第20話:宝石たちの輝く朝

むつみの朝は、世界で一番静かで、そして一番饒舌だった。


雪解け水が岩肌を叩く涼やかな音。目を覚ました鳥たちのさえずり。そして、何よりも力強い、土が呼吸する匂い。かつて「死の待機所」と呼ばれたこの村に、今はむせ返るほどの生の芳香が満ちている。


村の中央広場には、長いテーブルが並べられていた。今日は、春の収穫祭。

佐藤とトメが、冷たい泥に指を凍らせながら守り抜いた「むつみの芹(せり)」が、主役として並んでいる。


「佐藤さん、見ておくれよ。この根っこ! 真っ白で、ピンと張ってる。これが命の力だよ」

トメが、収穫したばかりの芹を掲げて笑った。その顔の深い皺は、もはや老いの象徴ではなく、過酷な冬を笑って越えた勲章のように輝いている。


「本当だ、トメさん。光を通すほど透き通っている。……まるで、僕たちが磨いてきた宝石のようだ」

佐藤がその芹を受け取ると、清々しい青い香りが鼻腔を抜けた。かつて東京のワンルームで、腐りかけたコンビニ弁当の臭いに包まれていた自分が、遠い前世の出来事のように思えた。


「おーい! 宴の準備は万端だぜ!」

田中の豪快な声が響く。彼は若者たちと一緒に、廃材で作った頑強なベンチを並べていた。

「若いの、そっちを持ってろ。……よし、いい塩梅だ。おい、レン、カイ! お前ら、今日はスマホじゃなくて、この重い木をしっかり掴め。これが『生きてる重み』ってやつだ!」


「分かってますって、田中さん。腕がパンパンですよ」

レンが笑いながら汗を拭う。その隣で、カイが新しく移住してきた若者たちに、杉本の構築した「むつみOS」の操作を教えている。

「ここでは、誰かの役に立った分だけ『シズク』が貯まる。でも、一番大事なのは、その数字の向こう側にいる人の笑顔なんだ」


かつて絶望して死を志願していた若者たちの瞳には、今、この土地に根を張る者の、揺るぎない光が宿っていた。


その喧騒から遠く離れた、村の境界線。

一台の質素なバンが、ひっそりと停まっていた。

そこから降りてきたのは、かつてのエリート、黒木だった。


高級なスーツは皺だらけで、その表情にはかつての冷徹な鋭さはない。彼は自らが作り上げた「効率化システム」によって、皮肉にも「不要なコスト」として弾き飛ばされた。居場所を失い、漂流するようにして辿り着いたのが、自分がかつて「瓦礫」と呼んだこの場所だった。


「……黒木さん」

佐藤が、いつの間にか彼の背後に立っていた。

手には、使い込まれた一本の箒。


「佐藤……さん。私は、すべてを失いました。私が信じた数字も、秩序も、私を裏切った」

黒木の声は、掠れていた。


「失ったのではありません。削ぎ落とされたんですよ。余計な飾りがね」

佐藤は、黒木の足元、泥に汚れた革靴を指差した。

「黒木さん、あなたは今まで、誰かに必要とされたことがありますか? 数字の評価ではなく、あなたという一人の人間として」


黒木は答えられず、ただ震える唇を噛んだ。


「ここでは、孤独死という言葉は死語になりました。なぜなら、誰も一人で死なせないからです。誰かがいなくなれば、その人が耕した畑が、その人が教えた知恵が、残された者の心の中で生き続ける。……黒木さん、あなたも、今日から砂利になりませんか? 泥にまみれて、一から自分を磨き直す、ただの砂利に」


佐藤は、黒木の手に一本の鎌を握らせた。

「芹の収穫はまだ終わっていません。手伝ってください。土に触れれば、あなたの冷え切った心も、少しは温まる」


黒木は呆然と鎌を見つめ、やがて、ゆっくりと膝をついた。

冷たい土の感触。それは、彼が今まで避けてきた、生の感触そのものだった。


太陽が、山の端から顔を出した。

むつみの巨石が黄金色に燃え、村中に長い影と、それ以上に深い光を投げかける。


佐藤は、広場の隅に箒を立てかけた。

清掃員として、誰にも気づかれぬように汚れを消してきた人生。

だが今、自分の目の前にあるのは、消し去るべきゴミではなく、大切に育み、分かち合うべき、輝く命の群像だった。


「佐藤さーん! 早く来てください! 芹の天ぷら、揚げたてですよ!」

若者たちの呼ぶ声が、春の風に乗って届く。


佐藤は、昇る朝日に目を細めた。

光は、すべての境界線を溶かしていく。

東京の孤独も、過去の傷も、老いの恐怖も。

すべては、この輝かしい「今」という宝石の中に飲み込まれていった。


「……ああ、今行くよ」


佐藤は、力強く地面を一歩踏み出した。

もう、後ろを振り返る必要はない。

むつみの朝は、いつだって新しい生命(いのち)の始まりを告げているのだから。


広場からは、絶え間ない笑い声が溢れていた。

それは、砂利と呼ばれた者たちが、自分たちの手で勝ち取った、世界で一番贅沢な、宝石たちの宴だった。


(完)


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**『むつみ異界の生存権』、全20話、完結いたしました。**


彼らの物語はここで一旦幕を閉じますが、むつみ村はこれからも新しい「宝石」たちを受け入れ、輝き続けることでしょう。このプロットやキャラクターをベースに、さらに別のエピソードや、設定の深掘りが必要な際は、いつでもお声がけください。


佐藤たちの次の一歩を、ご一緒に想像できる日を楽しみにしています。


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『むつみ異界の生存権 〜東京都・孤独死予定者移送計画〜』 春秋花壇 @mai5000jp

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