終わる夜の酒場

芦谷 犬彦

終わる夜の酒場

 二十世紀末、師走の頃。世間はコンピュータの誤作動によって社会システムが大混乱に陥り、世界が滅ぶという「二〇〇〇年問題」で持ち切りだ。


 しかし、ここは東京の場末。少し寂れた飲み屋街には終末の様相など欠片もなかった。というよりも、皆酔って忘れたいのだろう。かくいう私も似たようなものだ。

 駅を出た私は大晦日らしい寒さと、小降りの雪に身を震わせつつ、私は飲み屋街を奥へと歩いていった。目的は小さな酒場。若い頃に偶然見つけたのだが、妙に居心地が良い場所だったことを覚えている。別に美味しいお酒が出るわけでもないし、美人な常連がいるわけでもない。何なら常連は殆ど中年ぐらいの男性。確か二人程いたはずだ。今日は来ているだろうか?


 そんな事を考えているうち、いつの間にか酒場の前にたどり着いていた。控えめな電飾看板に焦げ茶のドア、歓楽街には合わない古風な外観が一層その存在感を引き立たせている。 ドアを開けると、古ぼけた鈴がチリンチリンと音を鳴らす。バーカウンターには三十代くらいの白髪の男が立っていた。


「いらっしゃいませ。おや平坂さんじゃないですか」

「お久しぶりです、マスター。最近は忙しくて...」

「まあ、繁忙期ですからね。しかしこんな日に来てくれるなんて嬉しいです」


大晦日に来る客は珍しいのだろう、マスターは少し微笑んでそう言った。


「マスターもやっぱり二〇〇〇年問題気になります?」


店の様子が気になった私は、カウンターチェアに腰掛けながら聞いた。


「そりゃあ気になりますよ、皆さん都会の店に行くんで余計に客足が遠のきましてね」

「今じゃ来てくださるのは湯田さんと三藤さんぐらいですよ」


湯田さんと三藤さんはこの店の常連だ。とても気のいい人達で、私も何度か一緒に飲んだ事がある。湯田さんはタクシーの運転手、三藤さんは大手の企業に勤めており、いつもは私より先に店にいるはずだが、今日は姿が見えなかった。


「そういえば、今日はお二人とも来ていないんですね。いつもは私より早く店にいるのに」

「確かに平坂さんより遅いのは珍しいですね。何かあったのでしょうか?」

マスターはグラスを磨きながら時計を見た。時刻は既に二十時をまわっていた。


 私とマスターが時計を見ていると、背後で鈴が鳴った。あの古ぼけた音だ。

 振り返るとそこには湯田さんがいた。


「おや、湯田さんじゃないですか!今日は随分と遅かったですね」


マスターはいつもの調子で話しかけるが返答はない。それに店に入ってきてからずっと俯いている。


「湯田さん?三藤さんは一緒ではないのですか?」


私がそう言うと湯田さんは憔悴した声でこう返した。


「三藤は死んだよ」


 その言葉が発された瞬間、場は凍りついた。マスターも私も一瞬で頭が真っ白になった。


「えっ...どうしてですか?」


私が聞くと湯田さんは話し始めた。


「リストラだってさ。二十年も働いてきた会社をいきなりクビにされてね、自宅で首を吊って亡くなったそうだよ」

「リストラって...そんなのあんまりですよ」

「ああ、本当にそうだ」


湯田さんは話し終えると顔を上げた。湯田さんの顔は頬が痩せこけていて、この年に彼へ降り掛かった苦労を私に想起させた。


「マスター、今日は弔い酒だ。ウイスキーをくれ」

「かしこまりました」


マスターがグラスを出し、瓶からウイスキーが注がれていく。三藤さんが好きだったその光景を見ながら、湯田さんは私に話しかけた。


「こんな時勢だ、平坂君のところも大変でしょう」


湯田さんがそう言い終えたのと同時にウイスキーが出された。


「ええ本当ですよ。生徒も同僚も世界の終末だって騒ぐから仕事にならないし、挙げ句の果てには心中する人達まで出始めて...」


私はつい愚痴をこぼしてしまった。


「だろうね、僕のところも似たような事になってるよ。最近は色んな人が死んでいく、みんな希望を失っているんだろうね」


ここまで話し終えた湯田さんはウイスキーを一杯呑んだ。


 事実、最近自殺する人が増えている気がする。目の前に迫った「世界の滅亡」という可能性に誰も彼もが絶望しているのだろう。私にも似たような思いはある。


「そういえば平坂さんも何か呑まれます?」


まだ注文をしていない私にマスターが話しかける。完全に注文するのを忘れていた。


「じゃあ私は...」


私が注文をしようとしたその時、突然背後のドアが叩かれた。それもコンコンといった軽い音ではなく、少し力の入った重い音だった。 


 私を含めた全員が一斉にドアの方に目を向ける。ドアの向こうにいる誰かはドアノブをゆっくりと回して開けた。そこにいたのは三藤さんだった。


「三藤!?お前死んだはずじゃ...」

「ああ、確かに死んださ。でも死にきれなかったって言うのかな」


先程、湯田さんが死んだと言っていた三藤さんが今目の前にいる。常ならばありえない状況だ。


「マスター、ウイスキーくれ。いつものヤツ」

「へっ...?はっはい、かしこまりました」


三藤さんはさも当然のようにいつもの調子でそう言った。


「三藤さん?どうしてここに...」

「どうしてって俺にもわからんよ。急に公園で目が覚めたら、ここに向かわないとって思って歩いていたんだ」


私は目の前にいる三藤さんが偽物かと思ったが、話し方や服装、顔などどこを見ても本人にしか見えなかった。


「それに年明けまではここにいないとダメなんだ」

「年明け?」

「ああ、目が覚めたとき、誰かにそう言われたんだ」


年明けまでいなければならない、一体どういうことだろうか?


 困惑している私をよそに、湯田さんは残っていたウイスキーを一口飲んで口を開いた。


「三藤、お前死にきれなかったって言ってたよな。どう言う事だ?」

「首を吊ったことは覚えてる、でも首に縄の跡がないんだ」

「つまり成仏できなかった、みたいな感じか」

「かもな。でもしっかりと歩けるし、こうやって...」


三藤さんはマスターが出していたウイスキーを掴み、一口呑んだ。


「物を掴んだり呑んだりもできるんだ」


湯田さんは驚いた顔をしていた。どうやら幽霊というわけではなさそうだ。


「そんなことより呑もうぜ!世界が終わるってのに辛気臭いと死にきれないだろ」


困惑している私達を見て、三藤さんは言った。確かにそうかも知れない。明日になれば世界が終わるかもしれないのに楽しまないのは無粋だ。


「マスター、ギムレットをください」

「あっ僕もウイスキーもう一杯」

「かしこまりました」

「お前ウイスキーなんて呑んでたか?」

「ああ、呑んでたさ」


マスターは慣れた手つきですぐにお酒を出してくれた。


 そこからは店がほぼ貸切状態ということもあってか、皆で語り合った。世間の様子、大不況の愚痴、思い残した事など様々だ。特に湯田さんはお酒が進むと笑い上戸になっていた。


 お酒を三、四杯ほど呑んだ頃、時計を見ると針は二十三時五十九分を指していた。私から湯田さんを挟んだ席でお酒を飲んでいる三藤さんの手には水滴が付いていた。

 グラスに付いていたものと思ったが、それは手の甲に付いている。そして顔のあたりからその水滴が垂れていた。暖房は入っているが汗が出るほどではない。


「三藤さん、なんで汗をかいているんですか」

「これは...ああ、もう時間切れみたいだな」


突然の事に困惑している私に三藤さんは続けた。


「言っただろ。年明けまでいなければならないって、それがタイムリミットなんだ」

「最後に酒を飲みたいって思ったまま死んじまったからな。多分それが原因だな」


そう話す三藤さんの顔や服は少しずつ溶けてきていた。


「待て三藤!お前とはもう少し...」

湯田さんの言葉を遮るように三藤さんが話す。

「湯田、お前は俺みたいになるなよ。生きてさえいればなんとかなる」

「マスター、世話になったな。平坂、お前も頑張れよ」

マスターは深くお辞儀をして返していた。私は神妙な顔をして頷いた。


 三藤さんは薄っすら笑って溶けていった。時計を見ると零時ちょうどを指していた。身構えたが何も起きない。世界は滅んでいない。先程までのことは夢だったのではないかと思ったが、夢などではなかった。

 紛れもない現実だったのだ。それを証明するかのように、彼が座っていた席には僅かな氷の欠片と水が残されていた。

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終わる夜の酒場 芦谷 犬彦 @Ashiya-inuhiko11

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