は困る。稼ぎ口が減る。
そしてもう一つ。
“死なない”ダンジョン。
そんなものが本物なら、初心者の訓練場として価値がある。事故で死ぬ若い探索者は、毎月出る。現場の血は、セラにとって数字じゃない。
ただし、甘く見てはいけない。死なないのは、たまたまかもしれない。狡猾な迷宮が、餌を育てているだけかもしれない。
セラは即断した。
「場所を教えて。こちらで確認します。ただし、今日すぐに討伐隊は呼びません。……代わりに、私の判断で調査を出す。」
「調査?」
「低レベルの小隊。撤退前提。危険なら、すぐ引き返す。――あなた達も、刻印があるなら今日は入れない。無茶はしないで。」
二人は顔を見合わせ、肩の力を落とした。
「助かる……。俺ら、洞窟に近づくだけで痛ぇんだ。」
「敗北刻印。二十四時間は弾かれることが多い。……その間に、こちらが見てくる。」
セラはカウンター横の掲示板に目をやる。
初心者向けの依頼。低危険度。欠員募集。
そして、あの子たちが思い浮かんだ。
剣士のユーノ。壁型で、無謀が利点でもある。
斥候のマリス。目と耳がいい。慎重で、指示に従える。
見習い魔術師のリナ。火球はまだ小さいが、光を作れる。
指揮役のトード。頭が回る。怖がりだが、だからこそ撤退判断が早い。
レベルは低い。けれど、ステータスは偏っている。――偏りは、武器にも弱点にもなる。
「よし。あなた達は待機。私は、調査隊を組む。報告は、私の口から上に上げます。……それまで、噂は広めないで。」
「噂、って……」
セラは、二人にだけ聞こえる声量で言った。
「“死なないダンジョン”の噂は、討伐隊も、盗掘者も呼ぶ。」
◇
朝の振動が、洞窟の中に満ちていく。
俺にとって、それは“時間の経過”だ。水滴のリズムが変わり、外気の湿りが変わり、地面の温度がわずかに上がる。
そして、UIが静かに更新された。
【迷宮UI】
種別:ダンジョンコア(未成熟)
稼働日数:2日目
MANA:18/18
CAP:1/1
ATT(注目度):3 / 100
SUR(生存率):100%(直近1回)
DR(致死率):0%(直近1回)
【救命結界】
状態:未成熟
発動回数:本日 1 / 1
備考:敗北刻印(クールダウン)付与
“敗北刻印”。
昨日、転送した男の腕に焼き付いた痕のことだろう。俺はそれを、意図して付けた覚えがない。システムが勝手に付けたのか、救命結界に付随しているのか。
どっちでもいい。今の俺には、ありがたい。
再侵入を封じられる。つまり、昨日の二人が今日戻ってきて、粘床を迂回し、コアを探し回る――そんな最悪の二周目を避けられる。
問題は、昨日の反省点だ。
転倒事故。危なかった。
殺さないと決めた以上、死は“攻撃”だけで起こるとは限らない。転ぶ。打つ。窒息する。パニックで心臓が止まる。
DRは、俺の最重要KPIだ。
俺は、コアの中で“投資”を選んだ。
稼ぐためのDENやLUREに手を出したい誘惑はある。だが、序盤の最適解は決まっている。
CTL。制御。
SEC。防衛。
生き残るための基礎工事だ。
【投資:ダンジョンステータス】
CTL(制御) 0 → 1
消費MANA:5
MANA:13/18
洞窟全体が、ほんのわずか、呼吸をするみたいに鳴った。
昨日までの俺は、罠を置いても“置きっぱなし”だった。精度も粗い。救命結界も、条件を満たしたら発動するかどうか、半分は運任せ。
だが今は――手触りがある。
粘床の粘り気を、わずかに緩められる。薄壁の角度を、髪の毛一本分だけ変えられる。転倒しそうな場所の床を、少しだけ柔らかくできる。
そして、救命結界のUIが更新された。
【救命結界:更新】
制御:不安定 → 準安定
発動条件:HP 0直前/WIL 0直前(同左)
発動回数:本日 1 / 1(同左)
※誤作動率:低下
よし。まずは事故死の確率を下げた。
次だ。
【投資:ダンジョンステータス】
SEC(防衛) 0 → 1
消費MANA:4
MANA:9/18
空気が、少し重くなった。
俺の存在が、洞窟の“奥”に沈む。外から見つけにくくなる感覚。もちろん、実際に隠れたわけじゃない。だが――コアの周囲の岩が、意図せず視線を散らすように配置される。
UIが一枚、増えた。
【SEC:解放機能(初級)】
・コア被覆(薄)/擬装
・侵入経路の簡易封鎖(短時間)
・侵入者タグ:未識別(※盗掘者識別は未解放)
盗掘者識別は、まだできない。
なら、見つけられないようにするしかない。
俺はコアの周囲に、薄い岩の“殻”を生成した。目立たない。だが、直接叩かれても一撃では割れない程度の厚みはある。
そして、入口側の部屋――俺の“唯一のフロア”の地形を、少しだけ調整する。
粘床は残す。ただし、昨日のように転倒したら危険だ。粘床の手前に、足を取られる兆候を作る。わずかな湿り、薄い光沢、そして滑りにくい凹凸。
理不尽にしない。兆候を見せる。
……その方が、長期的に稼げる。
俺が“訓練迷宮”として生きるなら、侵入者の怒りじゃなく、納得を引き出す必要がある。
【生成可能:更新】
・スライム(小)……MANA 5
・粘床(弱)……MANA 3
・薄壁(仮)……MANA 2
・落とし穴(浅)……MANA 4 ※NEW
落とし穴。
危ない。だが、深くしなければいい。骨が折れるほど落とさなければいい。
何より、粘床より“転びにくい”形にできる。
俺は、落とし穴(浅)を一つだけ用意した。底は柔らかい泥と、スライムの粘液で緩衝させる。落ちても、痛い程度に。
【生成:落とし穴(浅)】
消費MANA:4
MANA:5/18
準備は整った。
あとは、客が来るかどうかだ。
――来た。
洞窟の入口で、複数の足音が止まる。昨日より多い。会話もある。若い声。装備の擦れる音。金属の軽い響き。
「ここだな。噂の洞窟」
「レベル低いって聞いたけど……ほんとにダンジョン?」
「油断すんなよ。撤退優先って、セラさん言ってた」
ギルドの匂いがする。
俺の視界に、〈オペレーション・ルーム〉が立ち上がった。
【〈オペレーション・ルーム〉発動】
侵入者:4名
推定ロール:壁/斥候/砲台(見習い)/指揮
危険度:中(対コア脅威:中)
予測誤差:中(高INT/高SENを確認)
――侵入者1(壁)
LV:3
STR:11 AGI:7 VIT:14 INT:5 MAG:0 SEN:6 WIL:7
――侵入者2(斥候)
LV:2
STR:7 AGI:12 VIT:8 INT:8 MAG:0 SEN:11 WIL:8
――侵入者3(砲台/見習い魔術師)
LV:2
STR:5 AGI:8 VIT:7 INT:9 MAG:12 SEN:7 WIL:6
――侵入者4(指揮)
LV:3
STR:8 AGI:9 VIT:9 INT:12 MAG:4 SEN:8 WIL:9
……来たか。
レベルだけ見れば、昨日の猟師と大差ない。
だが、ステータスは違う。役割が揃っている。斥候のSENが11。指揮のINTが12。見習いだがMAGが12。
俺の罠は、昨日の“油断”を食っていた。
今日は、読み合いだ。
予測ログが流れる。
【予測戦闘ログ】
現構成:スライム(小)×1/粘床(弱)/薄壁(仮)/落とし穴(浅)
目標:侵入者撤退(全滅回避)
成功確率:61%
DR上昇:低(+)
ATT上昇:小(+)
61%。昨日の72%より下がった。
理由は明白だ。斥候がいる。罠察知ができる。指揮がいる。意思統一が早い。
だからこそ、俺は“兆候”を薄くした。
兆候はある。だが素人にはただの湿りにしか見えない。SENの高い奴だけが「違和感」として拾う。
SENが低い者は踏む。
SENが高い者は気づく。
そして、パーティは“全員の最適”では動けない。
誰かが遅れる。誰かが焦る。誰かが無理をする。
そこを刺す。
侵入者2――斥候が先に入った。慎重に足元を見ている。棒で床を突き、石を転がし、耳を澄ます。
粘床の前で立ち止まり、目を細めた。
「……ここ、濡れてるだけじゃない。光り方が変だ。迂回できる?」
指揮役がすぐ返す。
「壁は前に出るな。斥候がルート作る。魔術師、光。天井も見ろ」
見習い魔術師が、小さな光球を浮かべた。洞窟が白く染まる。
俺は内心で舌打ちした。
光は、情報だ。情報は、SENと同じくらい厄介だ。
だが、まだ対処はできる。薄壁で影を作り、曲がり角を増やす。視界を分断する。
CTLの“手触り”を使う。
【地形微調整】
対象:薄壁(仮)
消費MANA:1
MANA:4/18
壁がほんの少し、内側へ寄った。
斥候が迂回しようとしたラインが狭くなる。足運びが窮屈になり、壁役が通るには無理がある。
「……無理だ。狭い。踏むしかない」
斥候が唇を噛んだ。
いい。
粘床は“踏めば終わり”じゃない。踏ませて、止めて、恐怖を煽る。その上で、殺さずに返す。
壁役が、慎重に一歩踏み出す。
ぬちっ。
粘床が足を捕まえた。昨日より粘りを弱めた分、転倒はしない。だが、動きは止まる。
「……くそ。動けない」
「壁、落ち着け。引くな。体勢崩す」
指揮役が声をかける。
壁役のWILは7。平凡。パニックには弱い。
俺はスライムを前に出した。攻撃はしない。まとわりつき、視界を狭め、呼吸の自由を奪う“ふり”をする。
恐怖だけで十分だ。
壁役のWILが下がる。
侵入者1:WIL 7 → 6
そこで斥候が動いた。腰の袋から粉を撒く。白い粉が粘床の表面に落ち、粘り気を吸って、足元が少し滑りやすくなる。
「粉で粘りを殺す。壁、足を回して抜けろ!」
……そう来るか。
予測誤差。想定外の道具。INTの高い指揮がいると、こうなる。
なら、次の層を使う。
粘床から抜ける動作は、重心が前に寄る。そこに“落とし穴”だ。
俺は、落とし穴(浅)の位置を、粘床の“抜けた先”に置いてある。粘床を突破して油断した瞬間に踏む。
壁役が足を抜いた。よろけた。次の一歩。
床が、抜けた。
「うわっ――!」
ずるり、と体が沈む。落下距離は短い。だが、底が柔らかく受け止めて、腰まで埋めた。
壁役は、立てない。
そこへ、スライムが寄る。
壁役の視界の端が、半透明で埋まっていく。
「やめ……っ!」
侵入者1:WIL 6 → 4
斥候が駆け寄ろうとして、指揮役が止めた。
「斥候、位置を保て! 罠の連鎖を疑え!」
正解だ。
俺は、落とし穴の周囲に“連鎖”を置いていない。まだ資源が足りない。だが、疑わせるだけでいい。
時間を稼ぐ。
見習い魔術師が詠唱を始めた。
「火……ッ!」
小さな火球が飛び、スライムに当たる。じゅっ、と音がして、蒸気が上がった。
スライムは裂ける。だが完全には消えない。粘液が壁役の胸元へ垂れ、熱で息が詰まる。
壁役のVITは14。耐える。だが――恐怖は別だ。
侵入者1:WIL 4 → 2
ここで事故が起きる。
火球は小さい。だが、洞窟の蒸気は視界を奪い、呼吸を苦しくする。パニックが加速する。
壁役が暴れれば、顔が泥に沈む。窒息のリスク。
俺は、救命結界のUIを見る。
本日1回。使うなら今だ。
だが、ここで転送したら――彼らは確信する。ここが“本物のダンジョン”だと。噂が広がり、ATTが上がる。
それでも、DRを上げるよりはマシだ。
俺は、最適解を選ぶ。
殺さない。優先順位は絶対だ。
侵入者1:WIL 2 → 1
今。
【救命結界 発動】
対象:侵入者1(壁)
トリガー:WIL崩壊直前
制御:準安定
洞窟の空気が、静かに鳴った。
壁役の体が、ふっと軽くなる。泥も粘液も、その場に残したまま、彼だけが抜け落ちるように消えた。
残った三人が、息を呑む。
「……消えた?」
「転移……? いや、セラさんの話通り……!」
指揮役の声が揺れた。WILが高いが、それでも未知には揺れる。
侵入者4:WIL 9 → 8
斥候が、出口の方を振り返る。
「撤退! 壁がいないと無理だ!」
いい。撤退してくれ。
俺は追わない。追い詰めない。出口までの道だけは、開けておく。
薄壁を少しだけ引き、通路を広げる。
【地形微調整】
対象:薄壁(仮)
消費MANA:1
MANA:3/18
三人の足音が、入口へ向かって遠ざかる。
そして、洞窟の外。
壁役が、朝の草の上に吐き出される。
咳き込み、泥を吐き、目を白黒させて立ち上がる。
腕に、刻印が浮かぶ。
“敗北刻印”。
彼は生きている。三人も生きている。
それでいい。
俺の視界に、数値が流れた。
【迷宮UI:更新】
MANA:3/18 → 24/24
ATT:3 → 7
SUR:100%(直近2回)
DR:0%(直近2回)
……上限がまた伸びた。
稼いだ分だけ、器が広がる。なら、次はCAPか、GENか。
だが、まずは――この“噂”をどう扱うかだ。
死なないダンジョン。そんなものが広がれば、客は増える。MPは伸びる。
同時に、目も増える。監視も、盗掘も。
俺は石のまま、考える。
最適化は、戦闘だけじゃない。
評判と注目度も、管理対象だ。
────────────────
【迷宮日報:稼働2日目】
MANA:24/24
CAP:1/1
ATT:7
SUR:100%(直近2回)
DR:0%(直近2回)
侵入者ログ:
人数:4
推定ビルド:壁(VIT)/斥候(AGI+SEN)/砲台(MAG)/指揮(INT)
侵入者の学習点:粉・光など道具で罠を無力化する。高SENがいると予測誤差が増える。
迷宮側の改善点:粘床一枚では突破される。二層目の罠を増やす。蒸気・窒息など“事故死”の管理が必須。
改修・投資:
投資ダンジョンステ:CTL 0→1/SEC 0→1
新規解放:落とし穴(浅)
変更した部屋・罠:粘床の兆候調整、薄壁の微調整(2回)、落とし穴追加、コア被覆(薄)
救命結界:発動1回(準安定)
次回課題:
予測される対策:斥候による罠察知の徹底、ロープ・板による地形突破、魔法での制圧
先回り案:分断(扉)解放、視界遮断の強化、救命結界の発動回数増、SECによる盗掘者識別
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