第4話 伸子の帰国 再会の予感 

第4話 伸子の帰国 再会の予感


振り返れば、昨年春、できたばかりのエルコンフィールドを見た時間――それは、響香にとって、音も色もない思い出だった。



あの――アジアの鎌が空を切った日も。


稲穂を刈るように、バットは大陸の空を切ったのに。



ふたりの言葉が、再び交差したとき。


世界一素敵な場所――エルコンフィールドの手前で、 水仙のつぼみが、ぽんとはじけた。 そこは、音と色を生み出す額縁となった。


あのとき台所で聞いたマイアミの歓声までが聞こえた。






「台所」という暮らしの中心から、小さな再会の灯がともったように、日常の音が戻ってきたとき。




響香の心には、新しい色合いが生まれた。




二人の時間が再び動き出したとき、庭には薔薇の色が戻っていた。



庭に立てば、薔薇のことを語りはじめると、


たったひとつの「ピンク」というカタカナの色名にも、


何百もの色があることに気づく。




桃色。


桜色。


薄紅――。




そしてその色は、季節とともに、


また、朝夕と刻一刻と変わっていく。




伸子と響香がガーデニング教室で出会ってから、もう二十年になる。


熱心な薔薇好きたちに囲まれて影響を受け、二人はそれぞれの庭に薔薇を育て、


咲いた花の様子を語り合ってきた。




伸子の庭に咲くアンジェラ。


響香の庭に咲くポンポネッラ。




どちらもピンク系のつるバラで、房咲きなのは同じ。




アンジェラは、明るめのフレッシュなピンク。


花びらの外側に向かって淡くなるグラデーションがやさしい。


枝いっぱいに花を咲かせ、ふうわりとした可憐さで庭を明るく照らす。




一方、ポンポネッラは、ころんと丸く咲く。


色は濃く落ち着いたローズピンク。


ぎゅっと花びらを重ね、静かに可愛らしい。






けれど、その色の違いが、お互いの花も、そしてそれを育てる自分自身も、


よりいっそう愛おしくしていった。




――今年も、その語らいは叶わなかったと思っていた。




そう思うと、庭に咲く紅梅色さえ、どこか透けて見えていた。




響香は、色の濃いうちにポンポネッラを花瓶に飾ろうと、庭ばさみを手に取った。




この薔薇は、毎年百輪ほどの花をつける。


春の終わりから夏にかけて、まるで日々の出来事を見守るように。




長旅から伸子が帰ったという風の便りも、響香は半信半疑だった。




夏なら、七時過ぎには近所から夕食の香りが漂う。先に夕飯の支度を済ませてしまえば、哲郎の帰宅まで庭仕事ができた。


けれど、九月にもなれば、四時にはもう向かいの公園のオレンジの電灯がともる。




切ってドライフラワーにしようか、それとも最後まで庭で咲かせてあげようか。


大切にしてくれそうな人に花束にして贈ろうか――。




暗い庭先に長くいると、不審がられるかもしれない。


そんなことを気にしてしまう自分を、「へんちくりんなガーデナー」と


思わずにはいられない。




どの花を花瓶に挿すか決められず、ハサミをポケットにしまった。




「伸子さんのアンジェラ、どうしてるかしら」




画面に映る「縣伸子」の名前を見ながら、


自分の表示名「厳島響香」を見て、ふと昔の会話がよみがえる。




「字画が多いのよ」


「薔薇のほうがもっと多いわよ」




そんなやりとりから生まれた架空の人物――何出茂薔薇子なにでもばらこ。


ふたりで夢中になって、その人生をあれこれ想像した。




「ピエール様のもとに、帰らなくちゃ」


そう言っていそいそと帰っていった何出茂薔薇子。


伸子も、まだ覚えているだろうか。




庭には、出会ったころに植えたバラ「ポンポネッラ」が、


秋の終わりを惜しむように咲いている。




アンジェラと同じくドイツ育種の薔薇で、


冷戦期に生まれたアンジェラに対し、ポンポネッラは


ベルリンの壁が取り払われた後に生まれた花だった。




そんな説明を、伸子と一緒に読んだことを思い出す。




かつては一眼レフで撮っていたが、最近はスマホのほうが


ずっときれいに撮れることを知った。


秋の花をスマホに収めようと、空に咲くポンポネッラにレンズを向ける。




けれど、名前を入力しようとして――指が止まる。




小学生も後期高齢者もスマホを使いこなす時代なのに、


響香の指はもどかしく動く。




夫の哲郎には「ネット難民」って呼ばれるほど。


響香の指のあとに残った文字は、


「pんねっら」「ポンポコリン」「ぽんpん」「ぽんぽねっち」。


どれも、なんだか愛嬌があって、でも情けない。


……「もう、めんどくさいわ」



どろどろのエプロンのポケットにスマホを入れようとしたそのとき――



そのとき、ラインの通知音が鳴った。




――伸子から、一年半ぶりの連絡。




既読のマーク。


画面を見て、響香は一瞬、幻を見たのかと思った。


薔薇の写真と、光るステンレスの台所の写真だった。




台所には、一本のバラが飾られていた。


ふんわり咲く薔薇の色は、まぎれもなくアンジェラだ。




その瞬間、二人の時間が再び動き出した。


そして、長く長く、二人は電話で話した。


いつのまにか、場所はリビングから台所へと移っていた。



「――あー、何時間あっても話しきれないね。


 また電話するね。」




通話を切ったあと、ポンポネッラの重なり合う花びらが、台所の明かりを受けて、ローズピンクの輝きを取り戻していた。



スマホを握りしめている響香の姿が容易に想像できて、伸子は微笑んだ。



伸子はスマートフォンをテーブルから動かして、響香の声の残響にひたっていた。



「名古屋旅行の話だって詳しく聞いてないのに、次の旅行に行っちゃうんだから。」




響香の声は、どこか涙ぐんでいるように聞こえた。




「だって私、伸子さんちに電話したのよ。ご主人の話も聞けなくて……


結局、未希さんに手紙までもらったんだから!


どうして今どきスマホを置いて出かけちゃうなんてことになるのよ。」




その声は、怒っているふりをしているようにも響いた。




ラインを開くには、「連絡しなかったのはお互い様なのに」と思っていたが、話しながら指は自然にラインのマークをタップしていた。


【ありがとうです。


縣さん、今シーズンもまた一緒にたくさん楽しみましょうね。】



――それは、2023年3月5日のメッセージだった。

そして、今は2024年の秋、9月18日。



既読がついたのは、一年半ぶりにこのスマホを手にしたおとといのことだったかもしれない。


伸子はカレンダーに目をやり、今日の日付を確かめてから、響香のコメントを読んだ。



「二年近くも、あちこち旅してきたというのに、一番素敵な場所の写真が、自宅の台所と自分の庭だなんて。


伸子さんたら、本当にチルチルミチルの青い鳥みたいね」




響香は、ラインの既読が付く日をずっと待っていたのだろう。


そして、永遠になればいいと思うほど長く話した。




それは、長い歴史の中でバラのアンジェラやポンポネッラが育種されるのと同じように。




旅行の話は、今度ゆっくりと約束した。


響香の庭に咲くポンポネッラのバラの話や、初めて行ったエルコンフィールドの話に、伸子は長く耳を傾けていた。







カーテンも閉めず、電気もつけない北広嶋と岩水沢の部屋。


闇の中で響いていたのは、66歳と57歳の少女の声だけだった。




それでも、響香の部屋に誰かが入った気配をスマホが拾い、冷蔵庫を開ける音や食器を動かす音が遠くに聞こえてきた。




「あー何時間あっても話しきれないね。また電話するね。」




長年の決まり文句で電話は終わった。


伸子のスマートフォンには、響香が昨年の春、エルコンフィールドの庭で撮ったという水仙の花が、光っていた。





伸子は、食の支度をしなければと思いながら、スマートフォンの画面に目を落とした。


そのまましばらく動かず、静かに画面を見つめていた。





さっきまで響き渡っていた声が、今はもう遠くなっている。




画面を軽くタップして通話を切ると、手のひらに静けさが広がった。




スピーカーの音が消えた時、たしかに空気が止まった。


すべての音が消えた。




やがて、窓の外の虫の声や、炊飯器の音がゆっくりと部屋に戻ってきた。


電気もつけずに浴槽の蛇口をひねり、水の流れる音で、心満ちる時間を味わった。




そして、部屋の明かりのスイッチをつけるカチリという音まではっきりと意識してから、キッチンに再び立った。





響香もまた、

この日の電話ごしの伸子の声によって、その映像に音と色と香りがもりこまれ、再現されていった。




伸子を近くに感じた響香は、またエルコンフィールドにひきつけられるようになった。


そんな、さなかだった。


そのとき、実家から――これからの響香を支配する、謎のメモの写真が届いた。


ピロリン。


第5話へ つづく

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