第2話「距離」
土曜の午後、直はいつものスーパー銭湯にいた。
駅から徒歩10分。外観は古いが、サウナの温度がちょうどいい。露天風呂から見える空が広い。
直が通い始めて、もう8年になる。
離婚してから、土曜の午後はここに来るのが習慣になった。
特に理由はない。
ただ、1人で家にいると、何もすることがないだけだ。
入り口のドアが開いた。
「あ」
聞き覚えのある声。
振り向くと、咲と陽が立っていた。
「高村くん、奇遇だね」
咲が笑う。
陽が直を見て、露骨に顔をしかめた。
「……ママの知り合いのおっさんじゃん」
「陽、その言い方やめなさい」
「事実じゃん」
陽はそう言って、さっさと男湯の暖簾をくぐって奥に行ってしまった。
咲が苦笑いする。
「ごめんね。ほんと愛想なくて」
「……いや、いい」
直は何と言えばいいか分からなかった。
咲は女湯の方に向かいながら、振り返った。
「高村くん、風呂上がりに休憩スペースにいる? もし良かったら、一緒に話そうよ」
「……ああ」
断る理由がなかった。
---
風呂から上がると、休憩スペースに咲と陽がいた。
咲は瓶の牛乳を飲んでいて、陽はスマホをいじっている。
「高村くん、こっちこっち」
咲が手を振る。
直は2人の向かいに座った。
自販機でコーヒー牛乳を買ってきた。瓶のやつだ。
「高村くん、コーヒー牛乳派なんだ」
「昔から」
「私は普通の牛乳。風呂上がりはこれって決めてる」
咲が瓶を傾けて、一気に飲み干した。
陽がスマホから目を上げて、直を見た。
「なぁおっさん、いつもここ来るの?」
「……毎週土曜に」
「マジで? 暇人かよ」
「陽!」
咲が叱る。
でも、直は笑った。
「まあ、たしかに暇だしな」
陽が少し驚いた顔をした。
「……おっさん、怒らないの?」
「事実だから」
陽が黙った。
少し間があって、陽が口を開いた。
「……おっさん、1人?」
「ああ」
「友達とかいないの?」
「陽!」
美咲がまた叱る。
でも、直は正直に答えた。
「いない。っていうか、休みの日に会うような友達は、いない」
陽がまた黙った。
そして、小さく言った。
「……俺も、いない」
咲が少し驚いた顔をした。
「陽……」
「別に。いなくても平気だし」
陽がそう言って、スマホに目を戻した。
咲が何か言おうとして、やめた。
直は、その横顔をじっと見ていた。
---
月曜の朝、直はいつものようにゴミ出しをしていた。
燃えるゴミの日だ。7時前に出さないと、カラスにやられる。
ゴミ袋をステーションに置いて振り返ると、咲が階段を降りてきた。
「あ、高村くん。おはよう」
「……おはよう」
咲もゴミ袋を持っている。
「高村くん、毎朝早いね」
「仕事が8時からだから」
「そっか。私も今日は早番。7時には出ないと」
「大変だな」
「まあね。でも、慣れたよ」
咲が笑った。
少し沈黙が流れる。
直は何か言おうとして、言葉が出なかった。
咲が先に口を開いた。
「ねえ、高村くん」
「なんだ?」
「もし良かったら、今度うちでご飯食べない?」
直は驚いた。
「……いいのか?」
「いいよ。っていうか、来てよ」
咲が笑う。
「お礼、ちゃんとしたいし。引っ越しのとき、すごく助かったから」
「いや、そんな大したことしてない」
「大したことしたよ。1人で全部やるつもりだったんだから」
咲がまっすぐに直を見た。
「それに、陽斗も、もう1回会えば慣れると思う。あの子、最初は誰にでもああだから」
「……そうか」
「うん。だから、来て。土曜の夜とかどう?」
直は少し考えた。
土曜の夜。
いつもなら、スーパー銭湯から帰って、惣菜を食べて、テレビを見て、寝る。
それだけの夜だ。
「……分かった。行こうかな」
「やった」
咲が嬉しそうに笑った。
---
土曜の夕方、直は咲の部屋の前に立っていた。
手には紙袋を持っている。駅前のケーキ屋で買ったシュークリームだ。
何も持たずに行くのは気が引けた。
かといって、何を持っていけばいいか分からなかった。
酒は陽がいるからダメだろう。花は大げさだ。
結局、シュークリームにした。
チャイムを押す。
少し間があって、ドアが開いた。
陽だった。
「……は?なんでおっさんがうちに?」
「……やあ」
「ママー、隣のおっさんが来たー」
陽が奥に向かって叫ぶ。
「おっさんって言わないの!」
咲の声が奥から聞こえる。
陽が振り返って、直を見た。
「入れば?」
「……お邪魔します」
直は靴を脱いで、部屋に入った。
---
咲の部屋は、直の部屋より少し広かった。
2LDKだろう。リビングにはソファとテーブルがあり、キッチンからいい匂いがしていた。
「高村くん、ごめんね。まだ準備中で」
咲がキッチンから顔を出す。エプロンをしている。
「いや、早く来すぎた」
「ううん、ちょうどいいよ。あと15分くらいで出来るから、座ってて」
直はソファに座った。
陽がテーブルの向かいに座って、スマホをいじっている。
沈黙が流れる。
直は何か話しかけようとして、言葉が出なかった。
陽がスマホから目を上げて、直を見た。
「おっさん、何その紙袋」
「……シュークリーム」
「マジで? 見せて」
直が紙袋を渡すと、陽が中を覗いた。
「お、駅前のやつじゃん。ここの美味いんだよな」
「そうなのか」
「うん。ママがたまに買ってくる」
陽がシュークリームを1つ取り出した。
「食っていい?」
「食後にしなさい」
咲がキッチンから言う。
陽が舌打ちして、シュークリームを袋に戻した。
「ママ、うるさい」
「うるさくて結構」
咲が笑いながら言う。
直は、その様子を見ていた。
---
夕飯はハンバーグだった。
咲が手作りしたらしい。付け合わせはポテトサラダとコーンスープ。
「高村くん、ハンバーグ好き?」
「……ああ、好きだ」
「良かった。陽のリクエストなんだけど、高村くんも食べられるかなって思って」
「俺のリクエストじゃねーし」
陽が言う。
「嘘つかないの。昨日、ハンバーグがいいって言ったじゃん」
「はあ?言ってねーから」
「言ったー」
咲と陽が言い合っている。
直は黙って、その光景を見ていた。
こういう会話を、最後にしたのはいつだろう。
元妻とは、食事中にほとんど喋らなかった。
テレビをつけて、黙々と食べて、片付けて、寝る。
そういう夕飯だった。
「高村くん、どうしたの?」
咲が直を見ている。
「……いや、何でもない。いただきます」
直はハンバーグを口に運んだ。
美味かった。
「……美味い」
「ほんと? 良かった」
咲が嬉しそうに笑った。
---
食事中、直はあまり喋らなかった。
でも、咲と陽がずっと喋っていたので、沈黙にはならなかった。
「陽、テスト近いんでしょ? 勉強してる?」
「してる」
「嘘でしょ」
「してるって」
「昨日、ずっとゲームしてたじゃん」
「あれは息抜き」
「息抜きしかしてないじゃん」
「うるさいなー」
陽が直を見た。
「なぁおっさんは学生のとき勉強してた?」
「……してなかった」
「ほら」
「ほらじゃないでしょ」
咲が言う。
「高村くん、もっとちゃんと言ってよ」
「いや、本当にしてなかった。俺は成績悪かった」
「……マジで?」
陽が少し驚いた顔をした。
「ああ。赤点ギリギリだった」
「じゃあ、なんで今ちゃんと仕事してんの?」
「……なんでだろうな」
直は少し考えた。
「たぶん、運が良かっただけだ」
「運?」
「ああ。たまたま入れた会社が、たまたま潰れなかった。それだけだ」
陽が黙った。
咲も少し黙った。
直は自分が変なことを言ったかと思った。
でも、陽が口を開いた。
「……おっさん、正直だな」
「そうか?」
「うん。普通、大人ってもっとカッコつけるじゃん。勉強しろとか、俺は頑張ったとか」
「俺は頑張ってないから」
「……あっそ」
陽がまたスマホに目を戻した。
でも、その表情は、さっきより少し柔らかくなっていた。
---
食後、陽斗が自分の部屋に戻った。
「ごちそうさま。俺、部屋で勉強するから」
「嘘でしょ」
「するってば、ほんとうるさい」
陽がドアを閉める。
リビングには、直と咲だけが残った。
咲がコーヒーを淹れてくれた。
「高村くん、ありがとう。陽、楽しそうだった」
「……そうか?」
「うん。最近、あんまり笑わなかったから」
咲がカップを両手で包んで、少し黙った。
「引っ越してから、ずっとピリピリしてたんだよね。新しい学校にも馴染めてないみたいだし」
「そうか」
「うん。だから、今日、ちょっと安心した」
咲が笑った。
でも、その笑顔の奥に、疲れが見えた。
直は少し迷って、聞いた。
「……陽の父親は?」
咲が少し目を伏せた。
「いないよ。2年前に離婚して、それからずっと会ってない」
「……そうか」
「元旦那、仕事が忙しい人でさ。家にほとんどいなかったの。陽が生まれてからも、ずっと」
咲がコーヒーを一口飲んだ。
「で、ある日、帰ってきたら、荷物がなくなってた」
「……」
「離婚届と、置き手紙だけ残ってた。『もう限界だ』って」
直は何も言えなかった。
咲が顔を上げて、笑った。
「まあ、そういうもんだよね。離婚って」
その笑顔が、少し寂しそうだった。
「私も悪かったと思う。仕事と子育てで余裕なくて、元旦那のこと、ちゃんと見てなかったから」
咲が顔を伏せた。
「私、仕事と子育てで頭がいっぱいで、元旦那のこと、全然見てなかった」
「元旦那が疲れてても、『私も疲れてる』って言っちゃって」
「元旦那が話しかけてきても、『今忙しい』って言っちゃって」
「だから、置き手紙されたんだと思う。『もう限界だ』って」
咲が鼻をすすった。
「でも、もう終わったことだから。今は、陽と2人で頑張るしかないし」
咲がそう言って、また笑った。
その笑顔が、直には眩しかった。
強い人だと思った。
1人で子供を育てて、仕事をして、引っ越しをして、それでも笑っている。
直には、そんな強さはなかった。
元妻が出ていったとき、直は何もできなかった。
引き止めることも、謝ることも、怒ることもできなかった。
ただ、呆然と立っていただけだ。
「高村くんは?」
咲が聞いた。
「え?」
「離婚の理由。聞いてもいい?」
直は少し黙った。
誰にも話したことがなかった。
会社の同僚にも、親にも、誰にも。
「……俺は」
言葉が出てこなかった。
咲が慌てて言った。
「あ、ごめん。無理に話さなくていいよ。私ばっかり喋っちゃって」
「いや」
直は首を振った。
「……話す。たぶん、話した方がいい」
咲が黙って、直を見た。
直はコーヒーカップを見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「俺の元妻は、よく喋る人だった」
「……」
「俺は喋らない。お前も知ってると思うけど、昔からそうだ」
「うん」
「最初はそれでも良かったんだと思う。俺が聞き役で、向こうが喋る。それでバランスが取れてた」
直はコーヒーを一口飲んだ。
「でも、だんだん、向こうが怒るようになった」
「怒る?」
「ああ。『なんで何も言わないの』『何考えてるか分からない』『私の話、聞いてる?』」
咲が黙って聞いている。
「俺は聞いてた。でも、何て返せばいいか分からなかった。だから黙ってた。そしたら、余計に怒られた」
「……」
「そのうち、向こうも喋らなくなった。家の中が、ずっと静かになった」
直はカップを置いた。
「最後に言われたのは、『もう疲れた。あなたと話すの、疲れるの』だった」
直はカップを見つめた。
「その前に、『あなたは私の人生に入ってこない』とも言われた」
「……」
「俺は、その意味が分からなかった。いつも一緒にいたのに、なんで入ってこないって言われるのか」
直は窓の外を見た。
「でも、今なら分かる。俺は、元妻の隣にいただけで、中にはいなかった」
「……」
「俺は、何も言えなかった。引き止めることも、謝ることも。ただ、立ってただけだ」
「それで、終わった。5年前のことだ」
沈黙が流れた。
長い沈黙だった。
直は自分が喋りすぎたと思った。
こんな話、聞きたくなかっただろう。
重い話だ。
暗い話だ。
「ごめん、変な話して」
直が立ち上がろうとした。
「待って」
咲が言った。
直が振り返ると、咲が泣いていた。
「え」
「ごめん、なんか、泣けてきた」
咲が目を擦る。
「高村くんが悪いんじゃないよ。たぶん」
「……」
「私、分かる気がする。元旦那もそうだった。何考えてるか分からないって、何度も思った」
咲がまた鼻をすすった。
「でもさ、今思うと、私もちゃんと聞こうとしなかったんだよね。向こうが何を考えてるか、ちゃんと聞こうとしなかった」
咲が顔を上げた。
涙で目が赤くなっている。
「だから、高村くんの奥さんも、そうだったのかもしれない。聞こうとしなかったのかもしれない」
「……」
「でも、高村くんも、もっと言えば良かったのかもね」
「……ああ」
「言葉にしないと、伝わらないこともあるから」
直は黙って頷いた。
分かっていた。
分かっていたけど、できなかった。
「俺は、言葉にするのが苦手だ」
「うん、知ってる」
「だから、たぶん、また同じことになる」
「……」
「誰かと一緒にいても、また同じことになる。俺は変われないから」
咲が首を振った。
「そんなことないよ」
「……」
「だって、今、話してくれたじゃん」
直は顔を上げた。
咲が笑っていた。
涙の跡が残っているけど、笑っていた。
「高村くん、今、ちゃんと話してくれた。自分のこと、ちゃんと言葉にしてくれた」
「……」
「それって、すごいことだよ。少なくとも、私はそう思う」
直は何も言えなかった。
胸の奥が、熱くなっていた。
「だから、変われないなんて、言わないで」
咲がまっすぐに直を見た。
「私は、高村くんの話、ちゃんと聞くから」
---
直が自分の部屋に戻ったのは、夜の10時を過ぎていた。
ドアを閉めて、靴を脱ぐ。
いつもと同じ部屋。
でも、何かが違った。
ソファに座って、天井を見る。
今日の出来事が、頭の中を巡る。
陽の「おっさん、正直だな」という言葉。
咲の涙。
「私は、高村くんの話、ちゃんと聞くから」
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
直は自分の胸に手を当てた。
まだ、熱かった。
元妻に言われた言葉を、ずっと引きずっていた。
「あなたと話すの、疲れるの」
「あなたは私の人生に入ってこない」
その言葉が、直の中でずっと刺さっていた。
俺は、誰かと一緒にいる資格がない。
俺は、誰かを幸せにできない。
俺は、変われない。
そう思い込んでいた。
でも、咲は言った。
「今、ちゃんと話してくれた」
「変われないなんて、言わないで」
「私は、高村くんの話、ちゃんと聞くから」
直は窓の外を見た。
隣のアパートの角部屋に、黄色い灯りが見えた。
咲の部屋だ。
あの部屋には、咲と陽がいる。
今頃、シュークリームを食べているだろうか。
陽が「美味い」と言っているだろうか。
咲が笑っているだろうか。
直は、その灯りをじっと見ていた。
——俺は、あの場所にいた。
部屋の隅じゃなく、ちゃんとあの場所にいた。
笑って、話して、一緒にご飯を食べた。
それが、こんなに嬉しいことだと思わなかった。
——もし、もう1度。
もし、もう1度誰かの隣にいられるなら。
今度は、ちゃんと話そう。
今度は、ちゃんと言葉にしよう。
隣にいるだけじゃなく、中に入ろう。
直はそう思った。
まだ、怖かった。
また同じことになるかもしれない。
また、傷つけるかもしれない。
傷つくかもしれない。
でも。
「私は、高村くんの話、ちゃんと聞くから」
その言葉が、直の背中を押していた。
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