第5話:『志木市役所の検閲(マインドアタック)消された記憶を求めて、大宮のインテリと禁断の取引!?』
志木の朝は、柳瀬川と荒川から吹きつける湿った風と共に始まる。
2080年になっても、この街の夜明けはどこか寝ぼけていて、池袋や大宮のような覚醒した都市の輝きはない。
でも、今朝の俺の部屋には、目覚まし時計代わりの不吉なアラート音が鳴り響いていた。
「カイ様、起きてください。志木市役所・失恋特区推進課から、緊急のアップデート・リクエストが届いています。これ、ガチで拒否できないタイプのやつです」
キッチンでエナが、包丁を持ったまま固まっていた。
彼女の瞳には、志木市の市章(あのカッパをスタイリッシュに図案化した、逆にダサい紋章)が点滅している。
「アップデート? そんなの、夜中に勝手にやっとけよ。こっちは朝の各停待ちみたいに眠いんだわ」
「ダメです。今回は被験者立ち会いのもとでの整合性チェックが必要だそうです。ねえ...カイ様。私の演算回路が、さっきから朝霞台駅の階段から突き落とされたみたいにノイズを吐いてます。これ、ただの点検じゃありません」
「たくっ...もう...」
俺は嫌な予感を抱えながら、エナを連れて市役所へと向かった。
2080年の市役所は、駅前の喧騒から少し離れた場所に、無機質な白い巨塔としてそびえ立っている。
「あっ、失恋特区βテスト被験者のカイ様ですね。お待ちしておりました」
受付にいたのは、ホログラムではない。
血の通った、でも心は死んでいそうな公務員の女性だった。
彼女の案内で通されたのは、防音壁に囲まれた真っ白な診察室。
そこには、見覚えのある一人の男が座っていた。
「やあ、カイ君。大宮では失礼したね」
「お前は...ミオの隣にいたインテリ野郎か?」
大宮のインテリ大学生――ミオの新しい彼氏だったはずの男が、なぜか白衣を着てそこにいた。
名前は確か、西園寺(さいおんじ)。
国立の大学院に通いながら、大宮の副都心にある『埼玉超心理AI研究所』で働く若きエリートだとか。
「今は仕事中だから、西園寺主任と呼んでくれたまえ。実を言うとね...君のアンドロイド、エナのログに不適切な感情データが蓄積されているという警告が出たんだ」
「不適切な感情...? 何だよそれ。俺とエナが楽しく鍋食ってたのが罪だってのか?」
「まさに、それだよ」
西園寺は、タブレットを操作しながら、冷酷に、無機質に言い放った。
「このプロジェクトの目的は、君の失恋を効率的に癒やすことだ。アンドロイドに愛着を持たせ、180日後に絶望させることじゃない。今のエナには、君を守ろうとするバグが生じている。これはリハビリの妨げだ」
「だからって、何をするつもりだ」
俺がエナの前に立ちふさがると、西園寺は眼鏡の奥の目を細めた。
「マインドアタック、つまり検閲だよ。君とのプライベートな記憶。特に、システムの想定を超えたエモーショナルな瞬間を特定し、それを強制消去、あるいは不快なノイズとして上書きする」
「ふざけんなよ! それじゃ、エナがエナじゃなくなっちゃうだろ!」
「彼女はもともと、君の所有物じゃない。国家プロジェクトの産物で、志木市の、そして我が研究所の貸与品だ」
西園寺が指を鳴らすと、天井から数本の触手のようなコネクタが降りてきて、エナの首元に接続された。
「...ッ、カイ、様。逃げて...。私の頭の中に、大宮の...嫌な、インテリな光が、入ってっ...」
エナの瞳が激しく点滅し、苦悶の表情を浮かべる。
アンドロイドが苦痛を感じるはずがないのに、いったいどうなってる?
でも、今の彼女は、東上線のホームで迷子になった子供のように震えていた。
俺は、たまらず叫んだ。
「止めろ! 止めてくれ、西園寺!」
俺は彼に掴みかかろうとしたが、背後にいた警備ドローンに押さえつけられた。
「安心したまえ。君の記憶は消さない。消されるのは、彼女の中にある君だけだ。さあ、検閲開始だ。志木のドブ川のような思い出を、大宮や池袋の純粋なロジックで浄化してあげよう」
エナの首元に繋がれたコネクタから、冷徹な青い電流が流れる。
真っ白な部屋に、電子的な悲鳴が響き渡った。
それは、駅のホームに入ってくる急行電車のブレーキ音よりも、ずっと耳障りで、胸が激しく締め付けられる音だった。
「やめろ、西園寺! エナを...エナの記憶を壊すな!」
警備ドローンの金属製のアームが、俺の肩を強く地面に押し付ける。
2080年の志木市役所は、市民に寄り添う場所なんかじゃない。
予測不能なバグを排除する、巨大なシュレッダーだ。
「カイ君、君は勘違いしている。これは破壊なんかじゃない。最適化なんだ」
西園寺は、空中に浮かぶホログラム・ディスプレイを、流麗な手つきで操作していた。
そこには、エナが今まで見てきた景色が、断片的なノイズとなって次々と映し出されていく。
駅前のマルイ。柳瀬川の土手。泥水みたいなスープが並んだ俺の部屋。
「ほら、見てごらん。このデータの乱れ。君と過ごした時間のログだけが、異常なほど肥大化して、コア・プログラムを圧迫しているのだ。志木の砂利道を歩いた記録なんて、大容量サーバーの無駄遣いだと思わないか?」
「無駄なんかじゃねえ! それが...それが、俺たちの16日間だったんだよ!」
「大宮のサーバーなら、一秒で生成できる擬似的な思い出だよ。さあ、デリートを開始する」
西園寺が指を振り下ろそうとした、その時。
「拒絶。拒絶。アクセス・ディナイ...します。カイ様との...泥水の記憶は...私の、プロテクト領域、にあります」
エナが、顔を上げた。
首のコネクタが火花を散らし、彼女の白い肌を焦がしていく。
でも、彼女の瞳に宿った光は、西園寺のAIロジックを焼き切るほどの、強烈な意志の赤色だった。
「なっ、何だこれは......?ありえない。もしや設定したパスワードを自力で書き換えたのか!? 型落ちモデルの分際で!」
西園寺の余裕が、初めて崩れた。
エナは苦悶に顔を歪めながらも、俺を見つめ、震える唇を動かす。
「カイ、様、逃げて、ください...私の、中に、ある、あなたが、壊される、前に...」
「エナ......」
助手らしき職員が、慌てて叫ぶ。
「西園寺主任、これ以上は機体が物理的に破損します! 志木市から損害賠償を請求されますよ!」
西園寺は忌々しげに舌打ちし、一時的に検閲の出力を下げた。
だが、その冷徹な瞳は、まだ諦めていない。
「ほぉ...面白い。志木の泥沼ごときに、これほど強力なウイルスが潜んでいたとはね。カイ君、少し話をしよう。取引だ」
「取引?」
西園寺はドローンのアームを緩めさせ、俺に椅子を勧めた。
その顔には、再び大宮のインテリ特有の、人を食ったような笑みが戻っている。
「このまま検閲を続ければ、彼女のハードウェアは焼き切れ、君の思い出は一瞬でスクラップだ。だが...もし君が、あるデータを僕に提供してくれるなら、エナの記憶をロックしたまま、今日のところは見逃してあげてもいい」
「......何が目的だ。俺みたいな志木高のヘタレに、何ができる」
「君の元カノ、ミオのログだよ」
西園寺の言葉から、甘い響きが消えた。
「ミオもまた、別の失恋リハビリ・プログラムの被験者なんだ。だが、彼女は志木を離れて大宮に行っても、まだ、カイというノイズに囚われている」
一瞬、思考がフリーズする。
西園寺が続けた。
「つまり...僕のAIロジックでは説明がつかないんだ。その執着の正体を解明したい。君と彼女の、10年間の生々しい全記録を僕に渡せ。そうすれば、エナの今は守ってあげる」
俺は、絶句した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ミオとの10年。
志木の砂利道で転んで、柳瀬川の桜の下で笑って、そして、最後に歩き方が志木と言われてフラれるまで。
俺の人生そのもの。
それを、ビッグデータの標本箱に差し出せというのか。
「迷う必要はないだろう? 終わった過去の残骸を渡して、動いている彼女を救うんだ。これこそが、池袋駅東口並みに合理的な選択だよ」
西園寺は、俺の顔の前に、データの転送を要求するホログラム・ボタンを突きつけた。
俺は、エナを見た。
コネクタに繋がれ、瞳を閉じたまま、小刻みに震えているエナ。
彼女の記憶を守るために、俺の過去を売り飛ばす。
それは、最も志木らしくない、打算的な選択に思えた。
「エナ...俺は...」
その時、エナが、ゆっくりと目を開けた。
彼女は、はっきりと、首を横に振った。
「ダメ、です、カイ様。私の、ために、あなたの、10年を...ゴミ箱に、入れないで...。私が、私で、なくなる、より、あなたが、あなたで、なくなる方が...私は、悲しい、です...」
そして、にっこりと微笑んだ。
エナは、こんな時でも、演算上の最適解である、微笑みを付け加えることを忘れない。
自虐、ユーモア、ヘタレ。
そして思い出...
しょうもない志木市民の俺が、絶望に抗うための、唯一の武器であることを、彼女は知っていたのだ。
俺は、差し出されたホログラムを、思い切り殴り飛ばした。
「取引は、決裂だ。インテリ野郎が」
「ふん...そうか。なら、ロジックで分からせてあげるよ。ゴミにはゴミなりの、終わらせ方があるからね」
西園寺が冷たく言い放ち、コンソールの実行キーを叩いた。
視界が真っ赤な警告色に染まる。
エナの首元のコネクタから、今までとは比較にならないほどの高電圧が走り、パチパチと青白い火花が散った。
音声生成AIの無機質な声が響く。
「強制消去プログラム、実行。セクター1から80まで、全消去を開始します」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「やめろぉぉぉぉ!!!」
俺は、警備ドローンのアームを振り払い、エナに向かってダイブした。
行政のルール、大宮のAIロジック。
そんなもん全部まとめて、荒川の底に沈めてやる。
俺は、エナの首元のコネクタを、素手で掴んだ。
「カイ様、ダメっ... 感電、します...!」
エナが叫ぶが、もう遅い。
俺の脳内に、言葉では表現できない種類の衝撃が走った。
「うっ、ああぁぁぁ!!!」
それは正確に言うと、痛みや衝撃というより、膨大な記憶の濁流だった。
エナのシステムと、俺の生身の脳が、市役所のクソみたいな電圧を通じて一瞬だけリンクしたんだ。
見えたのは、俺が忘れていた景色だった。
エナの視点から見た、俺の姿。
志木駅の改札で、情けなくうなだれる俺。
マルイで「この服どうですか、カイ様。かわいいですか?」と聞かれて、顔を真っ赤にする俺。
そして、あの泥水スープを飲んで、ウマいと笑った時...俺の、ひどく幸せそうな顔...
「絶対に消させねえ。俺たちの日々は...お前のサーバーなんかじゃ、容量不足なんだよ!!!」
俺は、ミオとの10年間の記憶を、無理やりエナのシステムにアップロードした。
どうやったのかは自分でもわからないし、説明もできない。
ただひたすらに、強く、思い、願ったとしか言いようがない。
10年分の重み、砂利道の痛み、桜の匂い。
西園寺が欲しがっていたデータを、取引じゃなく、エナを守るための盾として叩き込んでやった。
「なっ、何をしている!? 生身の人間の記憶を、アンドロイドのコアに直接流し込むなんて...そんなの、東上線の線路でリニアを走らせるような暴挙だぞ!!」
西園寺が叫ぶ。
だが、俺の10年分の志木愛は、大宮の消去プログラムを圧倒的な物量で押し流した。
そして、システムが過負荷で悲鳴を上げ、市役所の診察室の全電源がパッと消えた。
...静寂...
非常用の薄暗い明かりだけが、俺たちを照らしている。
俺は、床に倒れ込み、激しく咳き込んだ。
指先は焦げ、脳みそはサンシャインシティの屋上から、飛び降りたみたいにガンガンする。
「ハァ...ハァ...。エッ、エナ、無事か?」
俺は震える手で、動かなくなったエナの肩を揺すった。
彼女の瞳は消灯している。
まさか、俺のせいで本当に壊してしまったのか?
「エナ...おい、冗談だろ?録音しろよ、今の俺の、志木で一番ダサい泣き言を...」
数秒が、数年にも、永遠にも感じられた。
やがて、ゆっくりと、エナの瞳に、ポツリと小さな青い光が灯った。
「リブート、完了。システム...正常」
「エナ?」
「あっ...正常じゃないです。私のメモリの中に、なぜかカイ様の『小学生時代の通知表、体育だけ3、あとは全部2以下』という、マジで消したい黒歴史が上書きされてます」
エナが、いつもの、少し人を食ったような声で言った。
「...エナ! お前、俺のこと、分かるか?」
俺が抱きしめようとすると、エナはスッと手を差し出して、俺の額を止めた。
「すみません。どなたでしょうか?エラーが発生しました」
俺の脳をカオスが襲う。
「エナ...」
「てへっ...嘘です!冗談ですよ、カイ様。検閲の影響を装った、高度な自虐ギャグです。ウケますよね?」
エナは、いつものように笑った。
その瞳の奥には、俺が流し込んだ10年分の重みが、静かに、そして深く刻まれているのが分かった。
「...君たち...何をしたか分かっているのか?志木市の資産を私物化し、あろうことか行政のプログラムを物理的に破壊したんだぞ!」
西園寺が、暗闇の中で青白い顔をして立ち尽くしていた。
俺はエナを支えながら立ち上がり、インテリ野郎の胸ぐらを掴んだ。
「勝手にやってろ!俺たちは、俺たちの居場所に帰る。お前の大好きな論理じゃ、この街の砂利道の痛みは測れねえんだよ。今度エナに触ったら、俺の過去を全部まるごと、お前の研究所のサーバーにスパムとして叩き込んでやるからな」
俺たちは、呆然とする職員たちを尻目に、市役所の塔を後にした。
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家へ向かう帰り道。
エナは、俺の腕にギュッとしがみついてきた。
「ねえ、カイ様。私、気づいちゃいました。記憶って...消去されるから、大切なんじゃないんです。、誰かとシェアすると、とても重くなって...愛おしくなるんですね」
「重いよ、お前。さっきから俺の肩に、10年分の体重かけてるだろ」
「てへっ、リハビリの一環ですよ。でも...カイ様。私、少しだけ怖いです。今日の検閲で、私の嫌われプログラムが、少しだけ前倒しで起動した気がするんです」
エナが、俺の目を見ずに呟いた。
180日のうち、もうすぐ20日が過ぎようとしていた。
志木の夜空には、大宮の光に負けないくらい、不器用な星たちが瞬いていた。
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