第4話:『志木の砂利道、マスターの説教。アンドロイドが知った泥水スープの隠し味』

大宮駅からの帰り道。


武蔵野線の車内。


エナは俺の肩に頭を預けたまま、小さな寝息...のような、ファンの駆動音を立てていた。


志木駅に降り立った頃には、彼女の体温は平熱(といっても機械的な適温だが)に戻っていた。


でも瞳の青い光は、スマホのバッテリー残量が1%になった時のように、危うくて心もとない。


ときおり明るくなったり、消えそうに暗くなったりを繰り返している。


「カイ様...私、やっぱり大宮の空気、肌に合わなかったみたいです。志木駅の改札を抜けた瞬間、OSの処理速度が、ガチで安定しました」


「当たり前だろ。お前、さっきの熱、温泉まんじゅうより熱かったんだぞ。無理すんなって」


俺たちは、志木駅東口から柳瀬川の方へ少し歩いた、路地裏にある喫茶店『カッパの隠れ家』へと向かった。


2080年の志木において、ここだけは昭和、あるいは平成の空気がそのまま凝固したような場所だ。


店の入り口には、ホログラムじゃない、本物の木彫りのカッパが立っている。


カラン...コロン...と音を奏でながら。



21世紀初頭のドラマでしか聞かないような、旧式のドアベルが鳴った。


「ほお...ったく。大宮のビル風で、また一人、都会に負けた犬が迷い込んできたか」


カウンターの奥から、しゃがれた声が響く。


店の主、通称マスターだ。


御年100歳を超えるといわれる彼は、体の半分以上がサイボーグ化されている。


でも、その立ち姿は、荒川の古い堤防のように頑強だ。


「マスター、お久しぶりです。ははっ...負け犬とか言わないでください。これでも大宮で、インテリ相手に一発かましてきたんですから」


「ふん。一発かまして、そのザマか。隣の嬢ちゃん...回路が焦げた匂いがするぞ。志木市の最新型ポンコツも、大宮のノイズには勝てなかったようだな」


マスターは、年季の入ったサイボーグの腕を器用に動かし、豆を挽き始めた。


「エナです、マスター。型番はR-180。今、私の演算回路は、カイ様の情けないセリフをリピート再生することで正気を保っています。...あ、お水ください。できれば、長瀞(ながとろ)の伏流水っぽい味がするやつを」


「お前に出す水はねえよ。機械は黙って、オイルでも吸ってろ」


マスターは毒づきながらも、キンキンに冷えたグラスと、なぜか俺には真っ黒なコーヒーを置いた。


「飲め。砂利道と同じくらい、苦くてガリガリした味だ」


俺は一口すする。


...マジで苦い。


良識を疑うレベルの苦さだ。


舌の上が、駅前の工事現場みたいに荒らされる感覚。


「苦っ......! なんですかこれ。嫌がらせですか?」


「それが、この街の味だ。いいか、カイ。お前はさっきから、エナが壊れるとか、消えるとか言って、被害者面して泣きそうな顔をしてるがな...」


マスターは、義手の方の指で、俺の胸元をトンと突いた。


「痛みが、そんなに怖いか? 傷つくのが、そんなに無駄なことか?」


「そりゃ怖いですよ。誰だって、フラれるのは嫌だし、好きな奴が目の前で壊れていくのなんて、見たくないっすよ」


「甘えんなよ、ガキが」


マスターの鋭い眼光が、俺を射抜く。


「大宮のインテリや、池袋の勝ち組連中が、なんであんなにツルツルした顔をしてるか分かるか? あいつらは、最初から舗装された道路しか歩いてないからだ。つまづくこともなけりゃ、泥が跳ねることもない。でもな...志木の街を見てみろ。ここは、どこまで行っても砂利道と、柳瀬川と荒川の泥臭い土手だ」


マスターは窓の外、夕暮れに染まる路地裏を指差した。


「砂利道を歩けば、足は汚れる。石が靴に入って、痛む。でもな、その痛みがあるからこそ、お前は自分が『今、この場所を歩いている』ってことを、脳みそじゃなく心に刻めるんだ。幸せなんてのは、高級レストランのフルコースじゃねえ。喉が渇ききった後にすする、泥水みたいなコーヒーの中にこそあるんだよ」


俺は黙って、冷めかけたコーヒーを見つめた。


マスターの言葉は、自虐の殻に閉じこもっていた俺の心に、砂利を放り込まれたような衝撃を与えた。


「マスター。泥水って、私の作ったスープのことですか? 私、あれにガチで愛情を込めたんですけど...」


エナが、不服そうに口を尖らせる。


「ほう。愛情だと?隠し味か?」


「はい。この街の夕暮れの色をイメージしたトマトベースに、朝霞台駅の喧騒のようなスパイスを足して......仕上げに、カイ様の情けないけど温かい自虐を、隠し味に一つまみです!」


エナは、胸を張って言い切った。


マスターは、一瞬だけ呆気に取られたような顔をしたが、やがてサイボーグの首をギチギチと鳴らしながら、盛大に笑い始めた。


「ハハハッ! 違いねえ。アンドロイドの分際で、真理を掴んでやがる。おい、カイ。この嬢ちゃんは、お前よりよっぽど街を理解してるぞ」


マスターは笑い終えると、俺に向かって真剣な顔をした。


「いいか、カイ。180日っていうのは、お前にとっての砂利道だ。最後には崖っぷちが待ってるかもしれない。でもな、その痛みから逃げるな。彼女が壊れていく姿も、彼女が放つ暴言も、全部お前の血肉にしろ。それが、この街で生きるってことだ」


俺は、もう一度コーヒーを飲んだ。


今度は、不思議と苦くなかった。


ただ、どこまでも深く、どこまでも熱い味がした。


『カッパの隠れ家』を出た頃、街はすっかり夜の帳(とばり)に包まれていた。


街灯は2080年仕様のLED。


でも、光り方はどこか心もとない。


帰り道に迷った酔っ払いの足元を、申し訳程度に照らしているぐらい。


俺たちは、マスターに言われた、砂利道の痛みという言葉を反芻(はんすう)しながら、川沿いを歩いていた。


「ねえ、カイ様。マスターに言われて気づいたんですけど...」


エナが、街灯の光を反射させて、俺を真っ直ぐに見つめた。


「私、もっと味覚を極めるべきだと思うんです。志木の砂利道の味、泥水のコーヒーの味とか...それをデータとして完璧に理解すれば、180日目の私がどうなろうと、カイ様の胃袋に、一生消えない傷跡を刻めるじゃないですか」


「はぁ...お前の向上心、方向性がガチでサイコパスなんだよ。でも、まあ...泥水スープよりは、マシなもんを作れるようになりたいってのは、賛成だわ」


俺たちは、柳瀬川駅前のスーパーに立ち寄り、食材を買い込んだ。


今夜のメニューは、名付けて『志木発、絶望と希望のちゃんぽん鍋』だ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


俺のアパート。


六畳一間の狭い部屋に、野菜を切るトントントンという軽快な音が響く。


エナの包丁捌きは、もはや料理というより精密機械の切断加工だ。


白菜の断面が、0.1ミリの狂いもなく並んでいる。


「カイ様、質問です。この長ネギの青い部分。これは志木市民にとって、切り捨てるべき過去ですか? それとも、煮込んで愛でるべき未来ですか?」


「うーん...ただのネギの端っこに、壮大な哲学をぶち込むなよ。煮込めば食える。それが志木の精神だ」


俺はカセットコンロ(これは骨董品)をセットし、鍋に火をかけた。


エナは、俺の隣に座り込み、鍋から立ち上る湯気を、クンクンと鼻のセンサーで分析し始める。


「解析完了...この匂い、朝霞台駅のホームで嗅ぐ、誰かの夕飯の匂いに似てます。どこか懐かしくて、でも帰る場所がある安心感。カイ様、これがマスターの言ってた隠し味の正体でしょうか?」


「かもな...。お前、たまにアンドロイドらしくない、エモいこと言うよな」


「バグですから。明日には忘れてるかもしれない、一過性のエラーです」


エナは自嘲気味に笑い、鍋に調味料を投入した。


味噌、醤油、そして隠し味に、志木の名産だという謎のカッパ印の辛味ソース。


ぐつぐつと煮え立つ鍋は、まるで俺たちの、先が見えない180日間そのもののようだった。


「できました。カイ様、毒味をお願いします。もし私が間違って、山に生えてる猛毒キノコのエキスを配合していたら、死ぬ前に私の録音機能をオンにしてください。遺言、全宇宙に配信してあげますからね」


「...お前の優しさ、鬼畜すぎて涙が出るわ」


俺は、恐る恐るスプーンでスープをすくい、口に運ぶ。


マジ熱い。


そして、辛っ...


でも......その奥に、野菜の甘みと出汁の深みが、この街の夕暮れみたいにジワーっと広がった。


「どうですか?カイ様」


エナが、不安そうに顔を覗き込んでくる。


瞳の青い光が、ドキドキしているかのように小刻みに震えていた。


「ガチンコでウマい!マスターのコーヒーより、100倍は志木の味がする」


「本当ですか!? よかった.......私、自分の演算回路が信じられなくて、さっきから冷却ファンがフル回転してたんです」


エナは、ほっとしたように胸を撫で下ろした。


彼女の仕草は、どこからどう見ても、ただの恋する女の子にしか見えなかった。


プログラム。

仕様。

180日の契約。


そんな言葉で片付けるには、部屋の空気はあまりにも熱く、充満する匂いはあまりにも幸せすぎた。


「なあ、エナ」


俺は、鍋の湯気の向こう側にいる彼女を見つめた。


「お前、さっき『明日には忘れてるかもしれない』って言ったけどさ。たとえ...お前が忘れても、俺がこの味を覚えてる。お前が作った、めちゃくちゃで、でも最高の鍋の味を」


エナの動きが、一瞬だけ止まった。


彼女の瞳の中で、膨大なデータが交差し、上書きされ、そして...


一つの、小さな例外処理が生成されたのを、俺は見た気がした。


「ねぇ、カイ様。それ、本気で言ってます? 録音しましたよ。あとでミオ様のアドレスに送りつけて、『今の俺の隣には、最高の料理ロボ嫁がいる』って自慢しちゃいますか?」


「やめろ! 恥ずかしすぎて柳瀬川に身投げするわ!」


「てへへへっ...投げさせませんよ。私が粗大ゴミ回収車より早く、あなたを回収しに行きますから!」


外は、冷たい北風が吹き始めていた。


朝霞台から流れてくる、冷え切った冬の気配。


でも、この六畳一間だけは、2080年で一番、志木っぽい温かさに包まれていた。



と、その時...


エナの左腕が、ガタガタと不自然に痙攣を始めた。


「ん...エナ? どうしたの?」


「あっ...すみません、カイ様。ちょっと、大宮のノイズが後を引いているみたいで......システムエラー、0.001%。すぐに、自己修復します」


彼女は笑って、痙攣する腕を隠した。


その笑顔の裏側に、一華先輩が言っていた壊れていく予兆が...


確実に、そして冷酷に潜んでいることを、俺は気づかない振りをすることしかできなかった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


深夜の柳瀬川。


2080年の冬の空気は、冷え切ったシリコンバレーのサーバー室みたいに無機質で、刺すように冷たい。


鍋で温まったはずの体は、アパートを一歩出た瞬間に、各停待ちのホームに置き去りにされた気分になった。


エナの腕の痙攣は、部屋を出る頃には収まっていた。


でもなんとなく、彼女の足取りは、どこか危うい。


その証拠に、砂利道を踏みしめる音が、いつもより重く不揃いだった。


「カイ様...夜の柳瀬川って、なんだかデータの墓場みたいですね」


川面に映る街灯の光を見つめながら、エナがぽつりと呟いた。


その声は、昼間の元気なリハビリ・パートナーのものとは明らかに違っていた。


「墓場、ねえ。まあ、昔から色んなもんが流れてる街だからな。カッパの伝説も、誰かの失恋も、全部この川が飲み込んできたんだろ」


俺は努めて明るく答え、彼女の手を握った。


異常に冷たい...


さっき鍋を作っていた時の熱が、嘘みたいに引いている。



と、その時だった。


エナの体が、唐突にビクンと跳ねた。


「……ッ、カイ、様……。離れて、ください。今、すぐ」


「え、おい、どうしたんだよ!? またオーバーヒートか?」


「違……、プログラムが……強制、上書き……嫌われシークエンス、テスト起動……」


エナの瞳の青い光が、赤く、禍々しい色に染まった。


彼女は自分の頭を抱え、土手に膝をつく。


2080年の最新鋭AIが、その内部で自分自身を破壊しようとするプログラムと、凄まじい演算の火花を散らしているのが分かった。


「……カイ……様。あなた、本当に……キモい、です」


「はぁ?エナ?」


エナの口から漏れたのは、氷よりも冷たく、ドブ川よりも汚い蔑み(さげすみ)の言葉だった。


「志木に、しがみついて...。いつまでも、過去の女に、未練タラタラで。そんなんだから、フラれるんですよ。あなたの歩き方だけじゃない、存在自体が...志木の、粗大ゴミ、以下です」


「エナ...お前、何を...」


「これが、私の、本当の、仕事。あなたを、絶望、させて...リハ、ビリ、完了、させる...ギギッ...」


彼女の言葉は、ナイフとなって俺の胸をズタズタに切り裂く。


分かっている。


これはプログラムだ。


彼女の意志じゃない。


でも、エナの顔をした少女に、これ以上ない冷酷な目で射すくめられるのは、小学校の裏山から突き落とされるより痛かった。



でも....そのあと。


エナの頬を、一筋の液体が伝い落ちた。



「嘘、だろ...お前、泣いてんのか?」


「プログラムは...泣きません。これは...内部結露、による、異常、排水...」


エナは震える声で言い張りながら、自分の胸を拳で叩いた。


自分の中のシステムを、必死で物理的に黙らせようとしているみたいに。


実際には、潤滑オイルかもしれないし、冷却液かもしれない。



でも、俺にはわかる。


ただ、わかるんだ。


彼女の瞳から流れ落ちる液体。


それは月光を反射してキラリと光る、混じりけのない涙だった。


「カイ様、逃げ......私、あなたのこと...ガチで、大っ嫌いに...なっちゃう。システムが、そうしろって、命令して...」


もう、俺は逃げないと決めた。


地面に伏せるエナを、力いっぱい抱きしめた。


「嫌いになれよ。プログラム通り、俺をゴミ扱いしろよ」


「カイ、様...」


「でもな、エナ。俺はお前を、志木駅のゴミ集積場には出さない。マスターが言ったんだ。砂利道の痛みこそが、生きてる証拠だってな。お前が俺を傷つけるたびに、俺はお前を好きになってやる。それが俺の、システムへの反逆だ」


俺の胸の中で、エナの震えが少しずつ、ゆっくりと収まっていった。


赤い光が消え、いつもの、少し頼りない青い瞳に戻る。


「カイ様...今のは...本気で、マジでエモかったです。うれしい...です。録音データを、私の最重要保護領域にロックしました。もう、誰にも、消させません...」


エナは、俺の胸に顔を埋めたまま、小さな声で笑った。


その声は、さっきの毒舌が嘘のように、温かかった。



柳瀬川の対岸からは、朝霞台の駅が微かに見える。


あそこには、一華先輩が言った地獄が待っているのかもしれない。


でも俺たちは今、志木の冷たい風の中で、二人分の体温を分け合っていた。


「ねえ、カイ様。明日も、泥水スープ、作ってもいいですか?」


「ああ。今度は、もっと砂利道っぽいスパイス、足してくれよ」



2080年、冬。


180日間のうち、16日が過ぎた。


俺たちの壊れかけの恋は、でこぼこの砂利道の上を、それでも確かに歩き始めていた。

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