蒼に、溶ける
鋏池穏美
白い、どこまでも白い画廊。
壁も床も天井も白く染め上げ、展示台も輪郭が溶けてしまうほどの白。照明は均一に白光りし、影がほとんどできないように配置した。窓はあるけれど、外からの光は厚い遮光カーテンに遮断されており、今が昼なのか夜なのか、晴れなのか曇りなのか──、その一切は分からない。ここでは時間という概念も、移ろいゆく現実も重要ではない。そう、考えて創り上げた画廊。私という存在を霞ませ、ただただ作品に没頭してもらいたい。
けれどこの空間の中、揺蕩うのは人ではなく沈黙。受付も、係員も、お客様もおらず、私だけがただ存在している。代表作を今の私の技術で再構築し、それだけを展示した個展を開いたのは、一週間前。それから誰も訪れていない。お客様ではない人は訪れたが。
──どう思っているんですか?
──あなたも関わっていたんですよね?
──悪いと思わないんですか?
展示は始まっているのに、始まっているという実感は微塵もない。始まっているかどうかを決めるのは、お客様の数なのだと知った。見てもらえなければ、存在しないのと同義なのではないだろうか。
画廊の中央に立ち、壁に掛けた絵を一枚ずつ見ていく。鑑賞ではない確認のための行為。自分の作品が、まだそこにあるかどうかを確かめるための。
最初の絵は「蒼天」。
雲のない空を描いた。
青一色で、わずかな濃淡。地上は描かず、視点は上だけを向いている。以前はこの絵の前で足を止める人が多かったけれど、今は私だけ。
──安心する。
──今日は大丈夫そう。
──嫌なことが起きなさそう。
そういうあたたかな感想が並んだ。けれど今は違う。
──異常な静けさ。
──嵐の前触れ。
──大量殺戮の直前。
SNSでのコメントに、そう書かれたことがある。私はその文章を何度も読み返した。違う。そんなことは思っていない。私はただ、雲のない日を描いただけ。どこまでも青い、自由な空を。
二枚目は「雫」。
舗道に落ちる雨を描いた。
さあさあと降り注ぎ、コンクリートを暗い色へと染め上げていく雫。上から水が落ちているという事実だけを、そっとキャンバスの上に置いた。
──無差別性。
──逃げ場のない暴力。
──偶然を装った必然。
そう、解釈されるようになった。私は局地的な雨が好きだ。突然降って、突然止む。確かに濡れていた地面が、数十分後には乾いている。その切り替わりが好きだった。ただそれだけの。
三枚目は「遠雷」。
遠くで光る稲光を描いた。
暗い空の果て、キャンバスの最奥で雷が鳴る。人間にはどうしようもできない、自然の摂理。それを、ただそれを描きたかった。
──社会が無視した警告。
──兆候を見逃した結果。
私ではない思想が一人歩きを始めた。
四枚目は「濃霧」。
静かで朧気な朝を描きたかった。それなのに。
──洗脳。
──判断力の喪失。
──集団心理。
いつからか、それらの言葉が真実として語られた。
最後の絵は「雪雲」。
空全体を覆う厚い灰色。雪は描かず、ただこれから世界を白く染め上げる予兆だけを。
──救済が来なかった世界。
──終わりの始まり。
そう、読まれた。私は、私は──、天気を描いてきただけだ。現象としての天気。そこに善悪なんて存在しないし、起きるか起きないかだけの事象。けれど今ではそれら全てが、悪意の象徴として語られる。
──君という濁流に呑まれるようだ。天才としか言いようがない。
少し前まで、私は天才だと言われていた。恵まれた容姿から、気象を操る天使とさえ言われていた。作品は売れたし、展示期間中に完売することも珍しくなく、次の展示、次の企画、次の仕事が自然と決まった。
こんなことを言うと角が立つかもしれないが、評価を気にして描いていたわけではない。描かずにいられなかった。ただそれだけ。
それが変わったのは、父が起こした事件のあと。
半年前。
日曜日の渋谷。
スクランブル交差点。
違法に製造された銃と毒物。
信徒を引き連れた無差別テロ。
死者二百八十三人。
重軽傷者三千六百二十一人。
ラララ、ララ。
不気味な旋律を口にする集団。
父は新興宗教の教祖だった。
取り調べでは「神の声が聞こえた」「これは救済だ」「感謝してほしい」「これは逃れられない運命」「天気のように人が制御できない事象」と意味不明の供述を繰り返していたと聞く。薬物検査で覚醒剤反応が検出され、教団施設からは大量の覚醒剤が押収。後日、教団内での性的暴行も明るみに出た。現在判明しているのは六十二件。行為を撮影した映像もあり、まだまだ件数は増えそうだと。裁判は長引くだろうと言われたが、結論は見えている。父の死刑は確定だ。
私は、高校卒業と同時に家を飛び出し、父と縁を切っている。幼少期から洗礼だと言って、私にわいせつな行為をしていた父。家を出てから十年以上、会っていない。もう関係ない、私とは縁のない人。それでも、世間には関係があるらしい。事件の報道と同時に、私の名前が掘り起こされた。
──教祖の娘。
──犯罪者の血縁。
──教団の陰の広告塔。
そのあとだ。街のゴミ捨て場で私の絵を見つけたのは。額縁の角が割れていた。キャンバスは雨を吸って、重くなっていた。裏に貼ったタイトルシールは剥がされ、誰の作品かも分からなくなっていた。怒りが込み上げた。悔しさより先に、怒り。
それから、同じことが何度も起きた。
──もう飾れない。
──家に置いておけない。
──気持ち悪い。
そういう言葉を、直接ではなく伝聞で聞いた。父が供述していた「天気のように人が制御できない事象」という言葉。私の作品は、父の事件を説明する材料へと成り果てた。「蒼天」は事件直前の平穏。「雫」は無差別殺戮。「遠雷」は社会が見逃した警告。「濃霧」は信徒の洗脳。「雪雲」は救済の不在。
私は、天気として描いた。
社会は、事件として読んだ。
気象を操る天使ともてはやされていた私は、汚れた血の悪魔と罵られた。
画廊のガラスが割れたのは、個展を開いた初日。石が飛び、窓が割れた。生ゴミが投げ込まれ、酒瓶が投げ込まれ、真っ白な画廊は汚された。響いた罵詈雑言。警察は来たが、誰も捕まらなかった。「仕方がない」と、そう言われた。
ネットでも同じだった。連日続く私を名指しした刃物のような言葉たち。購入された絵が、引き裂かれる動画。燃やされる動画。
私は、何もしていない。
私は被害者だ。
──うるさい! 犯罪者が!
違う。それは私じゃない。
──ああ怖い! 悪魔に睨まれたわ! やっぱり悪魔の子は悪魔!
父とは関係がない。
私は私だ。
そう思い続けて、疲れた。もう誰も私を見ない。私として見ていない。私の絵も、私の絵として見てはくれない。
それにどうせ描いたところで、絵は壊される。それなら一度だけ、最後に、誰かの記憶に残るものを。
服を脱いだ。
父に汚されてから、誰にも見せていない裸。
空気に触れた肌が冷たい。
全身をキャンバスにする。
体が軽い気がした。
ラララララ、ララ。
自然と口から、歌が漏れた。なんだか、天使と呼ばれていた頃に戻れた気がした。
白い絵具を取り、肌の上に筆で描く。
ラララララ、天使、私、空、ララ。
描いたのは、天使が着る服。
純白。
けれど私は、汚され、堕ちた天使。
初めて、天気ではないものを描いた。
私は画廊を飛び出した。
人が見ている。
みんなみんな、見ている。
ほら、もっと私を、作品を見て。
私は走った。
雑居ビルの屋上へ。
ああ、綺麗な蒼天。私が描きたかった青。見てもらいたかった蒼。そこへ、私という作品を。
柵を越え、屋上のヘリに立つ。まるで翼が生えたように体が軽い。これでいい、よね? 蒼に溶け、雨のように墜ちていく。それで、私という作品は完成する気がした。眼下を見下ろすと、無数の視線。向かいのビルからも、私という作品を鑑賞する人々。
ああ、気持ちいい。
そうでしょ? 私の作品は素敵でしょ? その価値が分からないなんて、なんて可哀想な──。
──愚かな人々に鉄槌を。迷える人々に救済を。
聞こえたのは、優しげな声。振り返った先には、誰の姿もない。
「誰、ですか」
──君はもう、知っている。同じ血が、流れている。
そう、聞こえた気がして、全てを悟った。
「あなたが、父に」
──私は道を示した。君の父はそれに答えた。
この日、私は声を聞いた。
ララ、ラララ。
これから私が行うのは救済。愚かな人々は感謝してほしい。これは逃れられない運命であり、天気のように人が制御できない事象なのだから。
──天才としか言いようがない。
少し前までそう呼ばれていたことを思い出し、私は歌った。
ラララララ、天災、私、空、ララ。
ラララ──
──蒼に、溶ける(了)
蒼に、溶ける 鋏池穏美 @tukaike
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