第3話「不安」


あの夜から、1週間が経った。


直の生活は、少しだけ変わっていた。


朝、ゴミ出しに行くと、咲と会うことが増えた。


「おはよう、高村くん」


「……おはよう」


最初はそれだけだった。


でも、だんだん会話が増えた。


「今日も暑いね」


「ああ」


「仕事、忙しい?」


「まあ、普通だ」


「そっか。無理しないでね」


「……ああ」


たったそれだけの会話。


でも、直にとっては、それが嬉しかった。


誰かと朝に言葉を交わす。


それだけのことが、こんなに温かいとは思わなかった。


---


金曜の朝、いつものようにゴミ出しに行くと、咲が階段を降りてきた。


「あ、高村くん。おはよう」


「おはよう」


咲がゴミ袋をステーションに置いて、振り返った。


「ねえ、高村くん。明日の夜、空いてる?」


「……明日?」


「うん。また、うちでご飯食べない?」


直は少し驚いた。


「いいのか?」


「いいよ。っていうか、陽が楽しみにしてるって言ってた」


「……本当か?」


「本当。『おっさん、次いつ来んの?』って聞いてきたもん」


咲が笑う。


直は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……分かった。行くよ」


「やった。じゃあ、夕方6時くらいに来て」


「ああ」


咲が手を振って、アパートに戻っていった。


直は、その背中を見ていた。


---


土曜の夕方、直は咲の部屋の前に立っていた。


手には紙袋を持っている。今度はシュークリームではなく、スーパーの惣菜だ。


コロッケと唐揚げ。


自分で作れないから、せめて何か持っていこうと思った。


でも、惣菜しか思いつかなかった。


チャイムを押す。


少し間があって、ドアが開いた。


陽だった。


「……あ、おっさん」


「……や、やあ」


「また来たの?」


「呼ばれたから」


「ふーん」


陽が紙袋を見た。


「今度は何を持ってきたのさ?」


「コロッケと唐揚げ」


「惣菜?」


「ああ」


「おっさん、惣菜かよ」


陽が笑った。


前と違って、トゲがなかった。


「自分で作れないのかよ」


「作れない」


「マジで? 大人なのに?」


「大人でも作れないやつはたくさんいる」


「ダサ」


「ダサくて悪かったな」


直がそう言うと、陽がまた笑った。


「まあ、いいけど。入れば?」


「お邪魔します」


---


夕飯は、咲の手作りカレーだった。


直が持ってきたコロッケと唐揚げは、サイドメニューとしてテーブルに並んだ。


「高村くん、ありがとう。惣菜、助かる」


「いや、大したものじゃない」


「大したものだよ。私、揚げ物作るの面倒だから」


咲が笑う。


陽がコロッケを頬張りながら言った。


「おっさん、コロッケまあまあいける」


「俺が作ったわけじゃない」


「知ってる。スーパーのやつだろ」


「ああ」


「でも、選んだのはおっさんだろ?」


「……まあ、そうだな」


「じゃあ、おっさんのコロッケだな」


陽がそう言って、また食べ始めた。


直は、その横顔を見ていた。


前より、柔らかくなった気がした。


---


夕飯を食べながら、3人で話した。


咲が「陽、テストどうだった?」と聞く。


「まあまあ」


「まあまあって何点?」


「70点くらい」


「え、すごいじゃん。頑張ったね」


「別に。普通だし」


陽が照れくさそうに言う。


直は、その光景を見ていた。


こういう会話が、当たり前にある家庭。


元妻とは、こういう会話がなかった。


直が何か言っても、元妻は「ふーん」としか言わなかった。


だから、直も話さなくなった。


でも、ここは違う。


咲は聞いてくれる。


陽も、少しずつ話してくれるようになった。


直は、この場所にいることが嬉しかった。


---


食後、陽が自分の部屋に戻った。


「ごちそうさま。俺、部屋でゲームする」


「勉強は?」


「テスト終わったばっかだしいいじゃん」


「もう」


咲が呆れたように言うが、陽はさっさとドアを閉めてしまった。


リビングには、直と咲だけが残った。


咲がコーヒーを淹れてくれた。


「高村くん、ありがとう。今日も来てくれて」


「いや、俺の方こそ。美味かった」


「ほんと? 良かった」


咲が笑う。


でも、その笑顔が、少しだけ曇っていた。


直は気づいたが、何も言えなかった。


沈黙が流れる。


咲がカップを両手で包んで、じっと見つめていた。


「……高村くん」


「なんだ?」


「私、ちょっと怖いんだよね」


直は咲を見た。


咲は、カップを見つめたまま続けた。


「また、誰かを好きになるのが」


直は何も言えなかった。


咲が顔を上げた。


目が、少し潤んでいた。


「前はね、好きだったの。元旦那のこと」


「……」


「最初はすごく好きだった。この人と一緒にいたいって、本気で思ってた」


咲がコーヒーを一口飲んだ。


「でも、だんだん疲れてきて」


「……」


「仕事と子育てで余裕がなくなって、元旦那のことを考える時間がなくなって」


「そのうち、好きかどうかも分からなくなった」


咲が目を伏せた。


「で、最後は何も感じなくなった」


「……」


「それが、一番怖かった」


咲の声が震えていた。


「好きだった人に対して、何も感じなくなるって、怖いよ。だって、あかの他人みたいになるって言うのも変かもしれないけど」


直は黙って聞いていた。


咲の目から、涙がこぼれた。


「だから、もう誰かを好きになるのが怖い」


「……」


「また、同じことになるんじゃないかって」


「また、好きだった人を、何も感じなくなるんじゃないかって」


咲が両手で顔を覆った。


「怖いの。すごく、怖い」


---


直は、何も言えなかった。


言葉が出てこなかった。


でも、今度は「何も言えない」ことを恥じなかった。


代わりに、直はソファから立ち上がって、咲の横に座った。


咲が顔を上げた。


涙で目が赤くなっていた。


「ごめん、変なこと言って」


「いや」


直は首を振った。


少し間があって、口を開いた。


「俺も、怖い」


咲が直を見た。


「また、同じことになるんじゃないかって」


「……」


「また、誰かを傷つけるんじゃないかって」


「……」


「俺は、元妻を傷つけた。何も言わないことで、傷つけた」


直はカップを見つめた。


「だから、また誰かと一緒にいたら、また同じことをするんじゃないかって。それが、怖い」


咲が黙って聞いている。


「でも」


直が顔を上げた。


「咲といると、その怖さが、少しだけ小さくなる」


咲の目が、少し見開かれた。


「咲は、俺の話を聞いてくれる。俺が黙ってても、待ってくれる」


「……」


「それが、嬉しい」


直は咲を見た。


「だから、ありがとう」


咲が泣きながら笑った。


「……こっちこそ、ありがとう」


咲が涙を拭いた。


「高村くんがいてくれて、私も、怖さが少しだけ小さくなった気がする」


「……そうか」


「うん」


咲が笑った。


涙の跡が残っているけど、笑っていた。


「私たち、似てるね」


「……そうかもな」


「怖がりで、不器用で」


「ああ」


「でも、だから、分かり合えるのかもしれない」


直は何も言えなかった。


でも、頷いた。


それだけで、伝わった気がした。


---


直が自分の部屋に戻ったのは、夜の10時を過ぎていた。


ドアを閉めて、靴を脱ぐ。


いつもと同じ部屋。


でも、何かが違った。


ソファに座って、天井を見る。


今日の出来事が、頭の中を巡る。


陽の「おっさんのコロッケ」という言葉。


咲の涙。


「もう誰かを好きになるのが怖い」


「また、同じことになるんじゃないかって」


直は自分の胸に手を当てた。


熱かった。


咲の涙を見たとき、直の中で何かが動いた。


守りたい、と思った。


この人を、傷つけたくない、と思った。


——俺は、咲が好きなのかもしれない。


その考えが、頭の中に浮かんだ。


直はすぐに打ち消そうとした。


——いや、まだ早い。まだ、そんなこと言える立場じゃない。


咲はまだ怖がっている。


俺も怖がっている。


今、何か言ったら、壊れてしまうかもしれない。


——でも、もし。


もし、咲が俺を必要としてくれるなら。


もし、俺がいることで、咲の怖さが小さくなるなら。


——その時は、ちゃんと言おう。


直は窓の外を見た。


隣のアパートの角部屋に、黄色い灯りが見えた。


咲の部屋だ。


今夜、その灯りが、少しだけ近く感じた。

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2026年1月10日 20:08
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2026年1月12日 20:08

45歳、もう一度だけーー言葉にできなかった男が、もう一度、誰かを好きになる。 マスターボヌール @bonuruoboro

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